よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「糸島 小富士梅園観賞」(福岡県糸島市)

2024-02-24 10:10:03 | ふくおかウォーキング協会

2/21(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「糸島 小富士梅園観賞ウォーク」でした。

今週、福岡地方は、雨ばかり。今日も大雨の予報です。

事前参加予定者は、30人超でしたが、雨のせいか、実際の参加者は21人でした。

集合場所は、筑肥線JR加布里駅でしたが、雨の為加布里コミセンの駐車場をお借りしました。

9:30 雨の中、加布里コミセンをスタート。

明治の初め、加布里を「かむり」と言い、「かふり」とは言いませんでした。

昔々、天平勝宝のころ、大宰大弐であった吉備真備が領内巡視の途中、姫越海岸(現 加布里公園から箱島の海岸)休息したそうです。
そのときに、そばにあった岩の上に冠を置いたことから、この付近の地域を「かんむり」・・「かむり」と呼ぶようになったと伝えられています。

明治七年に、加布里に開校された小学校は「冠小学校」でした。(加布里コミセンHPより)

 

加布里神社は、古い文書には菅原神社とも記されていますが,その歴史は古く,1340年(後村上天皇興国元年)少弐政家が太宰府天満宮の分霊をこの地に勧請したのが始めであると

いわれています。藤原北家秀郷を祖にする少弐氏は,鎌倉幕府の開府以来,初代資頼より東国から九州に派遣されて大宰府の次官である大宰少弐を歴任し,大友氏,島津氏らとともに

九州三人衆に数えられた名門です。旧加布里村の産土神です。

 

加布里神社には、「芭蕉の句碑」があります。

建立は安政6年(1859年)。 碑の高さは2.4m、幅1.75mで、九州に建てられている200基あまりの芭蕉句碑の中で最大のものだそうです。

松尾芭蕉は九州へは旅していませんが、九州への旅を望んでいた芭蕉の意志を継いで、 多くの高弟たちが九州各地を訪れ、その中で九州俳壇が芭蕉の追善供養として各地に芭蕉歌碑を

建立したたものの一つです。

加布里神社から加布里漁港へ。

 

天気のいい日には、カキ小屋が賑わうのですが、あいにく今日は雨、訪れたのは私たちウォーカーだけでした。

ここで昼食にと「カキ飯」を購入。(@350)

 

舞鶴橋を渡ると、旧志摩町(現:糸島市志摩町)小富士。

小富士という地名の由来は、糸島のシンボル「可也山(かやさん)」が富士山に似ているので「糸島富士」とか「小富士」と呼ばれていました。

小富士集落は、可也山の麓にあり登山口もあります。

 

小富士は、梅林で有名です。 2年前、コロナで自粛中、アグリに車を止め家内と二人で歩いたことがあります。

民家にも梅の木が植えてあります。

小富士梅林は、天満神社の横から登っていくのですが、今日は、雨。坂道ですので滑りそうなのでパスします。

 

 

一部写真は、2年前に行った小富士梅園の分も掲載しています。

 

 

今日は、雨の為、民家の梅を楽しむことにしました。

 

 

民家の方が家の前の畑に植えてある「大根」を持って帰っていいよと言われ、畑を見るとみんな巨大の大根です。

抜いてみると2~3kgありそうです。おでんにしたら美味しいかな?などと思いながらこの大根を肩に担いで歩きますが、ずっしりと肩にきます。

 

愛菜でお買い物休憩。

愛菜でビニール袋をもらいリュックの中に入れます。肩に担ぐよりも楽ですが、それでも重たいです。

雨も舞鶴橋を越えたあたりから止んできました。

 

愛菜から再スタート。

右側を見ると「小富士海軍航空隊跡」の石碑があります。

碑文を見ると、「風雲急なる大東亜戦下 祖国防衛の念に燃え決死報国の覚悟を秘めた若人を集め 消耗する航空戦力の補充を目的に若鷲練成の基地として 昭和十九年五月小富士海軍航空隊を解隊終戦まで甲十三期乃至十六期の各期予科練約五千名を育成した 当時十有余才の学徒は国難に殉ずる我を惜いて他無しとの悲壮の決意で奮躍予科練に入隊し 青春の情熱を傾けて訓練に

励んだ 然るに戦局愈々過烈となり予科練教育は中止され夫々特攻基地に派遣されたが 遂に戦運我に利なく昭和二十年八月終戦となり小富士航空隊も其の使命を終わった

思えば当隊の歴史は僅か二年にすぎなかったが我らが命をかけて鍛錬した予科練魂は 克く戦後激動の試練に耐え新日本発展の礎となった 我等は往時の予科練時代を偲び茲に同隊の碑を

建立する

昭和四十八年五月二十七日  小富士海軍航空隊出身者有志外一同」

あと、この特攻隊訓練基地は、西区元岡(現:元岡中学校)にもありました。

 

加布羅(がぶら)が旧志摩町と旧前原市の境です。

加布羅(がぶら)という地名も難解地名です。意味は、田畑・道路の片側が山や堤防で押し出している所です。

志摩町在住の「松尾紘一郎氏」の写真集「伽耶から倭国へ」を見てみると、

「加」は、韓国語で「大きい」の意味、「邑・村」を意味するフル・フレ・フリから来たもので「カフリ」とは、ガブラも同様であるが、「大きい村」「大きい港」という意味だそうです。

そういえば、玄界灘から糸島水道がこの地域まできており、古代では、この水道を通ってたくさんの渡来人がここにきていました。

「加也山」も韓国の「伽耶(かや)」から名付けられたそうです。このように糸島には韓国語の地名が多く残っています。

 

12:00 筑前前原駅前の丸田池にゴールしました。

 

 

 

 


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