よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№9(坂下宿~関宿)

2016-04-03 17:14:30 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

坂下宿の筆捨山から1号線沿いに進み、「新所町」の信号から斜左に入ります。

そこが関宿西の追分です。14時関宿到着。

  

関は古代から交通の要所であり、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれていた所です。関の名もこの鈴鹿関に由来しています。

関宿の西の入口にあたる西追分は、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。

  

東海道で唯一往時の町並みを色濃く残していることから昭和59年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

町並みには、電柱がなく(地中化)実にすっきりしています。また、民家のお正月飾りは、2年前伊勢市で見た「笑門」です。

   

関宿の範囲は、東西追分の間、約1,8km、25haに及び、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家200軒あまりが残っています。

  

   

  

宿場町を歩いていると「会津屋」という看板を見つけました。ここでお茶タイムにします。

会津屋」は、元は、山田屋と言い、小万が育ったことで知られています。

鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、

遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、

地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、

女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。

小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで

武術の修行に励むようにした。

天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。

これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。

関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、

仇討ちの小万より百年ほど前のことである。(亀山の昔話より

   

  

   

 

   

一服後、宿場町を見て廻ります。廻っていると、宿場ツアーに参加されている団体さんと遭遇。私のDバックに付けている風車、と長崎から歩いています・・・・・・というのを見つけ

写真を撮られました。一躍有名人になったみたいです。(笑)

この関宿は、江戸時代にタイムスリップしたみたいで、どこからか参勤交代の大名行列が来るような気がします。

  

 

関宿旅籠玉屋歴史資料館」に来ました。

玉屋は、「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの関宿を代表する大旅籠の一つです。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築に

当時使われていた道具類や、庶民の旅に関係する歴史資料など展示して、江戸時代に栄えた旅籠の姿を再現しています。

     

  

   

奥の土蔵には、歌川広重の浮世絵が展示されています。残念ながらここは、撮影禁止でした

 

江戸時代の宿場の宿泊施設は次の通りでした。

本陣。脇本陣:大名・公家・幕府の役人などが休憩したり、宿泊する格式のある宿屋で、東海道では各宿に平均2軒置かれました。

         脇本陣は、大名などの宿泊が重なった場合に本陣を補佐した宿屋で、本陣に次ぐ格式をもっていました。

旅籠      武士や一般庶民を宿泊させた食事つきの宿屋で宿場で多数を占めていました。旅籠を描いた浮世絵には、店先で客を呼び込む客引き、桶で客の足を

         洗ったり、御膳を運ぶ女中、化粧する飯盛女、風呂に入り座敷でくつろぐ客などが描かれています。

木賃宿    旅人が、米を持参するか、宿で買うかして自炊を行い、蒔代を支払う形式の宿屋です。古くは殆どの宿屋がそうでしたが、旅籠が普及すると宿場のはずれや、

        町裏で営業するようになり、商人や、旅芸人などの貧しい人々が宿泊していました。

 

 

道中や宿屋での蚤を避ける方法も記されていました。

  

関宿の本陣は、「伊藤本陣」(現松井家)と「川北本陣」です。

伊藤本陣は、間口十一間(約20M)、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきでした。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に

道具置き場に供する建物でした。

広重の浮世絵「関宿」は、大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから「伊藤本陣」出立の準備があわただしく始まります。

  

  

川北本陣」は、間口十九間半(約35M)、奥行き五十間半(約91M)、総建坪395坪にも及ぶ広大なものでした。表門より白砂を敷き詰めた通路を経て、唐破風の玄関があり、

奥に来客用の書院や風呂を設け、道に面しては、板間や通り土間があるミセを構えていました。現在は建物などは全て取り払われましたが、表門が延命寺の山門として

移築されています。

  

関まちなみ資料館があります。ここは、関宿の伝統的な町家を公開した資料館です。

   

  

そこまでが精いっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。

絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、

これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。

  

「鶴屋」は、江戸時代の終わりには、脇本陣も務めました。

  

  

時計を見ると、もう4時。あっという間に2時間たってしまいました。百五銀行の所からJR関駅に向かいます。

  

亀山行の電車まで約1時間あります。駅の売店でビールと関のお菓子「志ら玉」をいただきました。

  

亀山のホテルに着くと、津の歩友〇川さんから、鰻弁当、鰻ひつまぶしの差し入れをいただきました。津は、鰻が名物です。

天むす、ひつまぶしは、名古屋の名物になっていますが、もともとは、三重の名物です。

〇川さん、鰻も厚みがあり本当においしかったです。次回、津周辺に行きましたらもう一度食べてみたいです。有難うございました。

3/24のGPSです。