3/5(土)は、JR九州ウォーキングで「天領日田お雛祭りウォーク」に参加しました。
江戸幕府の西国筋郡代の役所が置かれ、九州随一といわれるほどの繁栄を極めた天領日田。
掛屋を中心とする豪商たちが活躍し、町人文化が花開いた日田の旧家には、京や大阪で買い求めた絢爛豪華なひな人形やひな道具の数々が今も残されており、おひなまつりの期間中、
豆田町や隈町の旧家や資料館でひな人形やひな道具を、一斉に展示・公開しています。(日田市HPより)
スタートは、JR日田駅。 日田駅から隈地区にある三隈川に向けて歩きます。
日田は、昨年日田街道を歩いた時以来1年ぶりです。
明治32年(1899)創業の原次郎左衛門味噌・醤油店。ここの雛飾りを見せてもらいました。
黎明館・・・元大分銀行日田支店その後押し花会館になりましたが、3年ほど前閉館しました。
山田氏宅は、日田の天領時代の御用や掛屋並びに町年寄を務めた旧家で屋号を京屋。家屋は文化13年(1815)の建築です。
※掛屋とは、江戸時代、幕府・諸藩の公金出納を扱った商人。諸藩の掛屋は、蔵物の売却代金を江戸屋敷や国元に送金したり、金融を引き受けました。
三隈川に架かる銭渕橋を渡ります。
三隈川といえば、鵜飼も有名です。毎年5月20日〜10月31日、大分県日田市の日田温泉で『三隈川の鵜飼』が行なわれます。文禄3年(1594年)、日田を治めた豊臣秀吉の家臣・宮木長次郎が、
岐阜城下から鵜匠を招いて三隈川で鵜飼をさせたことが始まりといわれています。幕府直轄の天領となった江戸時代に着任した代官が始めたともいわれる歴史ある鵜飼です。
河畔にある「亀山公園」は、桜の名所です。
白壁の町を歩いていると「毬」を作っているお店がありました。中を見せてもらいます。
日田祇園山鉾会館・・・日田市では、日田祇園の歴史的伝統文化の保存と祭りの振興をはかるために、日田祇園山鉾会館を建設し、昭和63年7月31日にオープンいたしました。
館内には、6基の山鉾ととラシャ地に金糸銀糸の刺繍を施した「見送り」や「水引き」などの祇園祭に関係あるものを展示しております。
日田祇園山鉾は、平成28年(2016)ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」に登録されました。
日田祇園山鉾の舞台になる「八坂神社」
この神社には、「叢雲(むらくも)の松」があります。樹齢約300年、幹の最大周は、約2m、地上約1mの高さから東西左右に横に分かれて這い、東股の枝先は延長約20m、
西股は延長約15m、その形状は臥竜のように社殿を半周して樹高は3mに及んでいます。
寺町を通ります。
久大本線のガードを潜ります。
日田養育館は、明治元年に日田県知事として着任した松方正義は、明治二年(1869)この地に棄児・孤児・貧児収容所として養育館を創設し360余名を養育しました。
この養育館は、我が国の孤児院発祥の地ともいわれています。
咸宜園(かんぎえん)江戸時代、天領の日田が生んだ学者、教育者、そして詩人でもある広瀬淡窓が開いた私塾が咸宜園。広かった敷地のうち、東塾の跡に現在、秋風庵、遠思楼などが残され、1932(昭和7)年に大分県で最初の国史跡に指定された。
淡窓は1782(天明2)年に日田の豪商・広瀬家の長男として生まれたが、病弱だったため家督を弟の久兵衛に継がせ、生涯を学問と教育にささげた。福岡藩の亀井南冥の塾で儒学を学んだあと、
日田に帰り闘病生活のなかで独学を続け、1805(文化2)年に私塾を開く。
塾は成章舎、桂林荘と続いて十余年後に咸宜園となる。「咸宜」は中国の古典「詩経」からとられた言葉で「ことごとくよろしい」の意味。言葉通り、塾に学ぶ者は平等。入学に際しては名簿に
必要事項を記入すれば、身分、年齢、学歴に関係なく横一線で学習を始めた。
ただ、平等主義に加えての実力主義で、勉強は厳しかった。毎月の試験成績によって無級から九級にまで位置づけられた。さらに講義はもちろん、会計や食事、清掃など塾の運営から
図書の管理まで、塾生の分担で規律正しく進められた。学力だけでなく、社会性や人間性を育む教育システムだったと言える。
淡窓に「休道の詩」がある。「道うことを休めよ他郷苦辛多しと。同袍友あり自ずから相親しむ…」。学問と塾生活の苦楽を「諸生ニ示ス」ものだった。
全国六十余州から塾生が集まり、時には200人を超え寮制を敷いた。日本最大級の私塾で、閉塾までの80年間に入門者は女性も含めて4800人といわれる。高野長英、大村益次郎、上野彦馬、
中島子玉、長三州などなど。1856(安政3)年、淡窓没。墓地は近くの長生園にある。(おおいた遺産より)
豆田町に入りました。
江戸時代からの町並みが残る豆田町は、観光スポットとしても大変人気があります。当時の商家や土蔵が多く残る古い町並みが大切に保存され、国土交通省の「美しいまちなみ大賞」を
受賞するとともに、重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
日田草野氏は古くは古代筑後国の領主であり(白雉年間=7世紀)その子孫が12世紀筑後国在国司、押領司に任じられ竹井城主となり、その後発心城主となりました。
天正16年豊臣秀吉の九州征伐の折落城し、当主草野家清は熊本県南関にて謀殺されたと久留米市史に記載されています。落城に伴い一族は九州各地に離散し、その一部が日田の草場に逃れて
移り住み、徳川治世となった寛永18年(1641年)豆田町に屋敷を構え、元禄9年(1696年~元禄元年との説もある)現在地に新居を建て現在に至っています。
屋号は「枡屋」と称し、荷印(今でいうトレードマーク)を田(かくじゅう)と定め、精蝋業を行い大いに繁栄しました。
江戸後期には郡代(幕府直轄地の代官)御用達の掛屋を務めるほか、窮民の救済や治水等の公益事業にも力を尽くしたことから、市内港町に石碑が建立されており、日田市先哲にも公益事業化と
して7代前の当主が加えられています。
ここ八代は忠右衛門を襲名しており、親交のあった広瀬淡窓が当家の家憲(仏教篤信と親孝行)を書したものがあり、家宝として大切に保管されています。(草野家HPより)
日田醤油の雛御殿に入りました。
天皇献上の栄誉を賜った高級味噌醤油醸造元日田醤油。その歴史は古く、文久二年、天領日田の城下町に中山永太郎が、麹屋として甘酒・味噌醤油の醸造を開始したところから始まります。
その後百七十年の長きにわたり「自然の素材を自然に扱う」というモットーに従い時代の波に流されることなく、昔ながらの製法により伝統を守り続けています。(おいでませひた.comより)
入場料を払い館内へ。入ってみるとお雛様がいっぱい。江戸時代(享保、天保)のひな人形などが約4000体飾られています。
いろいろなお雛さんに感動し、先へ進みます。
薫長(くんちょう)酒造では、男はつらいよ「お帰り寅さん」シリーズを記念し、オリジナルラベルを貼った日本酒を発売していました。
上町通りを通りゴールの日田駅に向かいます。12:12日田駅にゴールしました。
今日のGPS
(PS)「常磐・ひたち探訪」の最終編(坂東三十三ケ所観音&ひたち海浜公園コキア絶景を公開していますのでご覧になってみて下さい。
1年ぶりに日田の町を歩きました。この時期日田でも雛祭りが開催されています。
江戸時代からのひな人形など豪華絢爛です。
日田は水が綺麗なため、サッポロビール、いいちこ焼酎、天領水などの工場があります。
活躍されている様子にうれしく思いつつ楽しく拝見しています。
当方、ウェブリブログが2023年1月にて閉鎖される事になり4月より新しいサイトに移動する事になり現在準備中です。
形式はウェリブログと同じようなサイトで、「にほんブログ村」も挿入します。
4月に引っ越し完了後、新しいアドレスをブログサイトでお知らせいたします。
これからもどうぞよろしくご指導の程お願いし、お知らせいたします。
ブログ閉鎖ですか?今まで親しんできたブログなので残念ですね。よろしければこのブログ「goo」なんかどうでしょうか?