よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

3月例会「飯盛神社と旧金武宿を訪ねて」(福岡市西区~早良区)

2024-03-05 12:24:29 | ふくおかウォーキング協会

3/2(土)ふくおかウォーキング協会3月例会は、「飯盛神社と旧金武宿を訪ねて」でした。

この日は、八代で「九州国際3DM」「京都ウォーク」などと重なり、当協会の会員さんもそちらの方に参加され、参加者が少ないのでは??と思ってましたが、2/23に地元紙の

掲示板コーナーでお誘いを呼びかけましたら、18人の方が参加されました。当協会会員さんの参加が17人でしたので一般の方の参加が会員さんを上回るという珍現象です。

集合場所は、地下鉄橋本駅。

 

9:30 スタート

先ずは、室見川河畔道を歩きます。 

 

西部運動公園でトイレ休憩。運動公園の花壇には、チューリップが芽を出し花が咲いているのもありました。

 

川の堤防には、土筆が立っています。今日、東北の方では雪が降っている所もありますが、福岡では、「春」が訪れています。

民家の庭には、白木蓮が花芽を付けています。

 

歩いていると「青柳種信ゆかりの地」の看板が建っています。

青柳種信は、国学者で福岡藩士、江戸に出仕し井戸南山に儒学を学び、寛政元年(1791年、24歳)伊勢松坂の本居宣長に入門する。
先祖は飯盛宮の神官で、筑前国佐原郡平軍郷飯盛村字馬場に住み、代々同郷の司として、飯盛三所大神の祭礼を掌る。平群郷百三十余町の地を領し、後世に至り47歳の時『後漢金印略考』

(金印を受けたのは奴国=福岡に与えられたものであることを立証した)を著し、また、日本で最初の全日本全図を作成した伊能忠敬の道案内人も務めた。文化11年(1814年)

『国学家業城代組』となり、次いで『御右筆記録方』に勤仕する。
主な著書
『筑前国怡土群三雲村古記図説』『栁園古器略考』『筑前国続風土記拾遺』『飯盛神社由来記』『防人日記』
案内板より

飯盛神社が近づいてきました。飯盛神社は、飯盛山の麓にある神社です。山が飯を盛った形に似ているから「飯盛」と呼ばれています。

 

 

飯盛神社は、旧早良郡7ヶ村の惣社で、御神祭は、誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、玉依姫命です。

かつては、上宮、中宮、下宮の。3所が祀られていましたが、現在は、中宮、下宮が往時の姿を偲ばせています。貞観元年(859)年の創建と言われ、上宮の山頂からは永久2年(1114)の

銘を持つ瓦経(がきょう※粘土板に経を刻み焼いたもの)が発見されています。また、西の飯盛山と東の若杉山は、夫婦山として古代から国生み伝説も。若杉山に位置する「太祖神社」は、

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀る神社です。

飯盛神社では、毎年3月にその年の豊凶を占う県指定の無形民俗文化財「かゆ占」があり、秋には、市指定の無形文化財である「流鏑馬(やぶさめ)」が奉納され、賑わいをみせます。

 

 

飯盛神社で休憩の後再スタート。かなたけの里に向かいます。

 

金武地区は、ブドウの栽培が盛んで7月半ば過ぎには、直売所も設けられます。安くて美味しくて午前中には完売になってしまいます。

三瀬街道金武宿にやってきました。

 

三瀬街道、そこに位置する「金武宿」は、早良平野には江戸時代中期頃から明治時代にかけて、佐賀と福岡とを結ぶ「三瀬街道」が通っていました。三瀬街道の要所にあたる金武には

「金武宿」とよばれる宿場があり、筑前福岡藩領内の宿駅である筑前二十一宿の一つに数えられていました。肥前から筑前へは米や木炭などが、筑前から肥前へは塩や海産物などが

運ばれました。金武宿の中心は馬や人足の手配をする人馬継所で、荷物を積んだ馬の往来が多く、木賃宿(自炊して宿泊する宿)や染物屋、質屋、雑貨屋などが軒を連ね、武士や商人などの

旅人で活気に満ちあふれていたと考えられています。今も、漆喰壁(しっくいかべ)の蔵などが当時の面影を偲ばせます。

旧道ですので道幅が狭いです。それでも子の旧道には、バスが通っています。

 

室見川を渡り、ゴールの地下鉄次郎丸駅へ

 

12:12 次郎丸駅にゴールしました。今日の距離は、ジャスト10kmでした。

この日のランチは、途中見つけたレストランの「ステーキランチ」です。150gで1450円(コーヒー付き)でした。

 

 

 

 


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