昔を振り返って
2011年5月3日
釜山でも「黄砂」が降っているのでしょうか?今日は全般的に曇っています。
今日、家内の釜山の友達が「ミステリー小旅行」を計画してくれ、9時にホテルに迎えに来てくれました。
友人は、ご両親と一緒です。(彼女のお母さんはキムチを漬けるのがうまく、前回行ったときにたくさんのキムチをいただきました)
車に乗り込みますが、行先はまだ教えてくれません。私はGPSの時計を持って行って外国でも使えるか試しにGPSのスイッチをオンにしました。
車は、空港、釜山港の方に向かっています。ここで友人から「どこにいっているでしょう?」と質問してきます。
韓国で知っている地名を言いますが、全部当たりません。正解は「巨済島(コジェト)」でした。
昨年、釜山から高速船で巨済島まで行きましたが、そのことは、だまっていました。
釜山と巨済島には、昨年12月に釜山・加徳島との間に海底トンネルと海峡大橋が完成しました。(巨加大橋)
今まで高速船や内陸周りで巨済島に2時間ぐらいかけて行っていましたが、これが50分に短縮されました。
この海底トンネルには、海底48mに沈埋(ちんまい)トンネル工法が採用されています。沈埋トンネルというのは、予め海底に穴を掘ってそこにケーソンを沈め、その上に土を被せます。
日本では、首都高速多摩川トンネル、北九州若戸トンネルなどに採用されています。この巨加大橋は、トンネルが3,7km、橋が4,5mです。
道路の街路樹には、日本でいう「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタコ)」の木が植えられています。
韓国では、この木を「ご飯の木」と呼んでいるそうです。これは、昔、貧しくてご飯もまともに食べられなくて幼く亡くなった子にあの世では、腹いっぱいご飯を食べてもらおうと
主にお墓近くに植えられたものだそうです。
車は、巨済島に入ってきました。巨済島は、韓国第14代(1993~1998)大統領「金泳三(キム・ヨンサン)」の出身地です。
最初に連れて行ってもらったのが、巨済捕虜収容所遺跡公園。巨済島には、1950年6月25日韓国戦争(朝鮮戦争)による捕虜を収容するための1951年2月に設置された巨済捕虜収容所の
遺跡公園があります。
10時半車を駐車場に停めます。周りは貸し切りバスでいっぱいです。巨加大橋PAに停まっていたバスがここに来たのではないでしょうか?
遠足の学生さんもいますが、ナンバーを見ると(韓国友人が見た)遠方の方から来られているそうです。
皆さん、この巨加大橋ができたから大橋とこの遺跡公園が旅行のセットになっているのでしょうか?
朝鮮戦争は、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,
また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。(コトバンクより)
当時の捕虜収容所は、1951年2月末まで朝鮮人民軍捕虜15万、中国軍捕虜2万人など、最大17万千人の捕虜を収容されました。
戦争捕虜となった捕虜は北朝鮮を支持する親共捕虜と反共捕虜に分かれて流血衝突が頻繁に発生し、1952年、収容所の司令官米軍ドッドゥ准將が捕虜に拉致される事件が起きるなど、
戦争中にも収容所では共産主義と民主主義の理念を異にした捕虜の戦いが相次いで引き起こされ、多くの死者を出した場所でもあります。
1953年6月18日、連合軍の管理にあった巨済捕虜収容所の反共捕虜(北朝鮮への強制送還を拒否する捕虜)27、389名を当時の大統領だった李承晩大統領が釈放させ、
7月27日の停戦協定の調印に合意することで収容所は閉鎖されました。
今は当時の建物一部だけが残されている巨済捕虜収容所は1万坪余りの規模で、韓国戦争(朝鮮戦争)に使用された戦車や野砲、ヘリコプターなどの戦争遺物とともに当時の捕虜の生活上が
窺える様々な遺品が展示されています。捕虜収容所、警備隊の宿所、野戦病院などの当時の建物が再現され、映画の撮影にも使われたとのことです。(釜山ナビより)
収容所公園内部には、収容所の様子がジオラマで描かれています。
一通り見て回り、出口に向かいます。
収容所公園の周りは、遊歩道になっています。
このあと、ランチに行きました。 (続く)
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