よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第14回長良川ツーデーウオーク2日目30km「金華山と中山道コース」(岐阜市)

2015-06-12 12:51:52 | オールジャパンウオーキングカップ

6/7 少し曇っていますが、予報では、雨は降らないみたいです。

昨日と同じバスで会場の岐阜公園へ。昨日は、「ミナモ君」が出発式に駆けつけてくれましたが、今日は休みの様です。

今日のコースは、30k、20k、13kが金華山登山(329m)です。登り下りで約4km。かなり険しいコースです。

金華山は、この山に自生する「ツブラジイ」の花が黄金色に輝いているようにみえたことからこの名がついたと言われています。

8:30岐阜副市長の合図でスタート。スタート直後から「七曲り登山道」という険しい山道です。今日も敦賀の車さんご夫妻と一緒に歩きました。

  

  

登り始めて5分も経たずに息が上がってきました。昨日の酒が残っていたのか、もう汗びっしょりです。階段が高くできるだけ階段を避けて登ります。

35分かけてロープウェイの所まできました。ロープウェイの所には、「リス村」がありますが、9:30開園ですので、リスには会うことができませんでした。

  

永禄10年(1567年)9月、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移しました。稲葉山城の城郭を再建するとともに城下町の「井ノ口」を「岐阜」と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど

美濃国の繁栄を図りました。また、信長は、「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城となりました。

  

岐阜城へ行く途中に「千成瓢箪発祥の地」があります。永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従えて、

岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。

以来、千成瓢箪発祥の地とされている。以後戦で勝つたびに瓢箪を増やしていったといわれています。

 

 

 

岐阜城が1回目のチェックポイント。

このコース、登り下りは、ロープウェイの使用も認められていますが、折角ですので歩いて下りました。

下りは、「瞑想の小径」と名づけられています。急勾配の岩場の道をポールを使い、ゆっくりゆっくり下りて行きます。 

雨が降ってなくてよかったですが、雨が降ると滑りやすくなるでしょうね。

   

途中、ビューポイントの所がありました。向こう側には、昨日登った「百々ヶ峰」が見えます。

下りていると、後ろから走って下りる方がいらっしゃいました。早く歩きたい気持ちは、わかりますが、狭い岩場の道です。もし、転んだりすると周りの人に迷惑をかけます。

もう少し、常識をもって歩かれたらいいのですが・・・・・・・

  

約50分ぐらいかかって下りてきました。まだ岐阜公園の中です。

下った所に「御手洗池」がありました。かつて岐阜城が陥落した折に、城の奥女中たちがこの池に身を投げて自ら命を絶ったという悲しい伝説があります。

  

長良橋を渡ると、「鵜飼乗り場」があります。

長良川の鵜飼いは、鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、およそ1300年の歴史があり、時の権力者たちに保護されてきました。織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護したと言われており、

徳川家康はたびたび岐阜を訪れ鵜飼を見物、保護し、岐阜でつくらせた鮎鮨を江戸まで運ばせました。(御鮨街道)

例年、5/11~10/15の中秋の名月と増水時を除く、毎夜行われます。

 

長良橋を渡り、河川敷沿いを歩きます。この河川敷は、2000年、シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得した「高橋尚子」さんが、県岐阜商業高校時代にトレーニングしたコースを

岐阜市が整備し、「高橋尚子ロード」と命名しました。長良川公園を起点とする長良橋から忠節橋までの河川敷往復5kmのコースです。

この日も市民ランナーの方がトレーニングをされていました。

  

高橋尚子ロードを歩いていると、街路樹に実がついている木がありました。「くるみ」です。

この木に鳩が止まったら、「小鳩くるみ」だ!なんておやじギャグで笑わせます。小鳩くるみさんってご存知の方は、私達と同じ世代かな?小鳩くるみさんは、岐阜市の隣町、愛知県一宮のご出身だそうです。

忠節橋が13k、8kの分岐点。30k、20kは、まだまっすぐ歩きます。この道、長良川の側道を歩いていますが、どこも同じ景色で何か退屈です。

  

  

昨年までは、20kコースは、「小紅の渡し」を船で渡りましたが、今年は、船の修理、点検で「鏡島大橋」を渡るそうです。

小紅の渡し」は、元禄元年(1692)に初めて史実に登場しました。以後、長良川川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えました。

また、加納藩の支領北方、文殊旗本領への主要道であり、鏡島弘法への近道としても大変賑わっていました。小紅という名前は、いろいろ説があるそうですが、お紅という女船頭がいたからだそうです。

  

河渡橋(こうどばし)の所が、チェックポイントです。朝の金華山登山が応えたのか、疲れがピークに達しています。ここでしばし休憩します。

河渡橋は、昔は「河渡の渡し」がありましたが、明治14年(1881)橋が架けられ渡しは姿を消しました。

  

橋を渡ると「鏡島湊(かがみしまみなと)」の案内看板があります。

鏡島湊は長良川を利用した舟の運送うの湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。

位置は岐阜町近くで分流した長良川が再び合流するすぐ川下にありました。
1592年、岐阜城主 織田秀信は鏡島の馬渕与左衛門に、新町を造る事を命じ、ここ以外での船荷の陸揚げを禁じました。

分流し水量が少なく川瀬お関係で荷を積んだ舟がそこ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜城下町の外港として整備し、自らの支配下にしようとしたのです。

鏡島湊の権益は、関ヶ原の合戦後、加納藩が成立してからも認められました。
鏡島を通る東西の街道が中仙道として公道化すると交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、街並みは長く伸び発展しました。

しかし加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下町近くで荷揚げされるようになりましたが、

鏡島湊の特権は、完全に崩されることはなく江戸時代を通じ守られました。

湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代の後半になるとその役割終えました。

このように長く当地方発展を支えた湊として先人を讃え後世に伝承するために、ここの湊の案内板を建設しました。(案内板より)

コースは、「中山道」に入ってきました。このあたりは、「河渡宿」に入りますが、河渡宿の中心部は、河渡橋の手前になります。

  

鏡島弘法が3回目のチェックポイント。鏡島弘法は、弘法大師が、地面に挿した散杖(杖状の仏具)から、梅の枝葉が出たことで、別名「梅寺」と呼ばれています。

空襲による焼失を免れた重要文化財、十一面千手観音像が現在も残っています。

ここでは、御朱印をいただきました。

  

このあたりから、中山道「加納宿」に入ります。道路の集水桝にも「中山道」の刻印が付けられています。

  

先に進みますと「脇本陣跡」の石碑が建っています。

  

更に先に行くと、加納宿本陣跡の碑があります。横には、皇女和宮御仮泊所となっています。

和宮は、将軍家茂との結婚の為江戸に向かう途中、ここでご宿泊されたそうです。その時の心情を語った歌の碑も経っています。(直筆だそうです)

  

元来、街道歩きが好きな私は、この宿場の「遺跡」を探しに夢中になっています。然し、今日は、ウオーキング大会、ゴールの時間も決まっていますので「そこそこ」にしないとゴールに間に合いません。

「加納宿当分本陣跡」という碑が建っています。あれっ、さっきの「和宮仮泊所」が、本陣では???

調べてみますと、当分の間本陣として定めらていた臨時の本陣だったらしい。江戸時代末期に参勤交代制が崩壊し、江戸から帰還する大名家の妻子が頻繁に往来するようになると、本陣だけでは対応することができず、

有力者の家を一時的に本陣としたそうです。

  

先へ行くと、古い建物が目に入ってきます。これは、「旧加納町役場跡」で、大正15年、R造2F建てで造られました。戦時中壁を黒く塗ったためこのような廃墟みたいになったそうです。

現在は、耐震上の問題で中に入ることは、できませんが、国の登録有形文化財に指定されています。

加納城址」は、慶長六年(1601)、関ヶ原合戦の翌年、天下分け目の戦いに勝利した徳川家康は戦国の世の象徴的存在となっていた岐阜城を廃し、斎藤氏時代のこの城跡に新たな城を築きました。

これが近世加納城と呼ばれるものです。

 

  

  

「茶所(ちゃしょ)」が4回目のチェックポイントです。ここでは、「御団子」の接待がありました。

  

加納宿は、町の中にも古い建物が残っています。これは、お醤油屋さんでしょうか、玄関に大きな「樽」がありました。

柳ケ瀬が5回目のチェックポイントです。

   

柳ヶ瀬は、岐阜市の歓楽街です。近くには、デパートの岐阜高島屋もあります。

日曜日ですが、人の通りが少なく、やはり夜に賑わうのでしょうか?

商店街の中ほどに、美川憲一さんが歌った「柳ケ瀬ブルース」の歌碑があります。

  雨の降る夜は 心も濡れる まして 一人じゃ なお淋し 憎い仕打ちと うらんでみても 戻っちゃこない あの人は あ~柳ケ瀬の 夜に泣いている   

美川さんの芸名は、岐阜県を流れる、木曽川、揖斐川、長良川の美しい3つの川から命名されたそうです。

昭和41年(1966年)の曲ですから、もう約50年経つのですね。このころの美川さんは、スーツ姿で歌っていたように記憶しています。今とは、ちょっと違いますね。

  

柳ケ瀬をあとに、粕森神社に来ました。この神社の前には、大きな榎があります。

  

御鮨(おすし)街道」に入ってきました。御鮨街道とは、長良川の鵜飼いで獲れた鮎を飯とともに発酵させた鮎鮨を江戸の将軍家へ献上するために搬送した街道です。

鮎鮨は、岐阜町が幕府領の時代から江戸に運ばれるようになり、元和5年(1619年)に、岐阜町が尾張藩領になると、尾張藩から幕府への献上品となりました。(案内板より)

  

この街道には、仏壇店など昔の名残を残した旧家が建ち並んでいます。「岐阜鋳物」も伝統産業でしょうか?

    

岐阜城が見えてきました。ゴールまであと少しです。

岐阜大仏」が、あります。日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさを誇ります。
天保3年4月(1832年)に、実に38年の歳月を費やして完成しました。
堂の高さ25.15m、廻り19.39m、仏像は坐像で、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、鼻の高さ0.4m。大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、

その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものです。胎内には薬師如来がまつられています。

中に入ろうかなと思いましたが、ちょうどその時団体客がバスから降りてきて、皆さん入口に並ばれました。

もう、今日は、疲れてとても並ぶ気になりません。スルーしました。

15:15  スタッフさんの暖かい拍手でゴール! 昨日と約1時間遅いゴールです。ゴールでは、味噌おでんの接待がありました。

    

6/07 30kmのGPSです。

                 

 2日間とも厳しいコースでしたが、スタッフさんの暖かいおもてなしに感動しました。有難うございました。