よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長岡せっかくウオーク(新潟県長岡市)

2015-09-16 15:20:16 | ウォーキング

9/11(金)長岡駅で「へぎ蕎麦」を食べ、14:00からのせっかくウオーク「戦後70年長岡市の歴史めぐり」に参加しました。

集合場所は、「アオーレ長岡大型ビジョン前」です。

アオーレ長岡は、長岡市庁舎東西棟、アリーナ、また、3棟に面して屋根付き広場「ナカドマ」があります。市役所の中には、ホテルみたいな「コンシェルジェ」がいます。

屋根の分の空間には、杉材ですの子状のパネルを付けています。ここには、長岡の歴史などが書かれています。アリーナ部は、バスケットコート3面があり、議場は、ガラス張りですので市民の皆さんが見ることができますので、

議員さんも議会の時、お昼寝もできませんね。(平成24年完成)

  

  

火焔土器は、縄文時代中期に信濃川流域の新潟地方で作られた火焔状に見える装飾を施した土器です。長岡で初めて出土されました。

アオーレ長岡の敷地は、昔、長岡城があった所です。本丸は、JR長岡駅の所でしたが、アオーレの所は、二ノ丸がありました。

  

二ノ丸跡地には、「城内稲荷神社」があります。ここは、昔、石油で有名になった「宝田(ほうでん)石油」(現新日本石油)があった所です。

 

お賽銭箱は、銅製のガマガエルの形をしています。

  

手水鉢は、明治24年(1891)頃から石油株式の取引が盛んになり、株式仲買人の中には、女性もいて女株券師と呼ばれていた。最盛期には、男性20人、女性百余人がいて、女株券師は、2人又は3人組で仕事をし、

中でも堀田タミ、渡辺キイの組がよく知れれています。この手水鉢は、明治末期にこれらの株式周施人が奉納したもので鉢の側面に刻まれた名前から女株券師の存在が証明されています。

 

14:00近くになりました。会場には、せっかくウオークに参加の方が集まられています。

ここで「長岡」の町を紹介します。

長岡に人が住み始めたのは、縄文時代中期ぐらいからだと言われています。室町時代には、永らく上杉氏の支配下に置かれていました。
江戸時代、上杉景勝の会津移封にともない、大名は堀氏から松平氏、また、堀氏と代わり、牧野氏の時代となりました。

 牧野氏は三河出身の譜代大名で、三河以来の伝統である、「常在戦場の精神」を精神風土とし、「質実剛健」な気風をつくりました。

日本が明治を迎えようとした、幕末維新期。幕府方の長岡は戊辰戦争に巻き込まれ、戦火に城も町も村も、一面焼け野原になりました。

 明治時代を迎え、長岡は新しい指導者として、三島億二郎、小林虎三郎らが登場し、米百俵物語として残るような、復興の努力をしました。

 昭和二十年八月一日、アメリカ軍のB29百二十五機による空襲によって犠牲者千四百六十余名。市街地の85%以上が焼失。と、
長岡はまたも一面焼け野原に。しかしまた不死鳥のように甦りました。(長岡市HPより抜粋)

                                                                                       

せっかくウオークは、「戦後70年長岡市の歴史巡りコース」と称し、観光ボランティアの方と、長岡戦災資料館~如是蔵博物館(日本互尊社)~山本五十六記念館~全国初タニタカフェの約3kmのコースです。

空からは、雨が降り出しました。

  

【長岡戦災資料館】

1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。(後に模擬原子爆弾と判明)
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。(長岡戦災資料館パンフより)

長岡戦災資料館は、長岡空襲を風化させることなく語り継ぐとともに平和の尊さを次世代に確実に伝えていくための施設です。

館内は撮影禁止でしたが、空襲のビデオを見ると戦争の悲惨さなどが伝わってきました。

【如是蔵(にょぜぞう)博物館(日本互尊社)】

互尊文庫を創設し、明治から大正時代に学校、社会教育などの公共事業に力を注いだ実業家、野本恭八郎をはじめ長岡出身の偉人の遺品や資料などを展示してあります。
 山本五十六専門コーナーもあり、長岡の偉人たちの心にふれることができます。

-互尊社(互尊文庫)の由来-
 日ごろから熱心に主張していた「我人独尊皆互尊(ワレヒトドクソンミナゴソン)」の深い考えを広めようとしてつけられました。(自分の尊さを自覚するとともに、他人を尊び敬うことが大切である) (長岡市HPより)

  

 

    

【山本五十六記念館】

明治17年(1884)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど広い視野をもっていた。
 旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。文武両道、質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きがかかる一方、石油や航空に早くから注目。リンドバーグの大西洋横断にも触発され、

特に航空の重要性を力説。太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

 開戦にはあくまでも反対だった。「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそである。

だが、その意に反し連合連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった。
 昭和18年(1943)ブーゲンビル島で戦死。激動の世紀に、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六の人間性を、21世紀に語り伝えたいと願う。(山本五十六記念館パンフより)

※山本帯刀は、戊辰戦争で河井継之助を軍事面で支えた若き大隊長。

  

山本五十六の名言

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

「やってみせて・・・・」は、上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」が基本にあるそうです。 

 男の修行

苦しいこともあるだろう。

云い度いこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣き度いこともあるだろう。

これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。

 アメリカとの戦いについて

是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。

しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。

三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。

(日米開戦後の見通しについて、当時の近衛文麿首相から聞かれた時の言葉)

戦争が長期化すれば日本は負けると予想していたのですね。

  

ウオーキングの後は、全国初のタニタカフェです。

  

ここは、体験型のカフェです。ハンモックや足湯コーナーがありリラックスしながらこころと体を温めるスペースになっています。

  

このタニタカフェのすぐ近くには、「米百俵の碑」があるということで立ち寄ってみました。

「米百俵」は、平成13年5月当時の小泉総理が所信演説で述べたことで有名になりました。

小林虎三郎は、文政11年(1828)に生まれ、晩年病翁と改めた。佐久間象山に学び、吉田松陰と象門の一虎と称された。

戊辰戦争後、敗戦の末、焦土と化した長岡の大参事に抜擢された。、「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の基になる」という教育第一主義を唱え、支藩三根山藩の救米百俵を赤貧にあえぐ藩士の強要を

「食えないからこそ学校を建てて、人材を育てるのだ」と言って退け、国漢学校設立の資にあて、長岡復興の礎を作った。この碑が建てられた所が、国漢学校の跡地です。

この事跡は、山本有三著「米百俵」によって広く世に伝えられました。明治10年50歳にて病歿。

この学校から、山本五十六など輩出された。

ホテルへの帰り道通った「河井継之助記念館

大河ドラマ「八重の桜」でも出ていた「河井継之助」。

文政10年(1827)元旦、長岡藩の中堅藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれ、江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。
長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。
後に継之助は異数の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。
藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。
戊辰の戦いには中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。
軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。
雪深い越後の国の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。
しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。
傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。
幕末の風雲を駆け抜けた継之助の、生涯をまとめたのが司馬遼太郎の<峠>。(長岡市HPより)

  

 

 

 

 

 

 

 

やまもと