よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

佐賀城下ひな祭りウォーク(佐賀市)

2018-03-02 19:17:41 | ウォーキング

2/28(水)は、ふくおかウォーキング協会の例会「佐賀城下ひな祭りウォーク」に参加しました。

集合場所は、JR佐賀駅。佐賀駅前には、佐賀県の郷土芸能「面浮立めんぶりゅう)」の像が建っています。

面浮立(めんぶりゅう)は、佐賀県を代表する民俗芸能として全国的にも有名ですが、分布は七浦地区を中心に鹿島市、藤津郡、杵島郡、武雄市、多久市、小城郡そして佐賀郡の一部にまで

広がっています。七浦地区に最も多く、離れるにしたがい少なくなります。各地区の面浮立の伝承によると、やはり七浦の面浮立が各地に広がったのは間違いがないようです。

この面浮立の起源には色々な説があります。例えば大内氏や大友氏との合戦に由来するというもの、豊臣秀吉の朝鮮の役に由来するというものなどがあります。

なかでも約400年ほど前に神埼郡の田手縄手で行われた大内氏と龍造寺氏との戦に由来するという説がよく言われるようです。

この戦いは、中国地方から侵略してきた大内氏を、竜造寺氏が迎え撃った戦いだったのですが、龍造寺氏は軍勢が少なく圧倒的に不利でした。負け戦を覚悟したそのとき、

配下であった鍋島平右衛門の一族郎党百騎余りが、シャグマをかぶり奇襲をかけ撃退しました。そのとき踊った戦勝踊りが元になっているという説です。

いかにも勇壮で、人々が好みそうな由来ですが、残念ながら、記録には「シャグマをかぶって」とは書いてありますが、「鬼面を着けて」とは書いてありません。

また芸能の中心地である七浦と、神埼とのつながりがよく分かっていません。さらに七浦のいくつかの地区には、「面浮立は諫早から伝わった」という伝承も残っています。

おそらくは農耕に伴って、耕作に害をする悪霊を封じ込め、豊作を願う神事として面浮立ができたのではないでしょうか(鹿島市HPより)

 

      

9:30スタート。今日は午後から荒れ模様の天気になるそうで少し急ぎます。

龍造寺八幡宮

応神天皇を主神、天児屋命と住吉三神を相殿神(配神)として祭る。創建は『県神社志要』によれば1187年(文治3年)とされ、龍造寺氏の祖である南次郎季家が佐賀龍造寺村の地頭職となった後に、

相模の鶴岡八幡宮を分霊したとされる。創建当時は同氏の本拠地である村中城本丸内にあったが、慶長年間、鍋島勝茂による佐賀築城の際に現在地近くに遷座した。

以来この地は八幡小路と呼ばれたが、1901年(明治34年)頃に境内を北方へ拡張移転したため現住所は八幡小路ではなくなっている。

龍造寺八幡宮は龍造寺・鍋島両氏の崇敬を集め、慶長9年(1604年)の刻銘を持つ肥前鳥居(佐賀市重要文化財)は鍋島直茂夫人藤女(陽泰院)が献納した。

古文書・宝物類も多数あったが、1874年(明治7年)の佐賀の乱の兵火にかかり焼失し、現在は北部九州の大小諸豪族の氏名、宰領町数などが記載された『龍造寺隆信公着到状』など

少数が残っている。(wikipediaより)

龍造寺家と鍋島家というと、佐賀騒動を思い浮かべます。これは、化け猫騒動といって、戦後映画化されました。

  

 

佐賀には、明治維新で活躍した「佐賀の七賢人」がいます。

そのうちの一人、「江藤新平」。幕末・明治初期の政治家。佐賀の人。名は胤雄。佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。明治維新後、司法卿として司法制度の確立に尽力。

のち参議となり、征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが敗れて下野。民撰議院設立建白書に署名。佐賀の乱を起こし、敗れて刑死した。

佐賀の乱の時、同じく下野した西郷隆盛に指宿・鰻温泉で同調を促しますが、西郷は動きませんでした。このことは、大河ドラマ「西郷どん」でも放映されるかな?

  

この佐賀の乱で一緒に戦った「島義勇」も七賢人の一人です。明治1年佐賀藩海軍軍監として江戸へ進攻、江戸鎮台府判事として民政に当たる。2年北海道開拓使判官として、

札幌市街地の建設に尽力。のち大学少監、侍従、秋田県令などを歴任、7年佐賀憂国党を率い佐賀の乱を戦ったが、敗れ処刑。北海道開拓の父とも言われています。

  

佐賀城址です。鯱の門には、佐賀の乱での砲弾跡が残っています。

  

   

佐賀城址の前には、七賢人の一人「鍋島直正」の銅像が建っています。鍋島直正は、幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。

1830年(天保1)父斉直(なりなお)から家督を継いだが、前代の放漫財政によって藩財政は破綻(はたん)寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、

藩校弘道館(こうどうかん)出身の人材を登用して人事を刷新し、天保(てんぽう)の改革を行った。均田制を施行して本百姓(ほんびゃくしょう)維持政策をとり、国産方を設置し、

陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増産を行い、財政を立て直した。また、佐賀藩は長崎警備の任にあり、直正自身しばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀性を

認めていたため、早くから洋式軍制改革を実施した。1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。

また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して慎重であり、

直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には慎重であった。

戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込み、自らも議定につき、

軍防事務局輔(すけ)、ついで制度事務局輔を兼任した。その後、上局議長、蝦夷(えぞ)開拓督務、開拓使長官を務め、大納言(だいなごん)に任ぜられた。明治4年1月18日没。57歳。

佐賀藩三重津海軍所は、明治日本の近代化遺産で世界遺産に登録されています。三重津海軍所の解説はこちらです。

 https://www.sagabai.com/main/?cont=kanko&fid=521

  

大隈重信も七賢人の一人です。

明治-大正時代の政治家。
天保(てんぽう)9年2月16日生まれ。肥前佐賀藩士大隈信保の長男。長崎でフルベッキに英学をまなぶ。維新後,明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。

秩禄処分,地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。同年東京専門学校(現早大)を創立。21年第1次伊藤内閣,ついで黒田内閣の外相となり,

条約改正にあたるが,反対派の来島恒喜(くるしま-つねき)に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板(わいはん)内閣)を組織。

大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。大正11年1月10日死去。85歳。

生家の横には、大隈記念館があります。

  

他の佐賀七賢人は、

副島種臣:文政11年9月9日生まれ。枝吉神陽の弟。肥前佐賀藩士。明治新政府の参与となり,政体書の起草にかかわる。外務卿(きょう)もつとめる。

明治6年征韓論をとなえて野にくだり,民撰議院設立建白書に署名。のち枢密顧問官,松方内閣内相を歴任。能書家。明治38年1月31日死去。78歳。初名は竜種。通称は次郎。号は蒼海(そうかい)。

佐野常民:文政5年(1823)12月28日生まれ。肥前佐賀藩士。藩医佐野常徴(つねあき)の養子。医学,蘭学,化学をまなび,藩の精煉方主任となり,日本初の蒸気船をつくる。

ヨーロッパ視察後,新政府で海軍創設につくす。明治10年博愛社(のち日本赤十字社)を創設。元老院議長,農商務相をつとめた。明治35年(1902)12月7日死去。81歳。

大木喬任天保3年(1832)3月23日生まれ。もと肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,勤王派として活躍した。維新後徴士となり,京都府判事,軍務官判事を歴任。

江藤新平らとともに東京遷都を実現させる。東京府知事,法相,文相,枢密院議長などをつとめた。明治32年(1899)9月26日死去。

  

旧古賀銀行に着きました。例会はここでゴール。自由解散になりました。お腹もすいてきましたので旧古賀銀行内のレストランで佐賀の御当地グルメ「シシリアンライス」をいただきました。

シシリアンライスは、ご飯の上に甘辛いタレで炒めた薄切り肉(牛肉が多い)と玉ねぎを乗せ、その上にレタスやトマト、きゅうりなどの生野菜を盛り付け、仕上げにマヨネーズを網かけした料理です。

調理法が簡単なため佐賀では家庭料理としても人気があります。

旧古賀銀行では、お雛様の展示も行われています。中でも特に目立つのが、鍋島緞通(だんつう)の雛飾り。

鍋島緞通は、江戸時代幕府への献上品でした。

 

 

  

古賀銀行を出ると隣のお店の前に面白いものが立っていました。

  

  

読んでいると8割ぐらいは、自分に当てはまります。(笑)