よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山古志&信濃川ウオーク2日目(信濃川ウオーク)(新潟県長岡市)

2015-09-18 19:30:23 | オールジャパンウオーキングカップ

2015.9/13 山古志&信濃川ウオーク2日目です。

昨日は、絶好のウオーキング日和でしたが、今日は、朝からどんよりと曇っています。予報では昼から雨とのこと。

会場は、アオーレ長岡。今日は、新潟のゆるキャラ、「小太郎」「よいたん」「かわぐっち」「ナッちゃん」が応援に駆けつけました。

今日も「とほ娘さんご夫妻」と一緒です。

   

8:00ゆるキャラに見送られスタート。

   

私は、23kmコースで歩きましたが、膝の具合を見て23kmか15kmどちらかに決めたいと思います。

大手通りを通り、長生橋(ちょうせいばし)東詰に到着。長生橋を渡るのかな?と思いましたが、長生橋の手前から左折していきます。

  

約20分ほどで「フェニックス大橋」に到着。この橋は、2013年(平成25年)11月完成。信濃川と渋海川をまたぐ全長1272mの橋です。

  

「信濃川」は、新潟県と長野県を流れる一級河川。このうち信濃川と呼ばれているのは、新潟県域で長野県に遡ると「千曲川」と呼ばれています。

全長367kmのうち、信濃川は、153km、一方の千曲川は、214km。河川法上では、千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は、日本で一番長い川となっています。

渡り終えると右折。このあたりが5km地点です。今の所、私の膝の状態も順調です。然しいつ痛くなるかわからないため、いつもよりスローペースで歩いています。

 

河川敷の横の民家の屋根を見てみると、梯子がかかっている家が多くみられます。6月に札幌に行ったときもこのような光景が見られました。やはり屋根の雪下ろしに使うのでしょうか?

 

フェニックス大橋から河川敷に歩くと先ほど東詰を通った「長生橋」が見えてきます。

長生橋、現在の橋は、三代目です。昭和12年(1937年)完成しました。全国的にも大変珍しい構造をしており、現在でも長岡市民の生活を支える重要な橋として活躍しています。

歩道橋は、1972年(昭和47年)に付けられました。

毎年、8月1日~3日は、長生橋、大手大橋一帯で「長岡まつり」が開催されます。昭和20年8月1日に長岡空襲が起こり、旧市街地のほとんどが焼け、約1500人もの方が亡くなられたそうです。

そのことを忘れないようにと、この日に「長岡まつり」を開催したそうです。長岡まつりの最大の呼び物は、なんといっても「大花火大会」です。

写真は、ホテルに展示されていた中越地震復興祈願花火「フェニックス」です。(ホテルの了解を得ています)

    

一回この目で大花火大会を見てみたいのですが、この日は、全部旅行会社がツアーを組んでいますので、個人で直接ホテルへの予約は、かなり難しそうです。

長岡市のマンホールにもこの花火がデザインされています。(左側、花火、スキーヤー、悠久山公園の城と桜、長生橋) (右側、花火、悠久山公園城と桜、火焔土器)

     

長生橋を渡ると、与謝野晶子の歌碑、杉本鉞子(えつこ)「武士の娘」の碑があります。

与謝野晶子は、昭和9年ごろ長岡を訪れた夫妻が悠久山で遊んだあと、信濃川に来て当時木橋だった長生橋を渡って詠んだものです。

              あまたある  州に一つづつ 水色の 越の山乗る 信濃川かな

杉本鉞子は、長岡藩家老稲垣恒平の娘。鉞子は、大正12年、アメリカで自叙伝風小説「武士の娘」を出版。全米でベストセラーとなり、その後世界7か国語に翻訳されました。

この時、日本と世界の懸け橋になったことを記念して建てられました。鉞子が少女の頃、信濃川の土手で若草を摘んだ思い出を綴った一説が刻まれており、この地に碑を建てたそうです。

   

8km地点を過ぎました。工事用の単管バリ、新潟県は、県のゆるキャラ「トッキッキ」です。トッキッキは、男の子の「とっぴー」と女の子の「きっぴー」のコンビだそうです。朱鷺をイメージしています。

  

大手大橋を渡ります。大手大橋は、1985年(昭和60年)完成。全長878mです。

  

大手大橋を渡ると右折します。ここには、陸上競技場やスーパー、赤十字病院などが建ち並び、遊歩道は、ジョギング、ウオーキングを楽しむ人がおられます。

  

三島億二郎の銅像があります。

1825-1892 明治時代の実業家。
文政8年10月18日生まれ。もと越後(えちご)(新潟県)長岡藩士。明治2年同藩大参事。小林虎二郎などと戊辰(ぼしん)戦争後の長岡復興につとめ,長岡洋学校,長岡病院を創立。

17年長岡第六十九国立銀行(現北越銀行)の頭取となり,19年北海道開拓の北越殖民社をつくった。明治25年3月25日死去。68歳。

      

 長岡赤十字病院の近くが、チェックポイントです。チェックを終えると23kと15kの分岐点。

23kにするか、15kにするか迷いましたが、膝の具合もさることながら、天気が悪くなりそうで15kmを選択しました。

23kコースは、長岡大橋を渡らずに先の蔵王橋を渡って長岡大橋に戻るコースです。

  

長岡大橋は、全長1078mで1970年(昭和45年)に完成しました。橋の照明灯には、鳥、花火などのモニュメントがありました。

  

長岡大橋を渡り、西神田二の所が、12,5k地点。あと2,5kです。

 

西福寺があります。ここに「維新の暁鐘(ぎょうしょう)」があります。

 慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島、槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を攻撃してきました。
この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。
説明文によると、
 西福寺の梵鐘は、明和3年(1766)に長岡藩お抱えの鋳物師田中多左衛門尉重定が造ったものです。鎌倉時代の作風を伝え、美しい龍頭が特徴。江戸時代の長岡の鋳物業は、新町村の土屋を中心にして栄えました。
 北越戊辰戦争では、長岡藩が落城した慶応4年(1868)5月19日の早朝、西軍来襲の際この鐘が乱打されました。
 長岡の歴史にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになりました。

  

コースは、長岡市街地に入ってきます。信号を待っていると、23kコースのトップ集団がやってきました。時間は、まだ11時前。

トップ集団の速度を計算しましたら、8k/hぐらいです。膝を痛めている私は、せいぜい早く歩いて時速5kぐらい。

一回でいいから私もトップ集団に加わりたいな~(写真ばかり撮っていると無理です。

11:10  15kmゴール

膝の痛みをこらえながらのゴールでした。参加者は、2日間で1282名です。

  

   

ゴールでは、豚汁のお振舞がありました。

    

会場で待っていると、12時05分ごろ「とほ娘さんご一行」がゴールされました。23kmを歩かれたそうです。

本日のGPSです。出発の時、スタートのボタンを押し忘れ、途中からのGPSになりました。

今回、初めて新潟・長岡の町を歩きました。美味しいお酒とグルメに大変満足しました。機会があれば、また参加したいです。

明日は、新潟市内を歩いてみます。