水口宿見附を出るとしばらくは閑静な所を歩きます。
一旦県道と合流しますが、高札場休憩所の所から左折。更に先へ行くと「今在家一里塚」です。
「経塚」は、一般的に平安時代の末法思想と共に発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には、小石にお経を書いた一字一石経などを産めることが流行し、
個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。この経塚は延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため大般若経を読んでこれを鎮め、
その後、村人がこの経を土中に埋めて塚としたと言い伝わります。
「稲川碑」は、碑文によれば、正保4年(1647)、水口城代の山口重成が土山宿と水口宿の間は、飲み水がなく、旅人が困っていたため、稲川沿いに井戸を掘って
水を湧き出させたと言われています。この碑文は、延宝4年(1676)先人の功績を讃えるために建てられました。
また、村の言い伝えでは、源平合戦の最中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うとたちまち血涙が止まったとのことです。
いつしか、村人はこの水を「景清の目洗いの水」と呼ぶようになりました。
大日川の掘割を過ぎると、大野西の交差点です。ここから土山です。土山のマンホールは、中央にキジ、杉林、お茶の花がデザインされています。
大野の歩道橋を渡ると、料理屋さんの所に「三好赤甫(せきほ)旧跡」の説明版があります。料理屋さんの屋号も「みよし赤甫亭」。
赤甫は待花園月坡と号し、通称才一と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嶬峨上田村の宍戸露洲につき教えを請うたが、
晩年家業を子に譲り、京都に上がり東福寺虚白につき、10年余り修行され、その間、京都大阪の諸大家と交わった、その後郷里に帰り、後進の指導をなし、
この地方の俳諧の基礎を築かれている。俳著に「窓あかり」がある。
碑銘
「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」
土山の町に入るとすぐ旅籠の石碑を見かけます。
JAの所に漢詩が建てられています。土山茶のことを書かれていますが、そういえば、歩いてくる途中、お茶の工場をいくつか目にしました。
土山茶は、滋賀県一の生産量を誇っているそうです。
このあたりは、「反野畷(なわて)」と呼ばれ、長い直線道路が続いています。
道の両側には、江戸時代松が植えられていて、何本かは、枯れてはいますが、当時を偲ばせます。
「垂水頓宮御殿跡」は、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の御神体を奉じてその鎮座地を求めて巡業したと伝えられる
土山町頓宮には、巡業地の一つである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来だそうです。
「前野保五郎」は、頓宮村や隣の野上野村が水不足に苦しむ様を見かねて未完であった野上野用水の完成に千二百両という巨額の私財を投じ、18年の歳月をかけて
文政8年(1815)に総延長7,3kmの用水を 完成させた。この用水により、約20haの水田が潤った。
地安禅寺には、御水尾法皇(1596~1680)の御影御位牌が安置されています。
瀧樹(たぎ)神社には、春のお彼岸の頃に咲く「ユキワリイチゲ」という花が咲くそうです。見てみたいと思いましたが、境内までの参道は、少し長かったのでパスしました。
瀧樹神社の先の方に案内看板が建っていました。左側が江戸期の街道、右側が明治期の街道。地図を見ながら、どちらに行こうかと迷いましたが、
左側は、遠回りになりますので右側の明治期の街道にしました。
松野尾川(野洲川)に架かる橋は、「歌声橋」といってドーム状の橋です。(多分平成に建てられたのでしょう)通ると、遠くから鳥の声が聞こえてきます。
橋に細工がされているのかと思いましたが、自然に聞こえる鳥の声でした。この川の水は、透き通っており、正に清流です。
一旦1号線に合流し、南土山交差点から右折します。しばらく歩くと宿場町の佇まいが見ることができます。
土山宿:土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も
以前に増して盛んになった。特に江戸幕府は傳馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、
宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは、御役町で、そこには公用人馬の継立などを司る問屋場、公用者の宿泊などの為の本陣、脇本陣やその他公用にあたる者が住み、幕府は御役町保護の為に
地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人の為の旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道脇に細長く宿場町を形成していた。(案内板より)
鈴鹿馬子唄には、「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」とあり、坂下宿は晴れて、鈴鹿峠は、曇り、土山は雨・・・・・というようにこの土山は昔から雨の多い地域だったのでしょうか?
現に広重の東海道土山宿の浮世絵には、春の雨の土山が描かれています。
また、土山は、「あいの土山」と呼ばれていますが、このいわれは、東海道宿駅になる前は、「間(あい)宿だった」など7通りほどあるそうで真相ははっきりしないそうです。
然し、「あい」は、「愛」も意味しますのでいいネーミングだと思います。
土山宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠44、人口1505人。宿場町には、旅籠跡の石碑が建っていました。
陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷です。ここ土山宿の陣屋は天和3年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛の時に建造されており、
瀬古川の東崖にあり、東西25間、南北30間の広さがありました。
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
土山本陣は、寛永十一年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代の施行以来諸大名の休泊者が増加し、
土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと分からないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山宿の補佐本陣となっている。古地図によると、
当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される.。(案内版より)
土山公民館の玄関前には、「宿場のけごみ」という石柱が建っています。「けごみ」とは、けこみとも言い、漢字では蹴込み、意味は、1.階段と階段の間にある板の部分、
2.玄関などの家の入口の全面垂直の部分、3.人力車で客が脚を乗せる所、4.農家などの玄関や軒下に当たる部分を指しており、足を止める所・足を休める所というような
意味で用いられている。ここでいう「宿場のけごみ」は、宿場の中の足置場(足を休める所)という意味で「どうぞ、ここで一服していってください」という意味の歓迎の石柱です。
土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。
土山宿本陣(土山本陣):本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、
宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、
この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(案内板より)
二階屋本陣は、脇本陣の役目をしていました。
平野屋は、森鴎外が祖父森白仙の墓参りのために土山を訪れ、明治33年3/2に一泊した旅籠です。その時のことを彼の著書「小倉日記」に書いています。
森鴎外の祖父森白仙は、文久元年(1861)11月、ここ旅籠「井筒屋」で病死しました。森家は、石見の国津和野藩主亀井家の典医として代々仕える家柄でした。
白仙は、江戸、長崎で漢学、、蘭医学を修めた医者でした。
白川神社:祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭天王社、祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、
現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に造営された。
7月第3日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山十四組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。
これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民俗文化財になっている。
天明7年(1787)光格天皇の、嘉永元年(1848)に光明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、
明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内侍所奉安所にあてられた。
本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている。(案内板より)
白川神社の先の「来見橋(くるみばし)」では、土山宿がイラストで描かれています。
「たぬきの置物」で有名な信楽(しがらぎ)焼きの信楽町は、甲賀市にあります。戦後、天皇をお迎えした時のお歌により、福を呼ぶ縁起物として、たぬきの置物が
全国的に有名になったそうです。
ここまで15里(約60km)歩いてきました。あと江戸まで110里(440km)・・・・・・・先が長いですね。
東見附を左折すると道の駅「あいの土山」です。今日のゴールの田村神社は、国道を挟み向かい側にあります。
ここからあいくるバスで貴生川(きぶがわ)駅に行き、貴生川で草津線で柘植駅、柘植駅から関西本線で今日の宿、三重・亀山へ行きます。
貴生川駅では、信楽高原鉄道の可愛い車両を見つけました。
また、関西本線加太(かぶと)駅近くでは、野生のシカ数頭が線路を横切っていました。
東海道の地図にチェック印を入れます。
明日は、いよいよ鈴鹿峠越えです。
本日(3/23)のGPSです。