よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№3草加宿~越谷宿(埼玉県草加市~越谷市)

2019-05-26 10:41:35 | 奥州街道(日光街道)

草加松原を過ぎ綾瀬川の蒲生大橋を渡ります。この橋が草加市と越谷市の市境です。

  

蒲生大橋を渡った所が「蒲生の一里塚」です。日本橋から5番目の一里塚です。

 

一里塚の横には、「藤助河岸跡」。案内板を見ると、綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。

当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに

江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。  明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、特に中川通りは寄洲の堆積で

大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。このなかで陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、

大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。

その出荷高は、舟の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間1万8千駄、着荷は2万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。 

なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。

 

不動明王道標:享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。

清蔵院: 天文3年(1534)の創建で山門は寛永15年(1638)の建立。「龍」の彫刻は、名人左甚五郎作と伝わる。夜な夜な山門を脱け出し畑を荒らしたところから金網で囲われている。

  

窮民救済の碑: この石碑は、天保9年(1838)1月に観音堂敷地内に稲垣宗輔らが建立した碑である。稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏、池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曾根村名主

中村彦左衛門重梁の次男である。この日を要約すると、名主中村彦左衛門は、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金をしていたが、天明年間の凶作年に御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え

飢餓より救った。重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣宗輔はこれを受け、文政9年(1826)浅草猿屋町会所御貸付所に百両を預金し、天保7年(1836)の大凶作に

そこから92両をおろし、瓦曾根村の窮民92名に1両づつ施金してこれを救った。銘文と歌は、恩間村の国学者渡辺荒陽によるものである。

  

越ヶ谷宿の中心部にやってきました。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は、1005軒、うち、本陣1、脇本陣4、旅籠52軒で宿内の人口は、4603人(男2272人、女2331人)でした。

宿並は、明治7年(1874)と明治32年(1899)の大火で灰燼に帰してしまいました。現在の人口34万人。

宿場内を歩いてみると奥まで黒塀が続く古民家や、黒塗りの古民家なども見られます。又、古くからの荒物屋、金物屋さんが目につきます。そんなに需要があったのでしょうか?

 

   

 

  

元荒川に架かる大橋を渡ります。

  

渡った所が昔の本陣、脇本陣があった所です。残念ながら、案内板もなくガイドブックを頼りに探します。

   

宮内庁埼玉鴨場というのがあります。鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)皇室用の遊猟場として建設されました。約11万7000㎡の敷地の中に約12000㎡の鴨池があります。

勿論立ち入り禁止です。

下間久里香取神社には、獅子舞があります。下間久里の獅子舞は、1594年(文禄3年)に京都から伝わったとされ、昭和54年に埼玉県の無形民俗文化財に指定されました。雨下無双角兵衛流とも呼ばれ、

埼玉県東部や千葉県西部の獅子舞行事の源流とされており、春日部市や千葉県野田市に伝わったとされる記録も残っています。  現在は毎年7月第3日曜日に行われ、神社で獅子舞が奉納された後、

家内安全や五穀豊穣を祈願し、丸一日かけて地域の家々を回ります。

  

日光街道参考書には、この近くに「秋田炉(しゅうでんろ)跡」があるように書いてますが、探すけど見つかりません。近くの家で聞きますが、「知らない」とのこと。仕方ないのでそのあたりを探していると

昔から住んである農家の方に聞いてみました。「確か上原さんの所じゃないかな?参勤交代で秋田藩佐竹侯が立ち寄った・・・」と教えていただきました。

参考書には、この辺りは、「間久里(まくり)の立場」で8軒の茶屋が軒を連ねていた。中でも「秋田屋」(上原家)には、参勤交代の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り名物の「鰻蒲焼」に舌鼓を打った。

秋田屋には、藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があった。

※越谷秋田屋で検索すると、越谷駅前に「秋田家」というお店があった。この秋田屋の流れだろうか?

  

街道は、国道4号線に合流します。時間は16:10を過ぎたころです。地図を見るとこの先に東武の「せんげん台」駅があります。今日はここまでとします。

 


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