よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

官兵衛ウオーキング「黒田家ゆかりの黒崎」(福岡県北九州市八幡西区)

2014-10-12 11:16:44 | JR九州ウオーキング

10/11は、JR九州ウオーキングで北九州市八幡西区黒崎へ行ってきました。黒崎は、黒田六端城の一つ「黒崎城」があった所です。

                

 慶長5年(1600)関が原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した黒田長政(黒田官兵衛の長男)は翌6年から福岡城の築城にとりかかりました。
(福岡という地名は黒田家のゆかりの地岡山備前邑久郡福岡村(現岡山県瀬戸内市長船)からとった)
また同時に国境の守りを固める為、同15年までの間にこの黒崎城をはじめ、若松城、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良(まてら)城の六端城を築いた。
左右良城は杷木町にあり、豊後国をにらんでいたが、他の五城は豊前国をにらんでいた。豊前国細川忠興とは不仲だったそうです。
黒崎城主は黒田24騎の一人井上周防之房(ゆきふさ)が入った。(大河ドラマでは、高橋一生さんが演じてます)
然し幕府の一国一城の令により元文元年(1615)わずか十数年で城は破却されました。

黒崎駅隣のショッピングセンターでは、黒田二十四騎が勢ぞろいしています。この中で、黒崎駅長が、なみなみと注がれたお酒を飲みほしています。これから黒田節の演武がされるのかな????

     

    

駅前の歩道橋を通り、「春日神社」へ。春日神社には、「絹本著色黒田二十四騎画像」が奉納されています。

福岡藩が、江戸末期御用絵師「尾形洞霄」に命じ、初代黒田長政に仕えた二十四人の重臣の肖像画を描かせ、春日神社に奉納したものです。

これは、長政の死後、かつて黒崎城を預かっていた井上周防之房が春日神社に長政の霊を祀り、黒田大明神として祭礼を行ったという由来によるものです。

  

      

黒崎は、長崎街道「黒崎宿」として発展しました。商店街には、「黒崎宿」の看板が立っています。

曲里松並木公園では、「黒崎宿秋のにぎわい祭り」が行われていました。

   

会場では、「官兵衛鍋」が振る舞われていました。行列に並び、私もいただきました。

  

曲里松並木では、「黒田二十四騎」に扮された方々が出番を待たれています。

    

その中に、何か変わった「黒田二十四騎」がいました。脇差もしています。

黒田二十四騎は、ひょっとして、黒田二十四騎+一頭の犬だったのでしょうか 

    

曲里の松並木 

 江戸後期の狂歌師太田南畝(おおたなんぽ)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木をゆくゆく坂を上り下りて、また坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」と

 その紀行文(小春紀行)にこの「曲里の松並木」あたりの描写をしています。
 この松並木は当時幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で、日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中山道)、さらに箱根の杉並木(東海道)はその代表的なものです。
 昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて街道には多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の面影を留めているのみで、当時の松も残り2本となりました。
 なお、史跡の指定範囲は幅20~30メートル、長さ約310メートル、面積約8000平方メートルで、現在旧街道緑地として整備されています。(八幡西区HPより)

  

曲里松並木を通り、王子町を過ぎると左手に「穴生(あのう)ドーム」があります。ドーム内では、テニスの試合が行われていました。

  

筑豊電鉄穴生駅を過ぎると、「弘善寺」があります。

 浄土宗弘善寺は大永年間(1521~1528)に行蓮社(ギョウレンジャ)念誉上人行明和尚が開山し、黒田二十四騎のひとりでもある黒崎城主の井上周防之房によって再興された、九州の浄土宗を代表する歴史と伝統と伽藍を誇る寺院です。
この寺には、井上之房の夫人(法名 玉泉院殿光誉法月大姉)と之房の娘(法名 覚修院殿享誉涼心妙大姉)が葬られています。

夫人は、播州志方城主櫛原氏の娘で、娘は、黒田長政の従兄弟の黒田修理正基に嫁ぎましたが、若くして死別したため、ここに葬られています。お二人とも元和4年(1618)に亡くなられています。

  

  

夫人と娘さんのお墓は、寺の裏側にあります。

    

尚、井上周防之房の墓は、遠賀郡岡垣町高倉の龍昌寺にあるそうです。

12:43JR黒崎駅にゴールしました。

今日は、朝から中津と黒崎、二つの官兵衛ゆかりの地を訪ねました。

 

 

 

 

 

 


松本清張「点と線」の舞台を歩く(福岡市東区香椎浜)

2014-09-29 21:31:54 | JR九州ウオーキング

9/28は、JR九州ウオーキングで千早駅~人工島を歩きました。この歩いたコースは、松本清張の「点と線」に出てくる香椎浜です。

松本清張の「点と線」は、昭和32年に発表されました。この本のあらすじは、

料亭「小雪」の女中2人と、東京駅の13番線プラットフォームで見送られていた機械工具商会を経営する安田辰郎。この3人は、向かいの15番線プラットフォームに、同じく「小雪」で働くお時が男性と夜行特急列車「あさかぜ」に乗り込むところを見つける。だが数日後、お時とその男・佐山は、香椎の海岸で情死体となって発見された。

一見ありふれた情死に見えたが、博多のベテラン刑事・鳥飼重太郎は、佐山が持っていた車内食堂の伝票から事件の裏の真相を探るため、一人、捜査をすることにする。

一方、佐山は現在社会をにぎわしている××省の汚職事件の関係者であった。この事件を追っていた本庁の刑事・三原紀一は、心中事件を追って九州へ向かい、鳥飼と出会う。

捜査の結果、二人は、東京駅で13番線プラットフォームから15番線プラットフォームが見えるのは、1日の中でわずか4分間しかないことを突き止め、安田を容疑者として追及しようとする。だが、安田には完璧なアリバイがあった

今まで映画やドラマ(最近では、ビートたけし主演のドラマが有名です)で放映され、時刻表のトリックに夢中になっていました。

この事件の舞台「香椎」は、次のように書かれています。

鹿児島本線で門司方面から行くと、博多につく三つ手前に香椎という小さな駅がある。この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幣大社香椎宮、海の方に行くと博多湾を見わたす海岸に出る。 

前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島の山が海に浮び、その左の方には残の島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。

昔の「橿日の浦」である。太宰帥であった大伴旅人はここに遊んで、「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」(万葉集巻六)と詠んだ。…… 

彼らは、二十日の夜九時二十四分香椎駅着の上りで博多から来たのだ。すると博多駅は九時十分ごろに乗車したことになる。ここまでは十五分ぐらいで着くはずだからだ。 

佐山が女からの電話をうけて宿をとび出したのが、午後八時すぎとみて、博多駅から汽車に来るまでの約「時間、二人はどこで会い、何をしていたのだろう?この調査はたいへん困難で、

おそらく絶望である。広い博多の街では、空漠として当りようもない。・・・・・・

現在では、博多から香椎までには、旧国鉄操車場跡地に「千早」という駅が出来、犯行現場には、この千早駅の方が近くなっています。

またこの一帯は、開発が進み、福岡・東区を代表する住宅地になっています。

  

死体発見場所になった「香椎浜」は、あれから埋め立てられ、人工島などもできました。小説には、香椎浜から海ノ中道、能古島が見えると書いてますが、今はマンションが立ち並んでいます。

   

  

河口では、水上スキーを楽しむ若者がいました。

本日のGPSです。

 

 

 


世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を巡る(長崎県平戸市)

2014-09-28 21:19:14 | JR九州ウオーキング

9/27は、JR九州ウオーキングの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産を巡るウオーキング」に参加しました。今週末から「しまなみ海道3DM]に参加するため自主トレを兼ね参加です。

出発は、JR佐世保駅。ここからシャトルバスで、松浦鉄道「西田平(にしたびら)駅」まで移動。

  

20分ほど歩くと「昆虫館」があります。カブトムシなどが展示されています。昆虫館の傍には、キリスト教関係の方の墓地があります。

  

田平天主堂」にやってきました。

明治時代、九十九島の黒島や、長崎西彼杵などから移住してきた信徒たちが開墾したこの地に、大正4年(1915)3年の歳月をかけ、信者たちによって建設されました。

教会棟梁「鉄川与助」の代表作です。この田平天主堂も世界遺産候補「「長崎の教会群・・・・・」の一つに挙げられています。

  

  

田平天主堂を過ぎると、「田平公園」に入ります。ここは、スポーツ公園になっていて、サッカーや、テニスなどの競技が行われていました。

話は、それますが、今年の国体は、長崎で来月より開催されます。町のいたるところに「長崎国体」のポスターが掲げられています。

この「田平公園」から見る「平戸大橋」も最高です。パノラマで撮ってみました。

  

田平公園を過ぎ、コースは、このあと平戸大橋を渡ることになっていますが、ここで少し寄り道をします。寄り道をしたのは、平成24年2月にオープンした「平戸瀬戸市場」。

ここでは、平戸産の食材を販売しています。鮮魚コーナーを見ると「小アジ」が袋一杯に詰め込んで@100。少々遠慮気味に詰めたのですが、帰って数えてみると70匹は、ありました。

あと、「湯でタコ」。刺身にしたらおいしそうです。保冷袋をDバックに詰めてコースに戻ります。Dバックは、氷も入り、重くなりました。この市場では、2階が食堂になっており、平戸産のお魚料理や平戸牛を使った肉料理が楽しめます。

 

   

コースに戻りました。ロスした時間は、約45分。平戸大橋を渡ります。この橋と海の光景は、「しまなみ海道」に似ていて来週歩く瀬戸の海を想像します。

平戸大橋は、1977(昭和52)に開通しました。全長655m。橋が開通する前は、田平港(あのころは平戸口)からフェリーで平戸に渡っていました。

私も平戸港ターミナル工事の際、よくこのフェリーを利用し平戸に行っていました。フェリー代金が、何か非常に高かったような記憶があります。

  

渡ると、給水所が設けられています。JRウオーキングではあまり見かけない光景です。給水所では、飲み物の他に「おつまみアゴ」※トビウオのことをこちらでは「アゴ」と呼んでいます。)「塩金平糖」が振る舞われました。

     

最教寺にやってきました。最教寺は1607年、第26代平戸藩主松浦鎮信公によって建立された。建立以前は、真言宗の寺があったといわれ、また 弘法大師が唐より帰朝のおり 護摩を焚いたと伝えられている。

  

平戸の市街地に入ってきました。

平戸の町並みは、古い街並みを再現するため、クラシック基調のお店が並んでいます。その街中の一角に「カメラのたかた」があります。

ここが、通販王手「ジャパネット たかた」社長「高田 明」氏のご実家です。現在は、実兄の方がカメラ屋さんを営業されているそうです。

   

商店街から教会坂に入ります。この坂、ちょっときついです。左側には、瑞雲寺、光明寺があります。ここから教会が見えます。

この地が「寺院と教会の見える風景」です。ここも世界遺産候補の「長崎の教会群」に入っています。

  

  

寺院に重なるように天主堂の尖塔が望まれる場所です。見上げると光明寺。その下が瑞雲寺。その光景は、平戸の異国情緒の香りを感じさせます。この周りの石畳の階段や坂道は、古都平戸ならではの静かな散歩道です。(パンフより)

   

  

崎方公園からの眺めも絶景です。

平戸オランダ商館」は、1609年に設立された東アジアにおける貿易拠点で、江戸時代初期の日本の対外政策を考える上で重要な存在でした。
平戸では比較的自由な活動ができたため、商取引や日常生活で様々な交流が行われていました。

しかし、進展する鎖国政策により、1641年に長崎出島への移転が命じられ、約33年の平戸時代は終焉を迎えます。
復元された建物は、1639年に完成した巨大な石造倉庫であり、日本ではじめての洋風建造物です。

2011年、これらの情報をもとにオランダ商館が復元されました。

   

崎方商店街では、アゴなどの干物屋さん、約400年もの歴史のあるお菓子屋さんがあります。

  

このウオーキングは、平戸港交流広場がゴールです。ゴールでは、参加者に平戸名物「アゴ焼き」が振る舞われました。頭ごと食べてしまいました。(笑)

  

平戸港交流広場から、シャトルバスで出発地の佐世保駅へ。久しぶりの平戸ウオーキングでした。

JWAの平戸2DMは、今年は国体の関係で11月末の土、日で行われるそうです。参加してみようかな・・・・・・・・・・・

本日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


JR九州ウオーク「佐賀・恵比寿様めぐり」

2014-09-23 21:39:00 | JR九州ウオーキング

9/21は、JR九州ウオークの「福こい恵比須巡りウオーク」に行ってきました。

佐賀市は、市内に約800体の恵比須さんがあり、その数は日本一です。今回は、その恵比須さんから51か所を廻るというウオーキングです。

一方で、佐賀市からは、「恵比須八十八カ所廻り」というスタンプラリーも開催されており、ウオーカーの中には、このスタンプラリーにも参加されている方がいらっしゃいました。

なぜ、佐賀に恵比須さんが多いかというのは、いろんな説があるそうです。saga ebisu.comでは、次のように説明しています。

1. お殿様が恵比須様を祀って、それが住民に広がった説

2. 海運業が盛んな佐賀城下町だったので、関係者が海の神様として恵比須を祀った説

3. 重要な道「長崎街道」沿いで、旅の安全を祈願する神様として恵比須を祀った説

4. 石の大工が多かったので恵比須像が広がった説

 

   

 

1番目の恵比寿は、佐賀駅内1番ホームにある、「旅立ち恵比須」です。それから「快復恵比須」「子育て恵比須」「江戸恵比須」・・・・・・・・・・・

    

    

     

   

   

    

結局51か所分の27ヵ所、廻ることができました。

時間があれば、もう少し廻れたのですが、昼からソフトの試合があるため、やむなくゴールに向かいました。

ゴールに向かうと駅前のビルに「青い山脈」の映画ポスターが描かれていました。吉永小百合さんが若いですね。

途中、佐嘉神社では、結婚式が行われました。今は、花嫁さんの角隠しは、帽子型(綿帽子)になっており、レースですね。初めて見ました。

  

昔ながらのお薬屋さん

 

お茶の花とお茶の実。花は、山茶花に似ています。

     

今日のおいしいもの。鶴の堂の「肉まん」。佐賀を通るといつも行列ができており、今回初めて立ち寄りました。ふっくらして本当においしかった。

   

マウンテンの「シューアイス」「シュークリーム」

  

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「今宿の田んぼアート2014」(福岡市西区)

2014-09-22 20:31:36 | JR九州ウオーキング

9/20は、久しぶりにJR九州ウオーキングに参加しました。

コースは、JR下山門駅→壱岐神社→生の松原森林公園→元寇防塁跡→長垂海浜公園→JA田んぼアート会場→JR今宿駅までの11km。

私の地元のコースですので、8:25下山門駅着のJRで参加しました。もう受付が始まっており、ウオーカーの方は、スタートされています。

私も受付を済ませ、8:35スタートです。

            

【壱岐神社

壱岐神社は、謀反の疑いがかけられた「武内宿禰」の身代わりとして自ら命を絶った「壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)」を祀っています。

真根子は、姿かたちも武内宿禰似ていたそうです。

【生の松原】

神功皇后が三韓征伐に行かれた時、この地で松の枝を逆さに刺して戦勝を占った際、この枝が生きて栄えたので「生の松原」となりました。

  

生の松原を抜けて、旧国道202号線(千代今宿線)に出ます。ここは、旧唐津街道です。

私が学生のころは、「松原ポニー」、「山幸」、「キャビン」、長垂の方には、「ラ・メール」などのドライブイン街でしたが、今は、病院が経営している老人施設になっています。

生の松原海水浴場もありましたね。でもここから見える光景は、昔も今もあまり変わっていません。

  

長垂海浜公園に着きました。ここからの光景も素晴らしいです。40年ほど前までは、「長垂海水浴場」でした。

今は、8月上旬、この海岸で「今宿花火大会」が開催されています。花火が海に映る姿は、本当に綺麗です。

  

海岸線を過ぎ、山手の方に向かいます。田んぼには、近くの小学生が作った「案山子」と「彼岸花」咲いています。

彼岸花も「赤」「白」「黄」の色が咲いています。私たちが子供のころ、彼岸花は、お墓に多く「地獄花」と呼んでいました。彼岸花は、有毒で田んぼの土中に生息する虫たちを退治するために植えられたと記憶しています。

それが、今や、観賞用の花ですね。

     

※何ともユニークな案山子ですね。

  

さて、今回のウオーキングの目玉である「今宿田んぼアート」に着きました。昨年は、義父の法要のため行けませんでしたが、今回で5回目だそうです。

今年のテーマは、「招き猫ときんしゃい今宿」です。子供たちから今年のテーマを募集したところ、この招き猫ときんしゃい今宿になりました。※「きんしゃい」とは、方言で「いらっしゃい」という意味です。

  

田んぼアートを楽しみゴールの「JR今宿駅」には、10時50分に到着しました。楽しい田んぼアートウオークでした。

本日のGPSです。グーグルアースでアップします。

 

 

 

 

 

 

 


JR九州ウオーキング「軍師官兵衛の足跡」博多駅~福岡市博物館

2014-09-08 06:58:03 | JR九州ウオーキング

夏の間、休んでいた「JR九州ウオーキング秋編」が今日から始まりました。

8時半から受付ですが、8時過ぎには、約400人ぐらいの行列ができていました。

秋編の目玉は、大河ドラマ「軍師 官兵衛」にちなみ、官兵衛のゆかりのコースが11もあります。スタンプの数でステッカーや缶バッチがもらえます。

    

受付のあとウオーキング開始。久しぶりのウオーキングですので気分がわくわくしています。

コースは、大博通りを通り櫛田神社の鳥居の所から左折します。よくテレビで缶詰バーなどが紹介されていますが、ここ博多でも缶詰バーがありました。

       

「博多町家館」は、明治中期に建てられた博多の町家を移転移築しました。

博多町家館の迎え側は、「櫛田神社」です。7月の山笠には、この神社の「清道」を廻っていきます。行ったときには、ちょうど祝詞の最中でした。

  

 櫛田神社から明治通りに入ってきます。このあたりは、九州一の繁華街「中州」です。博多川の袂に博多リバレンがあります。リバレンの博多川の方に小さな天満宮があります。

ここは、菅原道真が太宰府に左遷されて、博多に到着したときに鏡で姿を映した場所と伝えられ、その時の鏡を神体としたことから「鏡天満宮」という社名になったそうです。

鏡天満宮の前には、「渡唐口跡」があり、ここから遣唐使などが大陸に渡っていきました。

    

中州の橋を渡ると「福岡部」に入ります。この橋が博多部と福岡部の境界。昔は、博多部が商人の町、福岡部が城下町と分かれていました。博多山笠は博多部の祭りで、山笠期間中一回だけ「集団山見せ」として福岡部にやってきます。

橋を渡ったところに「水鏡天満宮」があります。菅原道真は京より大宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、今泉にある四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映し、水面に映る自身のやつれた姿をみて嘆き悲しんだとされ、これにちなんで今泉(中央区今泉)に社殿が建造され「水鏡天神(すいきょうのてんじん)」「容見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。

江戸時代初期の慶長17年(1612年)福岡藩初代藩主黒田長政によって「水鏡天満宮」として福岡城の鬼門にあたる現在の地に移転された。ちなみに、「天神」とは菅原道真のことをさし、

福岡市中央区の「天神」の地名は、この天満宮の移転に由来します。尚、水鏡天満宮の鳥居の文字は、福岡市出身の総理大臣広田弘毅の書だそうです。

    

天神にやってきました。普通の日は、通勤でこの駅から降り地下街を通りますので久しぶりに地上の天神を見ました。

証券ビルの所には、黒田八虎の一人「母里太兵衛」の屋敷跡があります。母里太兵衛は、福岡県民謡「黒田節」のモデルです。

昔は、この一帯は、福岡藩の大名の屋敷がありました。町の名もこの先の信号から「大名」になります。

   

大名のJT跡には、飯田覚兵衛の屋敷跡があります。飯田覚兵衛は、熊本藩士で加藤清正公没後、福岡藩に迎えられました。屋敷には、熊本から持ってきたという大きな銀杏の木があります。

この銀杏、病気になってしまったのでしょう。今、再生治療が行われています。その効果でしょうか、銀杏の実もつけています。

  

大名、赤坂を過ぎると福岡城跡(舞鶴公園)へ入ります。昔の西鉄ライオンズの本拠地「平和台球場」は、現在「鴻臚館」として整備されています。入口には平和台球場のレプリカがあります。

公園内には、「官兵衛ドラマ館」がありました。ドラマ館の前には、官兵衛や長政公に扮した方々が出迎えてくれます。

  

1600年(慶長5年)、黒田長政は関ヶ原の戦いで戦功を上げ、徳川家康より52万3千石を与えられ、豊前国中津(大分県中津市)から筑前国(福岡)に移り、福岡藩初代藩主になりました。
 長政は初め、名島城(福岡市東区)に入りますが、狭く、城下町も作れないため、福崎(旧那珂郡警固村・現舞鶴公園)に1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて、総面積80万㎡(24万坪)、

東西1km、南北700mの全国でも有数の規模の平山型の城を築城しました。

  

春には桜の名所として多くの観光客や市民が訪れます。名島門は、名島城から移設してきました。名島門を抜けると福岡市民憩いの場「大濠公園」に入ります。福岡城の外堀になります。

ここでは、11月の福岡市民マラソンに向け多くのランナーが練習しています。また、高校女子駅伝の強豪筑紫女学園のランナーの練習場所でもあります。1周は約2kmです。

8月の初めには、西日本花火大会が開催されました。

  

大濠公園を抜けると「西公園」に向かいます。ここも福岡の桜の名所です。この公園には、官兵衛と長政を祀った「光雲(てるも)神社」があります。

光雲神社は、官兵衛と長政の戒名の一字をとって名づけられました。

   

 

光雲神社から福教大付属小、中学校を通ると「唐人町」に入ります。ここは、福岡藩の下級武士が住んでいました。幕末の勤王志士「平野国臣」もこの地にありました。

平野國臣の有名な句は「わが胸の燃ゆる思いに比ぶれば 煙は薄し 桜島山

また、この地は、寺院が8つもあり、福岡藩が北側の海からの都市防衛の要塞として建立しました。唐人町商店街には、旧唐津街道が通っていました。

唐人町を海側に歩くと福岡ソフトバンクホークスの本拠地「福岡ヤフオクドーム」があります。この近くには、ソフトバンクホークスのキャラクター「ハリーホークス」のマンホールがあります。

    

ヤフオクドーム周辺は、「よかトピア通り」と呼ばれており、1980年代から百道(ももち)浜、地行(じぎょう)浜の臨海一帯が埋め立てられ、1989年に「アジア太平洋博物会(通称よかとぴあ)」の会場になりました。

現在では、領事館、テレビ局、博物館、オフィースビルなどが建てられ福岡のビジネスセンターとしての役割を果たしています。

「福岡市博物館」は、この一角にあります。博物館は、今、「軍師官兵衛展」が開かれています。今日は、JRウオーキングのシールを見せると入場料が1000円です。(通常1500円)

   

展示場には、母里太兵衛が福島正則からもらった「日の本一の槍」や官兵衛が信長の愛刀「圧し切(へしきり)長谷部」などが展示されていました。

  

久しぶりのウオーキングでゆっくり歩きましたが、やはり光雲神社の坂が応えたのか、疲れました。

今週末は、福井へ遠征します。二日間で60km・・・・・・・歩けるかな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


若松・高塔山のアジサイ2014(北九州市若松区)

2014-06-21 18:14:35 | JR九州ウオーキング

6/15はJR九州ウオーキング初夏編の最終日。この最終日は、「若松・高塔山のアジサイ」だけしかありません。

8:25若松駅をスタート。276番。本来ならJRウオーキングと合わせて「高塔山アジサイ祭り」が開催されるのですが、アジサイ祭りは、今月末に延期されていました。

   

港沿いに歩いていると、道路の側道にアジサイが咲いています。ここからの若戸大橋とアジサイも絵になります。

若戸渡船場には、「洲口番所跡」があります。これは、福岡藩が正徳年間(1711~1716)人や品物の出入りを監視管理するために置かれたものです。

それよりも私にとって、もっと印象深いのは、私の初めての街道歩き「唐津街道」の出発点です。ここから唐津まで歩きだしました。ここに来ると歩き始めたころが懐かしく感じます。

恵比寿神社を通り、高塔山へ向かいます。途中民家の庭先に赤い綺麗な花が咲いていました。

これは「アメリカデイゴ(梯梧)」といって、THE BOOMの「島唄」に出てくるデイゴの花が咲く・・・・・のデイゴです。初めて見ましたが一目見ただけで南国の花という印象が強いですね。

    

高塔山登山口に差し掛かりました。まっすぐ行くと「白山神社」に行きます。いつもパスしている神社ですが、今回登ってお参りしてきました。

階段は結構な段数がありますが、途中踊り場があり休み休みして登りました。

霊峰白山を御神体とする加賀国白山比神社の御分社で霊亀2年(716年)創始されました。

神社でお参りして再び登山道に入ります。登山道の中腹からは、若戸大橋を見るスポットがありますが、今日は煙っていてはっきり見えません。

  

高塔山頂上に着きました。アジサイ祭りが行われていた時は、いろんな出店があり食欲を駆り立てていたのですが、今年は何かさみしい感じがします。

高塔山のアジサイ

   

   

今年のアジサイは開花が早かったかも知れませんが、見事に咲いています。

しばらく見学して下りていきます。下りていくと花がたくさん咲いている家庭がありました。

家の方にお断りを入れ花を撮影させていただきました。

    

ゆっくり歩いて10:45若松駅にゴール。これで初夏編は40ポイント獲得しました。

秋編は9月ごろから始まります。それまで自主トレをしようかな?と思っています。

 

<追伸>

 今日、6/21は母親の命日です。母親が亡くなってもう46年も経ちます。いつの間にか、母親の歳も追い越してしまいました。

 

 

 

 

 

 


宝珠山(ほうしゅやま)へホタル見学(福岡県東峰村)

2014-06-14 05:11:16 | JR九州ウオーキング

6/7 行橋を歩いた後、次のウオーキング地「宝珠山(ほうしゅやま)」へ車で向かいました。

ナビを設定しその通りに行くと川崎町あたりから山道に向かいました。山の中では、霧が発生し、また道幅も狭くこれが夜だったら谷底に転落かな?などと思いながら走らせました。

どうにかこうにかして15:15筑前岩屋駅に着きました。ここから列車で宝珠山駅に向かいます。時刻表を見ると列車が行ってしまったばかりで次の列車まで約2時間ほどあります。

車の中で仮眠し、17:00の列車で宝珠山駅に行きました。

宝珠山のホタル見学は2年ぶりです。

     

宝珠山の人は、今、田植えの準備で忙しそうです。村には、棚田があり水もきれいだし、ここのお米はおいしいでしょうね。

     

さて、現在NHK朝ドラ「アンと花子」が放映されていますが、ここ宝珠山には、伊藤伝右衛門の炭鉱跡があります。ドラマの中では、嘉納伝助という名前になっています。

いぶき館で左側の写真が、伊藤伝右衛門です。

    

   

また、高倉健さんのお父さんもここで勤務されていました。

さて、JR日田英彦山線には、宝珠山から岩屋へ向かう途中に「眼鏡橋の橋梁」があります。宝珠山橋梁は、夜ライトアップされます。

   

歩いていると、子供の頃このような風景の所で遊んでいたような光景が浮かびます。日本の原風景というんでしょうか?何か落ち着きますね。

あのころは、子供でも田植えに駆り出されていましたね。

  

   

棚田親水公園に着きました。ここが「ホタル祭り」の会場になっています。会場では、JR九州ウオーキング友達が既に来られていてうまそうにビールを飲んでおられます。

飲みたい衝動に駆られましたが、車で来ていますのでここはじっと我慢します。

   

   

かき氷を食べ、先へ進みます。竹燈籠も点火され、蛍鑑賞のスポットへ急ぎます。

  

栗木野橋梁の眼鏡橋周辺が、蛍撮影のスポットです。もうすでに人がいっぱいです。

19:30、日も暮れだんだん暗くなってきました。周りの田んぼでは、蛙の合唱が聞こえてきます。

ホタルが飛んできました!

これからホタルの撮影を開始するのですが、蛍の撮影は難しいですね。お見せできる写真は、これだけでした。

それと、今年はホタルが少し少ないな・・・・・・とも感じました。

 

 

 

 

 

 

 


「新田原~行橋」花を求めて(福岡県行橋市)

2014-06-11 22:14:00 | JR九州ウオーキング

6/07(土)JR九州ウオーキングのパンフに「官兵衛、九州最初の居城〈馬ヶ岳城〉」とあり、興味津々で集合場所の「新田原(しんでんばる)駅」へ。

 

   

歩いていると民家のお花が綺麗に咲いています。ウオーキングをしているといろんな花に出会えて楽しいですね。そういう私もウオーキングする前は、花の名前なんかまったくの無知でした。

今では、少しぐらいは花の名前がわかります。これもウオーキング効果なんでしょうか?

このコースは、民家にいろんなお花が咲いていてそれを楽しみながら歩きました。

この木は何という木なんでしょうか、「なんじゃもんじゃ」みたいに白い花が咲いています。

    

豊津物産直売所「国府の郷」に来ました。ここではウオーキング参加者に地元産のお米が(1合)サービスで配られました。

  

この「国府の郷」がある所は、京都郡(みやこぐん)みやこ町になります。福岡にあって「京都郡(みやこぐん)」というのが不思議でしたが、景行天皇の時代、熊襲が背いたため征伐すべく、天皇自ら

西に下り、筑紫(この時代、九州は筑紫と呼ばれていた)に入り、豊前国長峡県に行宮(かりみや)を設けたところから、京(みやこ)と呼ばれるようになったそうです。

直売所では、「官兵衛弁当」がありましたので、即購入しました。おにぎりの部分が、官兵衛の兜になっていました。

   

国府の郷の横には、豊津国府跡があります。

国府とは、奈良時代の日本は、中央集権的な国家体制が整えられました。九州では、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の9国(注:現在九州と呼んでいるのは、この9国から起因する)と

壱岐、対馬、多褹(たね)の3島で構成され、これらの国、島を統括する機関として「大宰府」が設置されました。

豊前国は、現在の北九州市から大分・宇佐までの地域で、これらの地域における政治、行政の中心としての役割を果たしました。

中央政府から国司が派遣され、国司は、租・庸・調などの税の徴収をはじめとする国内政治にあたる他、軍団を統括する権限も与えられました。

  

    

国府跡を過ぎると、民家の庭先に「泰山木(たいざんぼく)」が咲いています。花が大きく盃に似ている所から、大盃木=泰山木になったとも言われています。

スモークツリー(けむりの木)は、綿菓子みたいですね。

   

   

 豊前国分寺は、奈良時代聖武天皇勅願(741)により、全国60余国に設置された国立寺院です。国家の平安を祈る道場であったが、同時に又、豊前国の学問や文化の中心としての重要な役割を果たしていました。

天正年間(1573~92)、大友氏の兵火で焼失しましたが、江戸時代の元禄年間にほぼ復興。三重塔は明治29年に建立されたものです。
塔の高さは23.5m、九州に3箇所しかない塔です。

   

国分寺には、赤い蓮の花、もみじに実がついていました。

   

みやこ町花菖蒲園にやってきました。この花菖蒲園には、3000株1万本の花菖蒲が咲いています。6/7は、夜会で人形浄瑠璃などの公演も予定されています。

   

   

アジサイも満開です。このアジサイを見ているとキリギリスでしょうか、カメラを近づけると触角が動きました。

   

豊津街道から行橋(ゆくはし)市に入ります。この行橋市、明治22年(1889)行事村、大橋村、宮市村の3村が合併して出来ました。名前の由来は、行事村の「行」、大橋村の「橋」をとってつけられたそうです。

しばらく歩くと「正(しょう)八幡宮」が」あります。この神社の祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神です。宇佐八幡宮と同じですね。

また、行橋~別府間100kmウオークの出発点でもあります。正八幡宮でも花菖蒲が満開でした。

 

  

行橋市歴史資料館では、「官兵衛展」が開かれていました。

行橋と官兵衛というのは、あまり結びつきがないのでは?と思っていましたら、

天正十四(1586)年七月、秀吉は九州攻めを始めます。官兵衛は秀吉に先立って九州に入り活躍します。

天正十五(1587)年に秀吉も自ら遠征軍を率いて九州へ上陸し、同年三月二十九日には馬ヶ岳城に入り二泊します。

天正十五年五月には島津氏が降伏し九州攻めが終わります。

同年七月、官兵衛は秀吉から豊前六郡(京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡の一部)を与えられました。

官兵衛は中津城に移るまで、馬ヶ岳城を居城とし領内の統治を行いました。

また、官兵衛の家臣「後藤又兵衛」は、黒田長政が筑前福岡の藩主となってから、益富城の城主に任命されますが、事情があって福岡藩を出て浪人となります。

 

浪人となった又兵衛は小倉藩に身を寄せ、現在の行橋市の今井に一時期滞在しています。当時又兵衛が食事に使った膳が今井の西福寺に残っています。

 

又兵衛は小倉藩を離れる際、地元(現在の行橋市沓尾)の有力な庄屋であった守田家に自分の槍を残していきました。官兵衛の息子「長政」とは、あまり仲が良くなかったみたいですね。

  

官兵衛展を出て、行橋の商店街を通りゴールの行橋駅には、13:20にゴールしました。

   

このあと次のウオーキングの為、JR筑前岩屋駅に移動しました。

 

 

 

 

 

   

 

 

 


関門海峡ウオーキング

2014-05-13 10:48:53 | JR九州ウオーキング

5/10は、JR九州ウオークで関門海峡を歩きました。

この日は、JR九州のお買いものきっぷでスタート地の門司港駅に行きました。

この切符は、博多~門司港まで往復の特急自由席(一部電車では指定もOK)に乗れ、しかも博多駅、小倉駅のアミュプラザで使えるお買いもの券(1000円)がついて3060円です。

通常、博多~門司港は、快速で一時間半かかり料金も片道1470円ですのでかなりのお得な切符です。

    

門司港駅を8:52に出発し、門司港レトロ地区へ。

    

 

門司港と言えば、バナナのたたき売りが有名ですが、ここには「バナナマン」の像が建っていました。

余りにもリアルですので、中に人が入っているのでは?と錯覚するほどでした。

   

和布刈神社を通り、関門橋の下にある「関門人道トンネル」を通り、下関へ。

     

下関は、2012.12月私が山陽道歩きを始めた時以来です。その山陽道もあと一日で西宮にゴールします。

「赤間神社」は、寿永4年(1185)平清盛の孫、源平合戦の末敗れた「安徳天皇」を祀っています。

4月初めに山陽道歩きで神戸・須磨の一の谷に行きました。その一の谷の戦いが寿永3年でしたので約一年間戦っていたのですね。

赤間神社には、「耳なし芳一の像」もあります。耳なし芳一というと、小泉八雲の本を思い出します。

   

 『耳なし芳一物語』

赤間ヶ関阿弥陀寺(今の赤間神宮)に芳一といふ名の盲人が住んでゐました。琵琶法師としてあまりにも有名であったので、妙技入神の言葉のやうに、平家の亡霊も是非これを聞きたいと、

或夜ひそかに現われて来ました。阿弥陀寺に住んで居る琵琶法師の芳一は、呼ばれるまゝに、誘われるがまゝに引かれてゆけば、七まがり八まがりの廊下を辿り大広間に通されました。

居ならぶ武士等は威儀を正して待って居り、正面の御廉の中からは「御苦労であった、壇之浦の合戦を弾奏せよ」との事で、弾奏すれば厳然としてゐた武士たちは

涙を流し婦人等は嗚咽の声を出して泣いてゐる。芳一は自分の琵琶に半ば陶酔しつゝ其の曲を終った。「実に今日は満足した、又明日も明後日も、七日七夜は必ず頼むぞ。」と

頼まれて別れをつげて、寺に帰りました。 かくて毎夜外出することが続きましたので寺の僧侶も、ふと気のつく所と成り「是れは不思議だ、

盲目の芳一が毎夜琵琶を抱えては出てゆく果してどこへゆくのであろう……と張り込みして時の来るのを待って襖の蔭からぢっと息を呑んで見て居りますと、だれも居らないのに

一、二言ものを云ったかと思うと、ふと出てゆきました。僧侶は直ちにあとをつけたが、ヨウとして姿が見えません。 止むなく寺に引返して参りますと、

山の森の中で琵琶の音がけたゝましく聞えるではありませんか!アレあんな所に芳一が、!と大急ぎに草を分けて馳せ寄りますと、又驚きました。

目の前は真暗やみの中にお墓の前に単座して、一生懸命に弾いている芳一は、此の世の人とも思えぬ形相で、あたり一面は鬼火がゆれ、其の凄惨なること二た目と見られません。

僧侶乍らも身の毛のよだつおもいが致しました。 之を呼び起し芳一をかゝえて阿弥陀寺の和尚の前に事の一部始終をかよう~と申し伝えますと和尚は大層驚いて、

「これは平家の亡霊が恨みを以って一人でも彼の世につれ去ろうとするのだ、今宵は声を出すな、動くな、返事をするな」と固く申し渡し、身体中に般若心経を書きつゞりました、

「さ、是れでお前は安全だ」と申し置いて法事に出られて行ってしまいました。その夜のこと、 いつものように単座していると、又昨夜のようにやって来た気配がする、

生ぬるい風と共に足音がピタリと自分の前で止った、「ハテ」とおもう裡に「芳一」と呼びかけられハッと声をあやうく出そうとして和尚の云う事を思い出し口をつむんでいるうちに、

又も「芳一」と半ば大声に呼びかけられました。然し今度は、返事も声も聞えませんでした。「今宵は声も、返事も無い、姿すら見えぬ、ハテ如何した事であろう」とフト見ますと

耳だけが闇夜にはっきりと見えました、「せめてもの是れだけなりと持って帰ろう」とつぶやき乍ら、鉄の氷のような、つめたい手先で耳を持ったかと思うと、フイともぎ取っていずれともなく立ち去りました。

和尚は今日こそは芳一も無事であったろうと寺に帰って、ふと襖を開けて、驚いた、アッ!と云うたまゝしばらく范然としていましたが、耳の無いのを見て、「鳴呼全身に経文を書いたが、

耳に経文が無かったからだ」とつぶやき乍ら、命びろいをした喜びに、全山の衆僧総員して、よく亡霊を弔ったという事でございます。 爾来是れを「耳なし芳一」と呼ぶように成りました。(赤間神社HPより)

赤間神社の向え側が「唐戸市場」です。

市場の中に入りますと、美味しそうなお寿司や海鮮丼が並んでいます。ついつい手が出そうになりますが、今日は小倉で昼食をとることにしていますので、ここはじっと我慢。

   

帰りは、関門連絡船を利用して門司港に戻ります。この船は、もう6年ぐらい前になりますが、街道歩きの師匠が下関に来るということでこの船に乗って会いに行った思い出があります。

また、この船を使った「パロディ」も作りました。(笑)

  

11時00門司港駅に到着。今日は7kmのウオーキングでしたが、何か物足らない気がして小倉に行き小倉城周辺を散策しました。