よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№8 (土山宿~坂下宿)

2016-04-02 13:32:07 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/24、亀山のホテルを6:30に出て亀山発6:40の関西本線で柘植駅へ、そこで草津線に乗り換え貴生川駅へ。貴生川からあいくるバスで昨日のゴール地田村神社に行こうと

行程をたてました。これだと田村神社には、8:07分に到着します。

柘植駅から草津線乗り換えまでは、すべて予定通りでしたが、この草津線の車掌さんの車内アナウンスが声がこもっていて聞き取れずまた、車内には、電光表示板もなく

神経を使って降りる駅は、まだかまだかと待っていましたが、ついつい、うとうととしてしまい、気が付いたら電車は、貴生川駅を発車する所でした。慌てて降りようとしましたが、

無情にも扉が閉まってしまいました。次の三雲駅で上り線で貴生川に戻りましたが、貴生川駅からのバスは、約1時間半ばかり待たなくてはいけません。

他に交通手段がなく、タクシーで3000円ぐらいだろうと思い、タクシーで神社まで行きましたが、この金額5160円でした。

それでも8:30には、着きましたので予定より30分遅れのスタートです。

先ず「田村神社」へ道中の無事と今後電車に乗り過ごさないよう祈願します。

田村神社は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を主祭神として、嵯峨天皇並びに倭姫命をお祀りしています。

田村神社のご祭神「坂上田村麻呂公」は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕え、

その忠勲と蝦夷征伐等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。 征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。

田村神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 当社の言い伝えによると、

「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて

土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。

坂上田村麻呂公が鈴鹿峠の悪鬼を平定してよりのち、作物が実らず疫病が流行しました。 そのため、弘仁3年の正月に嵯峨天皇は詔を出し、

坂上田村麻呂公の霊験を以て厄除の大祈祷が斎行されました。 これにより、坂上田村麻呂公は厄除の大神として崇敬され、その御神徳は厄除の祖神として

崇敬されることとなりました。 また坂上田村麻呂公は、鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通の安全を保たれたことに加え、延暦年間には東北に出征され、これを平定されました。

その御神威により、交通安全の神様としても崇敬されています。(神社HPより)

 

    

神社をあとに街道歩きスタートします。

海道橋があります。ここが広重が「土山宿・春の雨」を書いた場所とされています。

 

左上部に田村神社が見えます。私も広重と同じ構図で写真を撮ってみました。

  

橋を渡った所に「高札場」があります。書かれている内容は、

「この橋を渡ることができるのは安政4年(1775)の閏年12月からである。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。

また、近村に住む百姓達の中、川向こうに田畑があり毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民及び一般の旅人に

ついては一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。

この規則は一時的なものでなく、橋がある限り永遠に続くものである。」

私が渡る時、渡り賃を取られるかな?と不安でしたが、現代では取られないようです(笑)。因みに三文というと、今の価値ではm50~100円ぐらいでしょうか?

   

先に行くと「蟹坂古戦場跡」があります。

天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。

当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、

さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、

軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、

北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。(案内板より)

  

蟹が坂の信号近くで1号線と合流します。地図では、旧街道は、国道を横断して山道を行くようになっていますが、案内板では、行き止まりになっていると書かれています。

それでも行ってみることにしました。蟹塚を過ぎ山道をどんどん行きます。地図では、1号線に戻るようになっていますが、それらしいものはありません。

最終的には、高速道路のガードまで来ました。携帯のGPSで確認すると旧街道とはコースが外れています。

仕方なく、1号線に戻りしばらく国道沿いに歩きます。

 

  

1号線「猪鼻」の信号を左折。

  

猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
村中を東海道が東西に五町36間余(約610メートル)、商いを営む者も多く、往時五十戸を超え街道を賑わしていた。
土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、五十三石余「天正十九年(1591)徳川家康知行目録写」、
おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。
赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山筏ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に安永三年(1774)鈴鹿峠に向う途中で

「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」とある。
寺院は、臨済宗東福寺派の浄福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。
明治二十二年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和三十年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成十六年十月一日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。
      平成二十年十二月
        土山町猪鼻区   (案内板より)

     

再び街道に戻ります。1号線には東京までの距離が記されていました。東京まであと437km・・・・・・・・・

名神高速道路の高架の手前に「山中一里塚」があります。ここは、一里塚公園となっていて旅人の休息地になっています。

私達が行ったときも鈴鹿峠を越えた方がいました。

 

高速のガードを潜り、しばらく旧道を歩きますが、山中西の信号からまた、1号線と合流します。

ここは、交通量も少なく、鈴鹿トンネルを下りてきたトラックがかなりのスピードで走り去ります。その風圧で私の風車が勢いよく廻ります。

トンネルの手前から旧街道に入ります。

  

万人講常夜燈」に来ました。

万人講常夜燈は、江戸時代の金比羅詣りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ28t、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村を始め、

坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは、東海道沿いに建っていたが、鈴鹿峠の工事の為、現在の位置に移設された。

東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜燈は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。(案内板より)

 

万人講常夜燈にあるトイレ休憩をし、そこに置いてある杖をお借りして「鈴鹿峠」を目指します。

  

峠の入口が県境です。私達の東海道歩きも京都、滋賀と通り、これから伊勢の国・三重県に入ります。

鈴鹿峠は、伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山(378m)の脇を縫うように超えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされています。

「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが、「今昔物語」や和歌などに登場する「鈴鹿山」は、鈴鹿峠越えを指しているものが多いです。

なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には、箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。(パンフより)

  

鏡岩:昔山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から「鬼の姿見」とも呼ばれています。

  

 

  

  

片山神社」は、その由来が延喜式内社で鎌倉時代には、現在の場所に鎮座したと伝えられています。また斎王群行の際、皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡とも

いわれています。江戸時代には、鈴鹿権現と呼ばれ、往来する多くの人の信仰を集めました。昭和53年に市史跡に指定されましたが、平成11年、本殿などを

焼失し、現在では、神楽殿のみとなりました。高い石垣などにかつての面影を留めています。(パンフより)

【祭神】倭比売命
       (配祀)瀬織津比売神、
気吹戸主神 、速佐須良比売神、 坂上田村麻呂、天照大神 、速須佐之男命 、市杵島姫命 、大山津見神

  

このあたりは、「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月3日にこの地を襲った大洪水により、埋没したため、翌年約1km東へ移転し、宿場集落として繁栄しました。

尚、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、坂下村で全体で寺社の他に百十軒の人家があったとされています。

どうにか、鈴鹿峠を越えてきました。感想をいえば、近江側からの方が、登りが少なく、殆ど下りでしたので、かえって、三重からの方が登りが多く大変だったと思います。

  

坂下宿に入りました。

坂下宿は、鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来しています。いつごろ宿が立てられたかは定かではありませんが、「宗長日記」大永4年(1524)の条に

「坂の下の旅館」とあることから、室町時代には宿として機能していたものとみられます。慶安3年(1650)の大洪水により壊滅し、1kmほど下流に移転して復興されました。

江戸時代には、東海道五十三次の江戸から数えて48番目の宿場町として峠を往来する人々で賑わいました。東海道難所の一つである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家

などの宿泊も多く、江戸時代後半には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数え、東海道有数の宿にあげられます。

特に大竹屋は、間口13間半(24m)、奥行25間(45m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹小竹、宿がとりたきゃ小竹屋に」と唄われたように、数多くの大名家も

休泊する東海道随一の大店として世に知られていました。大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、往来する公家や文化人によって歌に詠まれています。

明治23年(1890)関西本線の開通による通行者の激変とともに宿場としての役割を終えました。

これほどまでの賑わいをみせたこれらの建物は、明治以降すべて取り壊され、現在は跡地に石碑を残すのみとなりました。(坂下宿パンフより抜粋)

   

  

 

街道の東側には、「鈴鹿馬子唄会館」があります。

会館の前には、東海道五十三次宿場名を書いた柱が立っています。

  

時刻も1時を廻っており、ここで休憩します。

 

鈴鹿馬子唄は、鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、いつしか近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡ってゆきました。

  坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る  

   坂下では 大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に

   席の小万が 亀山通い 月に雪駄が二十五足  

鈴鹿峠自然の家は、昭和13年坂下尋常小学校として建築されましたが、昭和54年に廃校になり、現在は青少年の為の研修施設として使われています。

   

街道は、先の方で1号線と合流します。閑静な宿場町から一転、トラックや乗用車の車の音がやかましいぐらいです。今日は風も強いので私の風車が勢いよく廻り、

デリネーターの役目をしてくれています。

 

歩いていると「筆捨山」のバス停があります。筆捨山は、その昔、画家の狩野元信が旅の途中、この山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに

絵を描くことを諦め、筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられます。

広重もこの位置で坂下宿の筆捨山を描いています。

  

筆捨山を見ながら次の関宿へ向かうのでした。(続く)