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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№28「藤枝宿~岡部宿~丸子宿~府中宿」(藤枝市~静岡市)

2017-11-24 19:02:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

№27からの続きです。県道381号水守信号より右折、左側には、大きなホームセンターがあります。その先を左折すると、前方須賀神社の所に大きな楠があります。

そしてその少し先には、東海道膝栗毛で書かれた「鬼島の立場」です。

街道の松、枝を鳴らさず、往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕篭・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の両人も、

そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。ここは宿場間のお休み処。茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、

この酒半分水だペッペツ、ブツブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる。「処もとは鞍の鐙ケ淵、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」

  

葉梨川の八幡橋を渡った所に「鬼島の一里塚」があります。更に先の仮宿の信号の手前には、「従是西田中領」の榜示杭 、信号を渡った所には、「従是東岩村領」の榜示杭。

    

説明文を見ると、この杭は、享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを榜示した杭を再現したものである。

岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とし、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村五千石分の飛領地があり、横内村に陣屋を置いて治政を行っていた。

  

  

横内村には、各家の軒先に昔の職業の木札が掲げられており、昔は職人の村だったのではないでしょうか?

   

内谷新田ICの信号から岡部宿です。

岡部宿は東海道21番目の小さな宿場の為、大名行列の時は、隣の藤枝宿から寝具や道具を借りることもあったようです。ここには、全国を行脚した木喰上人の木喰仏が6体残っています。

「東海道中膝栗毛」では豆腐を指す女房言葉が「おかべ」といったことからこの地の「岡部」をかけて登場しています。

 

  

岡部宿は、電線が地中化しており、とてもすっきりした街並みです。藤枝市役所岡部支所の所には、「五智(ごち)如来」があります。

五智とは、仏が備える5つの智のこと。そして五智如来は、それぞれを成就した阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生如来のことです。宝永2年(1705)陸奥棚倉城主から

駿河城主に国替えされた内藤豊前守弌信の家老・脇田次郎左衛門正明が寄進したもので材料には、地元産「三輪石」が使われています。

  

時間も4時近くになり、これから次の宿場の宇津の谷峠に向かうのは、困難な為、今日はここで打ち切りです。

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11/14(火)今日は曇り空。いつあめが降ってもおかしくない天気です。7:26藤枝駅前バス停からバスで前日ゴール地岡部宿まで行きます。

岡部支所の信号から右折、すぐ左折します。ここは、枡形跡と呼ばれ、別名曲尺手ともいいます。本陣めがけて敵が容易く侵入できないように宿場の出入り口に設けたものです。

ここは、正面に折れ曲がっています。また、ここには、木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日明け六つに開け、暮六つに閉じていました。

     

宿場町の途中に「光泰寺」があります。曹洞宗の寺院で、2体の木喰仏が安置されています。1体は高さ215cmの准胝観音菩薩」で県内最大の木喰仏です。もう1体は、聖徳太子立像」です。

小野小町姿見橋・・・・美人の誉れが高かった小野小町が、晩年東へ下る際にこの橋の上に立ち止まり、岡部の山々を眺め、橋の下の水面に映った自分のやつれ、年老いた姿に悲しんだそうです。

今は、小さな橋で、注意深く見ないとわかりません。

     

岡部宿は、家数487軒、(本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒)人口2322人(1843年資料による)

本陣は、内藤本陣、仁藤本陣があり、内藤本陣跡は、現在公園になっています。仁藤本陣は、大旅籠柏屋の前にあったそうですが、現在はわかりません。

  

大旅籠柏屋(かしばや)は、内野本陣の別家である山内家が営んでいました。敷地面積2380坪(約7860㎡)、主屋の延べ面積が約100坪(330㎡)。

その規模から大旅籠柏屋といわれ、岡部宿を代表する旅籠でした。山内家5代良吉(天保以降)旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄りなどの

宿役人を務める岡部宿でも屈指の名家でした。歴史資料館では、東海道筋における岡部宿の役割や旅籠の様子、人々の暮らしぶりが感じ取れます。

  

  

大旅籠柏屋を出て、宇津ノ谷峠を目指します。途中「笠掛の松」というのがあります。西行に破門され、病で倒れた西住が笠に辞世の句を書き松に掛けて亡くなりました。

後日、西行はこの笠を見て弔歌を残しています。「笠はあり その身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな」

十石坂観音堂・・・・・江戸時代までは、西行山最林寺と呼ばれ、浄土宗の由緒あるお寺でした。文化5年(1808)火災にあい、観音堂だけが残りました。観音堂は入母屋造、瓦葺の

本格的寺院建築で、非常に細かい細工が施されています。

  

道の駅「宇津野ノ谷峠」上り線です。これから宇津ノ谷峠にチャレンジします。先ほどより細かい雨が降ってきました。大降りにならなければいいのですが・・・・

 

宇津ノ谷峠は、岡部宿と丸子(まりこ)宿の間にある峠です。伊勢物語にも登場する中世の道である「蔦の細道」、近世の道では、明治の道、大正、昭和、平成のそれぞれのルートや

トンネルが残り、そのすべてが利用されています。ここでは、旧東海道でなく「明治のトンネル」を歩いてみます。

坂下地蔵堂・・・本尊は聖徳太子の作と伝えられる延命地蔵で「鼻取地蔵」の伝説で名高い。境内の鐘楼には、元禄15年卍山銘の鐘があります

    

宇津ノ谷峠には、いろんな石碑が建てられています。

蘿径記碑(らけいきひ)・・・・元は旧東海道を50m程上った左側に建てられていたが、明治天皇が明治トンネルを歩いて通られる時にトンネルの入口近くに移された。その後、昭和第二トンネルが

完成した折に現在地に移動しました。江戸時代の駿府代官羽倉簡堂が蔦の細道が消滅していくのを惜しんで建てたもので名文といわれています。

髭題目の碑・・・・天保6年(1835)11月に人馬の安全と天下泰平・五穀豊穣成就の為に日蓮宗徒の人達が建てたものです。

   

息を切らしながら登ってくると、明治のトンネルが見えてきました。

明治のトンネル」は、明治・大正時代の東海道。元のトンネルは、トンネル中央で「く」の字に曲がっていた、わが国で初めて通行料を取ったので「銭取りトンネル」とも言われました。

現在のレンガのトンネルは、元のトンネルが火災を起こし、使えなくなったので人力車・馬車の通れる道として作り替えたものです。平成9年(1997)国の登録文化財になっています。

  

 トンネルを通ると静岡市に入ります。下を見ると丸子の町並みが見えてきます。この光景、テレビなどで東海道を放映するときよく出てきます。

広重の東海道岡部宿の浮世絵には、この宇津ノ谷が描かれています。

   

宇津ノ谷地区は、静岡市の西端、旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した「歴史の街道」の面影を残す、静かな山あいにある集落(間の宿)です。

平成20年10月静岡市の景観計画重点地区に指定され、街道の面影を残す町並みとして保存されています。

 

道路の角にある「角屋」、橋の近くにある「橋場」など昔の屋号が残っています。

宇津ノ谷地区には、「御羽織屋」があります。天正18年(1590)小田原城を攻める時に、豊臣秀吉がこの店に立ち寄り、馬の草鞋を取り換えようとした際、3脚分しか渡さない家の主人石川忠左衛門に

その理由を尋ねると「4」を避け、勝利の祈願を伝えられました。秀吉は縁起のいい話に大変喜び、見事勝利した時に、その褒美として着用の陣羽織を与えたといわれています。

残念ながら現在拝観中止になっています。

     

道の駅宇津ノ谷下りを通り国道1号線へ。このころから雨は本降りに変わりました。1号線赤目ヶ谷西の歩道橋を渡ります。渡った所には、「一里塚跡」。

   

丸子紅茶」の看板があります。

明治初期から中期の日本では、茶が生糸とともに日本の輸出の主力でした。特に紅茶については世界の需要が多いことに着目し、茶業振興を図る政府から、

千葉県出身の元幕臣多田元吉翁は努力を認められて明治政府の役人に抜擢され、明治8年から10年にかけて中国、インドのダージリン、アッサムなど命がけがけで巡り、

紅茶製造の技術を学び、日本に持ち帰り全国に広めました。茶の種、紅茶製造方法、病虫害に対する研究、栽培方法、品種改良、近代茶業につながった機械の図面持込み、有機農法の持込み、

製造技術等多岐にわたる紅茶製造の技術を日本にもたらし、1881年(明治14年)に初めてインド式製法で本格的紅茶の生産が始まりました。

紅茶の技術は緑茶製造にも応用され、緑茶の大量生産の道を開きました。元吉翁は茶の品種改良や有機栽培、製茶器具の発明、害虫発見、技術者の育成など日本近代茶業発展の基礎を築きました。

しかし、紅茶生産は昭和初期をピークとして、第二次大戦後、日本経済が高度成長するにともない、国産紅茶は価格競争力を失って国産紅茶の産業化推進は中止されました。
1971(昭和46)年6月には紅茶の輸入自由化が行われます。これ以降、国産紅茶は一部の地場消費用に1~2トン程度が生産される程度となりました。

昭和28~30年 村松二六は、この丸子の地に紅茶の灯を消してはならないと、試験場にて紅茶の研修で学び得た知識をもとに本物の紅茶作りに挑戦し、紅茶品種の紅富貴を日本で最初に

民間で栽培しました。元吉翁の旧居、茶園は丸子の墓地近くにありましたが、現在は整地されて見ることはできません。しかし元吉翁栽培の茶樹は現在も残っています(丸子紅茶HPより)

   

丸子宿は、鞠子とも呼ばれ、東海道の中では小さな宿場町でした。1843年の資料によれば、家数211軒(本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒)、人口795人でした。

広重が書いた浮世絵丸子宿には、「丁子屋」が描かれています。丁子屋は、慶長元年(1596)創業で現在も営業を続けています。

私も東海道歩きを調べている時、この丁子屋を見つけ、ここのとろろ汁が食べたいと思いました。それが今叶えられます。

駐車場には、大型バスが数台停まっていましたので、満席かな?と思いましたが、藁葺屋根の方から店内に入ると意外にも広いです。大広間は、60人~70人ぐらい入れるでしょうか?

また、ほかにも個室があり、大規模な店です。

  

勿論、注文は、「とろろ汁」です。御櫃に入った麦飯にとろろ汁をかけていただきます。いやぁ、ホントにおいしいです。御櫃の麦飯は御代りもできますが、もう腹いっぱいです。

400数十年の伝統の味をいただきました。店内は歴史資料館にもなっており、秀吉の陣羽織の写真や、十返舎一九の像などが展示されていました。

  

丁子屋を出て再び街道を歩きます。お七里役所跡は、江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、

独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置した。

    

東海道には、13か所の渡し場が有り、安倍川もかつては渡し船があったが、正徳年間(1711~1716)に幕府の命により、徒歩の掟が下った。川越制度が設けられ、堤添町、弥勒町、毛越村に

それぞれ川会所が置かれました。この川越制度は、明治4年(1871)民部省から廃止が出されるまで150年以上行われました。

橋の先には、二つの顕彰碑が建っています。一つは、「安倍川義夫の碑

元文3年(1738年)初秋の頃、紀州の漁師が仲間と貯めた大金を持って安倍川を、自力で川を渡る際にうっかり、財布を落としてしまい、たまたま近くにいた川越人夫の一人が財布を旅人に届けました

旅人は喜び、礼金を払おうとしまいたが、どうしても受け取ってもらえず旅人は、駿府町奉行所に届けました。町奉行がこの人夫を呼び出し礼金を渡そうとしましたが、それでも受け取らず、

町奉行は礼金を旅人に返し、奉行所から川越人足にほうびを渡しました。昭和4年(1929年)和歌山県と静岡県の児童や有志の方々の募金によって、安倍川橋の近くに碑が建てられました。

安倍川架橋の碑」明治4年民部省より支持が出され、川越制度はなくなり、仮橋と渡船の併用となったが、旅人は不自由を強いられた為、これを見かねた弥勒の宮崎総五という一民間人が

県の委託を受け、多額の私財を投じて木橋を架けたのが初代の安倍川橋で当時は「安水橋」と命名された。明治7年(1874)竣工、長さ280間(504m)、幅2間(3.6m)の木橋は、

静岡県下四大河川に最初に架けられた。当時の通行料は、一人4厘、車馬や篭には差がつけられ最高額は馬車1台(定員4人)4銭5厘だった。宮崎は、架橋費7000円が償却されたあとは、

無料にする予定でしたが、毎年洪水により被害が続出し、その修理に負われたため、明治29年(1896)県に献納されました。現在の橋は、トラス構造で三代目です。(国交省静岡河川事務所HPより)

※広重の浮世絵府中宿は、安倍川の川越しを描いています。

   

駿府城跡に着きました。駿府城は、徳川家康が大御所として隠居した城です。天守は、寛永12年の出火により焼失したままです。

今日の日程はここまで。明日は江尻まで歩こうと思っています。

  


東海道道草ウォーク№27「島田宿~藤枝宿」(静岡県島田市~藤枝市)

2017-11-21 06:38:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

11/13(月) 加古川ツーデーマーチの後、静岡県藤枝に移動し、今日から3日間東海道を歩きます

前回ゴール地JR島田駅を8:00スタート。

島田宿は、家数1461軒、本陣3軒、旅籠48軒、人口6727人(1843年資料より)

  

静岡銀行島田支店の所には、「塚本如舟(じょしゅう)邸跡」があります。

塚本家は代々「孫兵衛」を名乗り、幕府より島田宿の川庄屋(かわしょうや)に任じられました。川庄屋とは川越を管理する役人のことです。

三代目孫兵衛の時、塚本家の財力がとても大きくなり塚本家は大いに栄えました。その三代目孫兵衛は俳諧をたしなむ人物で塚本如舟と名乗っていました。

元禄4年(1691)松尾芭蕉が島田宿を訪れた時に塚本如舟が接待しました。この時芭蕉48歳如舟51歳。

その後、芭蕉最後の旅となった元禄7年(1694)の旅の途上でも、芭蕉はここ如舟宅を訪れ、いくつかの句を詠んでいます。この時芭蕉は大井川の川留めのため四泊しています。

碑には、如舟作の俳句が刻まれています。 やわらかに たけよ今年の 手作麦

 

刀匠島田顕彰碑    島田の刀鍛冶は室町から江戸末期に至る400年間の歴史を持ち、今川、武田、徳川などの武将に高く評価されていました。

 

ここで街道を離れ、「蓬莱橋」へ。

蓬莱橋は、明治12年(1879年)に開拓した牧之原の茶畑へ行く橋として作られた全長897,4m(厄無の長生橋)、通行幅2,7mの木製橋です。

平成9年(1997年)に世界一長い木造歩道橋としてギネスブックに登録されました。

名前は、明治3年(1870)開拓している幕臣の激励のため牧之原を訪れた静岡藩主16代徳川家達の言葉からつけられたとされています。 

2016年NHK朝ドラ「ととねえちゃん」で主役常子が通う通学路としても放映されました。

  

この蓬莱橋から見る富士山は、ビューポイントになっていますが、この日は、空がかすんでいて、富士山が輪郭しか見えませんでした。

 

   

蓬莱橋から再び東海道に戻りました

 升形跡」は、宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張施設のことをいいました。

宿場の見付は、上に咲くや竹矢来を設けた石段や土手で、街道に直角や鍵の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。

島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80㎡)ほどです。ここには宿場の番人を置いたという記録はありませんので、

宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。

島田市のマンホールは、日本三大奇祭の一つ「帯祭」がデザインされています。

  

監物川と監物橋

今は、小さな川ですが、寛永12年(1635)島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下に入りました。注)志太郡一帯を支配することになった監物は、

水不足に悩む栃山川以東の村々の為に、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して

大井川の水を引き入れました。感謝した農民達は、その名前を後世に残そうとこの水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだものと思われます。

  ※注)志太郡・・・・・・藤枝市の大部分、焼津、島田の一部、川根本町の一部

  

栃山土橋 大津谷川と伊太谷川がこの橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。

享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の栃山橋は、土橋で長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)、橋杭は三本立て七組で支えていました。

土橋とは、板橋の上に土を貼ったもので、この橋の東端が、当時の遊悦島村と島田宿の境になっていました。

 

街道は、22番目の宿場「藤枝」に入りました。

藤枝は、古代から人が生活を営み平安時代には、役所(志太郡衛)が置かれていました。宿場町であるとともに、田中城の城下町として栄え、海辺の町、相良までの「塩の道」でもある

田沼街道の終点でもあり、商業の町としても栄えていました。

  

田中藩は、他藩と接する領地が入り込んでいた為、田中藩を示す榜示石を各所に立てていました。その石に刻まれた文字は、田中城主が家臣に命じて書かせたもので、

その書の見事さは、旅する文人を驚かせたほどだといわれています。

   

千貫堤は、大井川の氾濫から村を守るため田中藩が江戸初期より築いた堤防です。近くには千貫堤・瀬戸染飯伝承館がありますが、今日は月曜日定休日でした。

  

瀬戸染飯・・・・・・クチナシで染めたおこわである染飯は、戦国時代から売られてきたもので、足腰の疲れを取る薬効もあり、東海道の名物でした。

     

六地蔵・・・・・・・世界観である六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のそれぞれの世界に救いを与える地蔵菩薩を祀っています。多くの旅人が祈願したと伝えられています。

東海道追分・・・・ここには、瀬戸山を越える中世の古東海道を山裾に沿う旧東海道があります。瀬戸新屋や水上は、池や湿地が多い所だったので東海道から六地蔵の所を通るように

なったのは、開拓が進んでからです。当時東海道は、この碑の所から東へ竜太寺山を通り、前島境で初倉からの道と合流して南新屋(五又路)へ通っていました。

東海道が瀬戸新屋を通るようになって東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼びました。

     

時刻も12時を廻り、青木の信号の所の食堂で軽い昼食を食べます。

昼食後再びスタート。歩いていると「岡野繁蔵生誕地」の石碑がありました。岡野繁蔵????

石碑の説明文を見ると、裸一貫から南洋のデパート王となった岡野繁蔵は、明治27年青島村(現藤枝市青島)で生まれ、青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアの

スマトラに渡り、大信洋行を興し、雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが、太平洋戦争で止む無く日本に引き揚げました。

戦後衆議院議員に当選し国や郷土の為に貢献されたが昭和50年81歳の生涯を閉じました。

志太郡衛跡は、奈良・平安時代の駿河の国志太郡の役所跡です。

志太の一里塚は勝草公園の所にありました。

   

勝草橋を渡ります。江戸幕府は大きな川に橋を架けることを禁じていたので、瀬戸川も川越しが行われた。「越すに越されぬ大井川」に比べ川幅も狭く、水深も浅いので徒歩で渡ることが多く、 

瀬戸川の徒渡り(かちわたり)といわれ知られていました。

 明治8年(1875)11月初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となりました。勝草橋の名前の由来は、二つの説が伝えられ、一つは昔、田中城の兵が付近の河原で合戦し勝利したことから、

勝軍橋と言っていたのが縮まって勝草橋になったという説ともう一つは志太という地名が植物のシダの読みと同じで、シダの異名、勝草と称することから志太橋という意味で

志太という地名が勝草橋になったということです。

 

勝草橋を渡ると「藤枝宿」です。現在藤枝の中心部は駅付近ですが、当時はこのあたりが藤枝の中心部だったのでしょう。

「藤枝宿」は、家数1061軒(本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠37軒)、人口4425人でした。(1843年資料)

正定寺には、田中城主であった土岐丹後守頼稔が大阪城代への出世を記念して寄進された「本願の松」があります。

  

広重の東海道の浮世絵は、問屋場の風景を描いており、問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所で、町役人がいて荷物の賃金を決めたり、馬の乗換えや人足の補充をしたり、

駅伝の重要な機関でした。問屋場の役人たち、汗を拭いたり煙草をふかしてひと休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、慌ただしい問屋場のひと時の情景が情緒豊かに描かれています。

交番の所が問屋場のあった所です。そこには、大きな浮世絵の看板が設置されていました。

   

地図では、交番の横、おたけせんべいの向かい側に本陣があると表示されていますが、探しても見当たらず、また近所の方に聞いてもわからないとのこと。

おたけせんべいは、明治の初め、東海道22番宿・藤枝で創業者天野たけが、宿場の梅園にて美しく咲き乱れる梅に心を奪われ、その梅を型どった煎餅を焼いて、

宿場町で休む旅人たちに親しまれていました。残念ながら月曜日は定休日でした。

旧東海道は藤枝の宿、江戸時代からの伝統を受け継いでいる“藤枝だるま”は、創業170余年…。かぼちゃ型、面長型などは明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が

愛玩したということから『八雲だるま』や『乙吉だるま』とよばれて親しまれている。

“藤枝だるま”の大きな特徴は、びんの左右に描かれた「8の字」である。

だるま以外に、オカメ、ヒョットコ、その他の張子面も作っている。ひとつひとつがすべて手作りであり、今も伝統が守られている。(静岡こだわりの逸品ガイドより)

若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)は、平安時代に源八幡太郎義家が奥州での争乱を平定する為に下向し、その途中義家は若一王子神社で武道長久を祈願しました。

その時、神社の古い松の木の枝に藤の花が今を盛りと咲きにおっていました。これを見た義家は、松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代をへん  という和歌を詠み、

また自身も松を手植えをしました。その時、この松を「千歳の松」というようになり、この辺一帯を「藤枝」と呼ぶようになったといわれています。

    

蓮華寺池公園・・・・慶長18年(1613)頃、灌漑用として村民が総出で掘った池で、現在は、周辺を含め公園となっており、公園内の「若王子古墳群」は28基の古墳と東日本では珍しい

車輪石等が出土しています。

  

白子由来の碑・・・・家康公は、天正10年(1582)本能寺の変で三河に逃れる途中、伊勢国白子の孫三に助けられました。その後現在の本町あたりを白子町として、孫三に居住を許し、

諸役免除の御朱印を与えました。その御朱印は子孫の手で今でも保管されています。

  

藤枝は、サッカーの町、東海道沿いには、高校サッカーの名門「藤枝東高校」があります。また、藤枝はスイーツの町、サッカー饅頭、サッカー最中などのお菓子もありました。

    

街道からは外れますが、本町3丁目から右折すると、「旧西益津村役場跡」があります。その先の大手の信号の所に「田中城跡」の碑が建っています。

田中城は徳川家康の死因ともいわれる鯛の天ぷらを食した城です。かつては今川氏と武田氏とが奪い合った城で、山県昌景が城主を務めたこともあります。

この城の特徴はなんといっても縄張で、本丸を中心に、直径約600mの同心円を描く全国的にも珍しい円形輪郭式の縄張となっています。当時の遺構は水堀と石垣がわずかに残るだけですが、

江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった別荘が史跡公園(田中城下屋敷)として整備され、本丸櫓や茶室が復元されています。

城跡は、現在西益津小学校が建てられています。時間の関係上、城跡までは行けませんでした。

    

                                                                                                                            (つづく)

 


東海道道草ウオーク№26(その2)「日坂宿~金谷宿~島田宿」(掛川市~島田市)

2017-07-19 19:10:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続き

菊川坂は、平成12年の発掘調査により、西側上り口から161mは、江戸時代後期の石畳と確認されました。そして平成13年に「石畳菊坂助郷伝説」として、市民の手により、611mが復元されています。

  

舗装道路に慣れている私たちには、この石畳はちょっと歩きにくいです。

諏訪原城バス停の所からは、栗ヶ岳の「茶」の字が見えます。

諏訪原城跡」は、天正元年(1573)に武田勝頼が臣下、馬場美濃守氏勝に造らせた山城です。自然を巧みに利用した三日月堀や本丸、二の丸、天守台地、馬場跡、土塁など「甲州流築城法の典型」と

いわれる遺構が九部通り現存し、武田氏の守護神である諏訪明神が祀られています。この城で念願の高天神城を奪取し遠州支配の足掛かりを掴みますが、長篠の戦いで織田・徳川軍に完敗しています。

   

金谷坂の石畳です。金谷坂の石畳は、30mを残す以外舗装されていましたが、平成3年「平成の道普請」が実施され、約600人の市民が石を運び430mが復元されました。

ここからは、島田に向かっての下りですが、この石畳慣れないせいか、歩きにくいです。雨が降ったら滑りやすいでしょうね。

 

  

滑りやすいな~と思っていたら、石畳の途中に「すべらず地蔵」がありました。合格祈願の絵馬がたくさん奉納されていました。

調べてみると、長い間旅人の足元を守ってきた“滑らない山石を敷いた石畳”に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵尊」と呼んでいます。

“安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように”と、試験合格・健康長寿・家内安全などを願いお参りする方がたくさん訪れます。

毎年1月中旬には、一人でも多くの受験生が志望校に合格できるよう、併せて、家内安全・商売繁盛他諸願成就できるよう、お地蔵様が二人で手に手をとって見守ってくれているお姿の前で、祈願祭を行います。

  

庚申堂、石畳茶屋を過ぎ、JR金谷駅に来ました。

  

金谷宿は、東海道24番目の宿場。1843年の資料によると、家数1004軒、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒、人口4271人でした。

お七里役所跡」 徳川家御三家の一つ紀州家が重要書類の送信の為に七里(28km)毎に置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のことです。

この飛脚は、幕府の継飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対して、「大名飛脚」「七里飛脚」とも呼ばれました。紀州家は、江戸~和歌山間(146里、約584km)に役所を23か所設け、江戸勤務の中間

(仲間・下級武士)の中から体格もよく才能の優れた者を2人ずつ選び配置しました。実際の御状箱の継送は、宿問屋から人足を出させるか、賃金を払って人足を雇いました。

ちなみに上り便は掛川宿、下り便は丸子宿で引き継ぎました。常便は月三回、道中は8日かかりましたが、臨時の急便は4日足らずで到着しました。

定飛脚問屋(三度屋)跡」 定飛脚とは、三都定飛脚ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で月3度(2日・12日・22日)出した所から「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも

言いました。また、この飛脚が被った笠を「三度笠」と呼びました。

    

金谷宿の本陣は、柏屋本陣(第一本陣)、佐塚本陣(第二本陣)、山田屋本陣(第三本陣)でした。

   

     

街道を進んでいくと、大井川鉄道の踏切に来ました。大井川鉄道というと、SLですね。踏切から右折して「新金谷駅」に行きます。

   

今はもう走ってないけどC12-164も現存しています。その横には、機関車トーマスが・・・・・

次回ここを歩くときは、是非SLかトーマスに乗ってみたいです。

   

再び街道に戻ります。大井川の手前に「仲田源蔵翁碑」があります。

お茶の産地として有名な金谷は、明治初期、川越制度が廃止され、職を失った人足達と移住してきた士族が大茶園を開墾したことから始まります。

仲田源蔵は、29歳と若いながらも私財を投じて牧之原開墾を政府に直訴し、開墾の礎を築きました。

〇番宿とは、川越人足小屋です。

  

  

大井川に来ました。箱根馬子唄には、「箱根八里は馬でも越すが 越すにこされぬ 大井川」とあります。

  

広重の金谷宿の浮世絵には、この大井川が描かれています。

幕府が架橋や渡船を禁じたのは、大井川を外堀として江戸を守る防衛上の理由が主だとされていましたが、近年の研究では、昔の大井川は水量が多く流れも急だったため、架橋には向かなかった、

川越による川会所や宿場町の莫大な利益を守るためであった、とも言われています.

今では、上流にダムなどができ、水量も少なくなってきています。

   

大井川1029mを約10分で渡りました。ここから島田宿になります。渡ると桜並木が広がっています。春の桜シーズンにはホント、きれいでしょうね。

    

桜並木が終わった所に「川会所」があります。大井川は、冬場でも仮の橋が架けることが許されず、また川止めも多く、最大28日間止められた記録も残っています。

大井川の川越」 川越を管理する川会所の川庄屋と呼ばれる役人が川の深さを調べて料金を決め、旅人の渡しの順序や人足の割り当てを決めていました。

旅人は、川会所で川札を買い、その川札を人足に渡して川を渡り、人足はその川札を札場に持って換金していました。このような遺跡を「大井川川越遺跡」と呼んでいます。国の指定史跡です。

ここには、芭蕉の名句「馬方はしらじ時雨の大井川」の句碑が建っています。

元禄4年(1691)10月下旬、最後の江戸東下の旅の途中、島田の俳人「島田如月」宅に泊まった折の作品です。

芭蕉は、既に川を渡って島田宿に居る。対岸は金谷、この馬方は対岸の馬方のこと。芭蕉を金谷で降ろして馬方は戻っていったから、川の対岸である島田の時雨はわかるまい。

   

  

口取宿」 川越し人足の定年は45歳でしたが、尚仕事を希望する者には口取宿に詰めさせました。彼等は、川越しする人の荷物を各組に公平に割り当てたり、現役へのアドバイスや

番宿間の連絡、忙しいときの手助けをしたりしていました。

札場」 川越し人足が川札を換金する所で昔ながらの位置に保存されています。一日の川越が終了するとそれぞれの番宿において川札を回収して札場で現金に換えた後、人足達に分配しました。

仲間の宿」 主に年取った川越し人足達の集まった宿です。ここでは、人足達の仕事上の意見交換や各組同士の親睦の場として使われました。

荷縄屋」 荷崩れした荷物を直したり、荷連台や馬に荷を括り付ける時に使用する縄を主として用立てた所です。その他、草鞋や笠も売っていました。

  

上段の間が現存する塚本家」 九州肥前大村藩によって建てられた家です。大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が大井川を渡るときに便宜を図りました。

  

大井神社」 大井川の恩恵に感謝し、水害の無いことを祈って建立された神社。御祭神は水と土と日の神、弥都波能売神(みずはのめのかみ)、波迩夜須比売神(はにやすひめのかみ)、

天照大神(あまてらすおおみかみ)の三女神。生命生産の守護神として、安産の神様として地元の厚い信仰を集めています。日本三奇祭のひとつ、3年に1度の島田大祭帯祭は有名。

升形跡(宿西入口)」 島田藩の西入口には、川沿いに土手で囲い東側は、正覚寺入口の小路で囲った例の少ない升形の見附が設けられました。

ここに番人を置いたという記録はありませんので宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所です。

  

13:15 今回のゴールJR島田駅に到着しました。

広重島田宿の浮世絵です。

今日のGPSです。

  

 


東海道道草ウオーク№27(その1)(日坂宿~金谷宿~島田宿)掛川市~島田市

2017-07-18 07:00:29 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

昨日の九州北部の集中豪雨は、朝倉、うきは、東峰村、日田あたりに被害をもたらした。我が家の方は大丈夫かと近くに住む姉に電話すると、雨はひどかったが、被害はなかったとの返事。

東峰村、うきは、日田あたりは、JR九州ウオーキングで何回も行っているので被害が心配です。

 

今回の東海道ウオーキング第4日。今日の予定は、日坂宿~金谷宿~島田宿までの約11kmです。15時過ぎの掛川からの新幹線を予約していますので、その時間まで行けるよう頑張りたいと思ってます。

掛川駅から掛川バスサービス東山線7:50に乗って昨日ゴール地日坂宿本陣跡まで行きます。バスは、約30分ぐらいで本陣跡に到着。

広重の東海道日坂宿の浮世絵は、急坂の小夜の中山峠を描いています。小夜の中山峠は、箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ東海道三大難所の一つです。

       

バイパスの下に「弘法の井戸」があります。説明文もなく、仕方ないのでバイパスを渡り、小夜の中山峠に向かいます。

  

広重の浮世絵にもあるようにこの小夜の中山峠は、最初から急坂です。20分ぐらい歩いてやっと平坦な道になってきました。

  

歌枕として古今集などで歌われている中山峠は、標高252m、昔はたびたび合戦などもありました。

遠州七不思議の一つ「夜泣き石」の伝説が残っています。

昔、妊婦が峠で山賊に襲われ、お腹の子は助かりましたが、母親の霊は、丸石に乗り移り、夜ごと泣き声が聞こえたそうです。久延寺の和尚に飴で育てられた子は、成長し、母親の仇を討ちました。

この話に同情した弘法大師が「南無阿弥陀仏」と石に刻んだと伝えられています。

佐夜の中山の歌碑

  「甲斐が嶺 さやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山」(読人しらず)」

意味は、   甲斐の白根をはっきりみたいよ、人の気も知らぬげに寝そべっている 佐夜の中山よ どいてはくれまいか 

  「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」 (松尾芭蕉)

  早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く 残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠くの山の端にかかり 日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

 「命なり わずかの笠の 下涼み」 (松尾芭蕉)

  西行の歌に有名な小夜の中山を通っていると、ほんとうに日陰がなくて照りつける陽を受けながらの峠越えはつらい。まさに「命なりけり‥‥」だ。木陰といえば笠のようにわずかな陰をみつけるくらいだ

 

    

   

  「道のべの むくげは馬に くばれけり」 (芭蕉)

 むくげの花を馬の上から眺めていると、あれよという間に、その花を馬が食べてしまったよ。そうでなくても短命な花であるのに。

 「ふるさとに聞きし あらしの声もにず 忘れね人を さやの中山」(藤原家隆)

 旅に出て耳にするここ 佐夜の中山の山風の音は 都で聞いたのとは似ても似つかない このように都も遠ざかったのであるから いっそ都の人など忘れてしまえよ

 「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山 」(蓮生法師)

 遥か甲斐の白根の峰々は雪で白い 今、神無月(10月)時雨の中、さやの中山を超えることだ

      

この佐夜の中山を歩いていると、何年か前に熊本「草枕の道」を歩いたことを思い出します。何かよく似ているような道です。

草枕の道は、ミカン畑ですが、ここは、道の両側に茶畑が広がっています。日坂の茶畑は「茶草場農法」といって茶園周辺で刈り取ったススキやササなどを茶畑に有機物として投入する農法で

世界農業遺産に登録されています。

    

    

扇屋・子育て飴・・・・・・江戸時代創業の茶屋。夜泣き石伝説にちなんだ「子育て飴」が名物です。ただ、土・日・祝日のみしか開いておらず中には入れませんでした。

   

西行法師の歌碑 年たけて また超ゆべしとおもひきや 命なりけり さやの中山 

意味は、年老いてから、この山をまた超えることができる(旅ができる)と思っただろうか、いや思いはしなかった。小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだなぁ。

文治2年(1186)西行法師69歳、2度目の奥州の旅の時に詠んだそうです。

阿佛尼の歌碑・・・・・・雲かかる中山超えぬとは都に告げよ有明の月 

     雲のかかる佐夜の中山を超えたと、都の子供たちに伝えておくれ有明の月

壬生忠岑の歌碑   東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん

         東国への道中、佐夜の中山よ 都を離れて遥か遠く ここまで来たが はっきりとも見えない 遠く旅の空の下で生涯を燃えることであろうか 

   

久延寺・・・・・真言宗の寺院で、山号佐夜山。本尊は、子育て観音と称され、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、成長した子は、親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護に

よるものであり、ゆえに子育て観音と称す」といういわれがあります。  慶長5年(1600)、会津の上杉景勝討伐に向かう徳川家康を掛川城主山内一豊が茶亭を建ててもてなした所といわれています

 そういえば、夜泣き石跡、妊婦の墓を見逃していました。今から引き返すわけにはいきませんし、ここは先に進みます。

掛川市・島田市の市境です。ここから島田市菊川に入ります。菊川も斜面いっぱいに茶畑が広がっています。

 

  

ここからは、「青木坂(箭置(やおき)坂)」になります。日坂からは、かなり急な下りで、2年前、新潟山古志で膝を痛めた時もこのような急な下り坂でした。

今回は、膝を痛めないよう慎重にゆっくりゆっくり下りていきます。ちょうど下り口の所が工事中で新しく橋脚などが建っており、この道も何年か後には、広くなるのでしょうか?

工事現場の所には、菊川神社があります。

菊川は、日坂宿と金谷宿の間にある「間の宿」です。最初、「菊川」というと、高校野球の強豪「常葉菊川高校」がある所かな?と思ってましたが、この高校は、菊川市にあり、間の宿菊川は、島田市になります。

ちょっと紛らわしいですが、「菊川市」は、JR金谷駅と掛川駅の間にある「菊川駅」の所です。

話が横道にそれましたが、間の宿菊川では、「菜飯田楽」が名物でした。菜飯田楽は、米の飯に大根葉を乾燥させ炊き込んだものと味噌田楽を合わせた料理です。

    

さんぽ茶屋は、平成9年に建てられた菊川の里のお休み処で、営業日は毎週日曜日。運営は地元の女性たちが仲間で行っていて、食堂のメニューは手作りの「そば」「とろろめし」「ところてん」など

おふくろの味が中心。お土産には地元菊川茶を使ったお菓子やお漬物などがありますが、今日は木曜日お店は開いていませんでした。

高麗橋を渡り、東海道の名所「菊川の石畳」を歩きます。

 

    

(その2)に続く


東海道道草ウオーク №26(その2)(袋井宿~掛川宿~日坂宿)掛川市

2017-07-16 13:32:53 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続き

掛川城から次の宿場「日坂(にっさか)宿」に向かいます。

新町七曲り

江戸時代、葛川と新町の境の堀割にじかかる橋を渡ると門があり、この門の西側から東海道は南に折れ、簡単に敵を侵入させないため、道は何回も鍵の手に折り曲げられていました。

この七曲りを抜けると城下に入ってくる人や物を取り締まる木戸と番所がありました。新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した街並みで元和6年(1620)町として認められました。

馬喰(ばくろう)橋の欄干は、建築家がデザインした馬のオブジェがあります。

    

街道は、本村橋から国道1号線と合流。本所からまた、旧道に入ります。伊達方には、「石川依平(よりひら)出生地」があります。

寛政3年(1791)に生まれ、長じて栗田士満の門に入り、教えを受けました。国学者、歌人として名高く、その教えを受けた者10余ヶ国、300余名に及んだといわれています。安政6年(1859)没。

   

福天権現道標」 寛保元年(1741)の夏、竜雲寺の和尚の弟子に憑き物があり、「吾は天狗なり、名を大福天という。寺の向かいの山に祠を建て、福天権現として祭るべし」とのお告げがあった。

その後も種々の奇妙なことが起こったので、寺では掛川藩主小笠原家に使いを出して、「祠を建てたい」と申し出たところ、「新規の寺社は国家の禁制である」という理由で許可されなかった。

然し、掛川でも不思議な出来事が起こったため、掛川藩も「古来より祠があったということにして建てるならば差支えない」と回答してきたので、寺では翌年の正月までに祠を建てた。

建立後、足の不自由な人が参拝したところ、その日のうちに歩いて家に帰ることができた等の不思議なことがあり、信心深い人々が参拝して賑わったそうです。

嵐牛蔵美術館」 伊藤嵐牛は、寛政10年(1978)に掛川市八坂に生まれた。幕末から明治にかけて活躍した俳人で、松尾芭蕉の流れを汲む鶴田卓池に入門した。また、和歌国学を石川依平から学んだ。

浜松から静岡までに、約300人の門人を養成し、門人の一人に松島十湖がいた。その生家は、嵐牛蔵美術館として開放(事前予約が必要)されている。

   

右側に「事任(ことのまま)八幡宮」があります。面白い読み方ですが、社殿によると、大同2年(807)に桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が遷座したと伝えられており、

「枕草子」には、「事のままの明神、いと頼もし」と書かれています。「願い事がそのまま叶う」という神社で、多くの人が立ち寄り旅の安全や願い事成就を祈願してきました。

御神木の楠と本殿奥の大杉はともに市の天然記念物に指定されています。

    

ここから「日坂(にっさか)宿」に入ります。東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓にある日坂宿は、25番目の宿場で半円形の街道に沿って宿場が形成され、東海道の中でも

特異な形をしていまうs。各戸には天保11年当時の屋号の木板が掲げられ江戸の風情を醸し出しています。

1843年の資料には、家数168軒、本陣1、脇本陣1軒、旅籠33軒、人口750人でした。

  

   

旅籠川坂屋跡」 すべての部屋に床の間があり、身分の高い武士などが宿泊した脇本陣格で、明治3年(1870)まで営業していました。

建築時期は、「日坂宿大火(1852)」か「安政東海大地震(1854)」後といわれます。精巧な木組と細やかな技法を用いた格子や欄間が特徴です。

一般公開されていますが、土・日・祝日だけの公開ですので中には入れませんでした。

   

萬屋」は、江戸時代末期の旅籠です。嘉永5年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。筋向いの「川坂屋」が、士分格の宿泊した大旅籠に対し、

萬屋は、庶民の利用した旅籠でした。

藤文」は、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸で、藤文部分が江戸時代、かえでや部分が明治初期に建てられたものです。

伊藤文七は、維新後、明治4年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅藤文に開設、日本最初の郵便局の一つと言われています。

  

   

日坂宿本陣は、屋号を「扇屋」、代々片岡家が世襲で営んでいました。

  

時間は15時を過ぎました。本来ならここから小夜の中山峠を目指すのですが、今日は疲れましたのでここまでにします。

掛川行のバスが16時ちょうどですのでそれに乗って掛川駅まで帰りました。

    

 

 


東海道道草ウオーク №26(その1)(袋井宿~掛川宿~日坂宿)袋井市~掛川市

2017-07-15 17:34:20 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

7/5(水) 昨日の台風3号は、夕方から雨、風が強くなりましたが、今日の明け方には、過ぎ去ってしまいました。

今回の東海道歩き3日目です。浜松のホテルから荷物を今日の宿舎 掛川のホテルに預け、袋井まで戻ってのスタートです。

袋井駅から前日ゴール地どまん中茶屋まで歩きます。(1km」ちょっとあったかな?)

新屋の秋葉山常夜灯

火伏の神様、秋葉山大権現への信仰は、江戸時代に盛んになり、秋葉神社参拝の道には、常夜灯がたてられるようになりました。やがて町を火事から守る象徴として

町の中にも立てられました。この新屋の常夜灯は、木製の屋台造りで、見事な彫刻で装飾が施されています。

   

七ツ森神社  七ツ森は、田圃の真ん中に残る七つの塚として尾張藩藩士高力猿猴庵が天明6年(1786)に東海道を自ら旅して記した「東街便覧図館」に描かれています。

その中で一番大きな塚の上に描かれているのが七ツ森神社です。この七ツ森には伝説があります。桓武天皇のころ、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するため、朝廷から派遣された七人の武士は、

退治できずに返り討に合い命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七ツ森だと伝えられています。

医王山 油山寺」 46代孝謙天皇が眼病平癒を祈願。全快したことから目の守護、眼病平癒に御利益のある寺です。

この油山寺を始め、「法多山 尊永寺」「萬松山 可睡斎」は、袋井市内にある遠州三山と呼ばれています

   

袋井東小学校の横には、「久津部一里塚」があります。江戸からちょうど60里。明治初期までは、老松が立っていました。

  

大和ハウス工場の近くには、「富士浅間宮赤鳥居」があります。この800mほど先に富士浅間宮があります。本殿との間に道路が横切り、工場が立っているため、神社を望むことは、出来ません。

平安初期に坂上田村麻呂が先勝祈願の成就として社殿を造り、太刀を奉納したのが始まりとされ、足利尊氏がこの地を富士宮市の富士山本宮浅間神社に寄進しています。

戦火で一度消失しましたが、天正18年(1590)に建設された本殿は国の重要文化財です。本殿へ行ってみたかったのですが、往復30分ぐらいかかりますのでやめました。

   

   

名栗の立場近くを通っていると、後ろから車が近づいてきました。よけようとすると車の中から一人の男性が降りてこられました。

昨日どまん中茶屋でお会いしたAさんです。私のリュックの後ろの風車で解られたのか、エールを送っていただきました。お仕事の途中だったみたいですが、有難うございました。

名栗の立場跡から同心橋を渡ります。右遠くには、「静岡スタジアムエコパ」が見えます。

  

同心橋を渡ると、「掛川市」です。掛川市は、人口約118,000人。掛川は、古くから交通・交易の要衝でした。東海道は、東西に、秋葉街道(塩の道)は、南東から北西に掛川で交差しています。

「原川」は、掛川宿へ1里18町(約6km)、袋井宿に33町(約3,6km)と両宿のほぼ中間に位置し、旅人相手の茶屋や酒屋が立ち並ぶ「間(あい)の宿」でした。

  

   

東名のガードを潜り、しばらく歩くと「大池一里塚跡」があります。

岡津の道標には、掛川へ1里、袋井へ1里と書いてます。

天竜浜名湖鉄道西掛川駅では、天浜線のラッピング電車に遭遇しました。ラッピング電車には、家康、信玄、井伊直虎が描かれています。

    

大池橋に来ました。ここには、「秋葉道道標」があります。東海道を旅する人々は、ここから秋葉道を通って秋葉総本山を目指しました。

秋葉信仰は、江戸中期に爆発的なブームとなり全国へ広がり、掛川宿から分岐して秋葉山へ入り、御油宿で東海道に戻って伊勢参りをしています。

秋葉信仰は火難・水難よけ,とくに火難よけ(火伏せ)の信仰として全国的に分布しているが,とくに関東・中部地方に濃厚である。この信仰の中心は遠州秋葉山で,

各地の秋葉山はここから分祀したものといえる。また関東・中部地方では秋葉講中あるいは代参・月参講中が結成され,秋葉山への参詣が盛んである。

秋葉山では秋葉神社・秋葉寺(三尺坊権現)ともに12月15,16日に火祭を行っている。秋葉神社では火之迦具土神をまつり,16日の大祭には弓・剣・火の舞が行われる。

 

   

  

広重の掛川の浮世絵は、大池橋から秋葉山を見ています。

   

大池橋から逆川橋に向かいます。東光寺近くに「平将門十九首塚」があります。

天慶3年(940)、藤原秀郷は、関東を制覇した平将門を討伐し、将門以下家臣19名の首を持って上洛、ここ掛川の地で朝廷の勅使と会い、後に「血洗川」と呼ばれる川で首を洗って検死を行いました。

その後、無残にも路傍に棄てさられようとするのを見て「その屍を鞭打つは非情なり」と19の首を埋葬し供養しました。掛川の地名は、橋の欄干に首を掛けたことからとも言われています。(さすが静岡東海道より)

また、掛川を歩いていると「井伊家ゆかりの地掛川」の幟を見かけます。

永禄5年、井伊直虎の許嫁「直親(亀之丞)」は今川の本拠「駿府」に向かいますが、途中の掛川城下で今川氏重臣、掛川城主の朝比奈泰朝に殺害されます。その場所が「十九首塚」であっただろうと

推測されています。また、万治2年(1659)、掛川藩の藩主が北条家から井伊家に代わり、それから4代、半世紀近く掛川城主を務めたそうです。

  

掛川宿に入ってきました。掛川宿は、家数960軒、本陣2軒、旅籠30軒、人口3443人(1843年資料より)でした。

清水銀行には、山内一豊・千代夫妻の像があります。天正18年(1590)掛川城主であった山内一豊が名馬を欲したところ、千代夫人がひそかに蓄えていた黄金をもって願いを叶えさせた

という内助の功が美談として伝えられています。後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで連綿として城主の家系を守りました。

  

掛川城跡

文明年間(1469~87)に今川義忠が重臣朝比奈泰煕に城を築かせ、その後秀吉の命で山内一豊が改修し、天守台を築きました。貴族的な外観の美しい城は、安政の地震(1854)で一部を除き

大半が損傷。再建されずに明治2年(1869)廃城となりました。損壊を免れた二の丸御殿は、江戸後期の建物で城郭御殿としては、京都二条城・川越城・高知城だけに残る貴重な建築物で

国の重要文化財です。平成6年(1994)、天守閣は掛川市民の手で140年ぶりに再建されています。(さすが静岡東海道より)

    

大日本報徳社

経済と道徳の調和により、精神的・経済的・に豊かになろうという二宮尊徳の「報徳思想」を伝えている全国に100以上ある報徳社の本社です。建物は、大行動が国の重要文化財、

正門、図書館は県の文化財、記念館、学舎は市の文化財です。(さすが静岡東海道より)

中庭には、二宮尊徳の鍬を持っている像がありました。

  

    

                                                                                                    

 その2に続く

 


東海道道草ウオーク№25(その2)(見附宿~袋井宿)袋井市

2017-07-12 21:13:38 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

(その1)からの続きです。

行人坂から歩いていると、「大日堂」の看板があります。この辺りは、三ヶ野七つ道といって、鎌倉古道、江戸道(東海道)、質屋に通った道といわれる質道、明治の道、大正の道が残され、

昭和(国道1号)、平成(磐田バイパス)の道が整備されています。ここは、江戸道(東海道)を通ります。

  

戦国時代の初め頃は、遠江地方は、駿河の今川氏の支配下におさめられていましたが、今川氏滅亡後は今川氏に代わって家康によって治められました。

ところが、元亀3年(1572)上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野、見附宿、一言坂と戦った。

この大日堂の高台には本多平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していた。この丘陵に立てば太田川から遠く袋井まで一望できた。

   

江戸の道は、木が生い茂って日陰になり歩きやすかったが、100mぐらいしかなかった。

下りてくると、「東海道松並木」があります。太田川の三ヶ野橋を渡ります。地図では、右手に須賀神社の大楠があると書いてますのでそちらに向かいます。

須賀神社の大楠は、樹高15m、枝張り25m、幹回り9,5m樹齢500年以上のお大変大きな楠です。

街道は、袋井市に入りました。袋井市は、東海道の27番目の宿場で江戸からも京からもちょうど真ん中に位置しています。現在の人口は、約87、600人。

歩いていると「どまんなか」の文字がいろんなところに書いてあります。

  

歩いていると「木原畷古戦場跡」があります。木原は、元亀3年(1573)武田信玄が徳川家康を破った三方原も戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られています。

6年後、徳川の様子を探っていた武田の家臣、笹田源吾を村人たちが討ち取ってしまったところ、疫病が流行ったため、村では、念仏を唱え、源吾を懇ろに弔いました。これが木原大念仏の始まりです。

  

 

許禰(こね)神社は、昔、大雨に悩まされていた村を救うため熊野の神が現れて神社を造るよう促し、「木原権現」(許禰神社)が誕生した。また、家康がこの宮に参拝し、関ヶ原の戦いの勝利を祈願し、

心願成就して70石の所領を与えた。 

  

袋井の川井地区に入りました。寺澤家の長屋門は、明治元年(1868)に建てられたそうです。

澤野医院記念館は、江戸時代から地域医療を担ってきた澤野家を顕彰する記念館です。安政の大地震の後再建された居宅、大正から昭和にかけての洋館や病棟が整備され、私設病院の

往時の姿を肌で感じることができます。

   

袋井の東海道には、いろんな絵師が描いた浮世絵が掲げられています。御幸橋を渡ると袋井宿の中心に入ります。

1843年の資料には、袋井宿は、家数195軒、本陣3軒、旅籠50軒、人口843人でした。

  

袋井は、丸凧も有名です。諸国名所百景には、丸凧を上げる様子が描かれています。

   

  

観福寺(へそ寺) 袋井の地名の元となった、袋井山観福寺は、曹洞宗の寺院で、袋井宿の中央にあることから「へそ寺」と呼ばれています。

境内に住んでいた子狐が観音様の思い召しで人間の姿になり、義経と常盤御前を引き合わせたと伝えられています。

    

袋井宿どまん中茶屋です。広重が描いた「東海道53次袋井出茶屋ノ図」をモチーフにして建てられた、旧東海道を往来する人たちの憩いの場所です。

 

入ってみると、冷たいお茶を出され、暑い中歩いてきたので生き返るような気分です。

しばらく談笑していると、地元の方で百街道を踏破したAさんが来られました。これから先歩く所の注意点などを教えていただきました。

それから袋井の江戸時代から続く名物料理「たまごふわふわ」のお店を紹介していただきました。

  

教えられた袋井駅前のお店に行くと、もうお昼の休憩時間になっていました。「たまぼふわふわ」だけでもいいからお願いできないかというと、快く引き受けていただきました。

たまごふわふわです。「たまご」と「だし汁」だけのシンプルな料理ですが、よく出汁がきいており、おいしかったです。

  

さて、台風3号ですが、夕方ぐらいに静岡接近するそうです。浜松地方は夕方から雨の予報になっています。風も少し強くなってきました。

駅にも近いし、早いけど今日は、ここまでにします。

  

  


東海道道草ウオーク №25(その1)(見附宿~袋井宿)磐田市~袋井市

2017-07-11 18:03:28 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

7/4(火) 台風3号が発生。夕方から夜にかけて静岡県に接近するそうです。今日は、見附宿~掛川宿まで歩く予定にしていますが、天気がひどくなったら引き返すことも考えています。

浜松のホテルを出発し、8:00に前日ゴール地の磐田駅に到着。磐田駅から北口に降りようとすると、すごい行列ができています。降りてみてみると、ヤマハ発動機向けの社員送迎バスでした。

昨日、country walkerさんから教えていただいた「御殿遺跡公園」に行きました。

家康公は、天正14年(1586)府八幡宮の神主を務めていた秋鹿(あいか)家の跡地に、見附、中泉支配や軍略の拠点として「中泉御殿」を建てています。

江戸時代になると、敷地内に代官所と陣屋が建てられ、初代代官は、秋鹿家が勤めていました。中泉陣屋は通称中泉代官所と呼ばれ、幕府の直轄地を支配し、その範囲は遠江を中心に西は三河、

北は信濃まで及んでいました。中泉陣屋の大きさは、絵図によると西は、東城道に面し、周囲は土塁や水路によって仕切られ、総延長571mありました。

敷地の北半はには、書院や長屋などの建物が並び、南半は、畑や池とともに稲荷宮が置かれました。

    

磐田駅北側には、「前島 密」像がありました。前島密は、新潟出身で、江戸に出て医学や英語を学んだ。維新後静岡に移住し、明治2年(1869)1月13日から8月16日までの間、

奉行として中泉に赴任し善政を尽くす。まず、江戸から無禄武士を受け入れ新たに職業の道を指導する。また、身寄りのない老人や子供更に身体の不自由な人達のために福祉施設の

普済院を創設する。この施設を地元寺院の住職や青山宙平が献身的に支えた。のちに前島は新政府に出仕し、英国に渡って郵便事業の実態を視察する。帰国後は我が国に初めて

郵便制度を設けた。更に郵便為替や郵便貯金も兼営して国営による郵便事業の基礎を確立した。

このあと、駅南側に行き、見附宿に向かいました。途中、昨日案内していただいた「西願寺裏門」の案内板がありました。

この通りは、ジュビロ通りといわれており、歩道には、ジュビロ像が建っていました。

   

磐田は、トンボの町でもあります。市東部の桶ヶ谷沼には、絶滅危惧種の「ベッコウトンボ」が生息しています。

磐田市のマンホールや歩道のプレートには、トンボが描かれています。

  

遠江国分寺跡

奈良時代、国分寺や国分尼寺は、日本全国約60か所に建てられたといわれますが、そのほとんどが礎石程度しか発掘されていません。昭和27年(1952)からの調査で七重塔など主要な

伽藍跡などが発見されており、国宝と同格の国特別史跡に指定されています。

    

遠江国分寺跡の向かいには、「府 八幡宮」があります。

奈良時代に遠江国の治安を祈願に仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三神を祀り建立されました。本殿は二代将軍秀忠公の娘、東福寺院が寄進しました。

楼門は、純和風の随身門で、県の文化財です。この門に続く中門は禅宗様(唐様)で楼門と対照的な美しさを見せています。

  

  

街道は、郵便局から右折。再び大きな道と合流した加茂川の所に「西光寺」があります。ここの楼門も中泉御殿の門が移設されています。

  

西木戸跡  木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門のこと。

二本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由であったが、非常時の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を止めていた。

西坂町バス停の所に「姫街道分岐」があります。見附宿から浜名湖の北側を迂回し、御油宿を結ぶ15里(60km)の道は、姫街道、または本坂峠を越えることから本坂道などとも呼ばれています。

姫街道の呼び名は、新居関所の厳しい取り締まりを避けるため、女性が多く利用したという説や古いという意味の「ひね」が変化したからとも言われています。

起点は浜松の安間と言われ、一里塚も築かれています。

西坂の梅塚」は、見附の東坂町、西坂町にそれぞれ1本の梅があり、通称東坂の梅の木、西坂の梅の木と呼ばれている。これを梅塚という。

この梅塚は、昔、陰暦八月初めに一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し、娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだとして伝えられている。

そして西坂の梅塚はその最後のものであった。

  

栗田家土蔵群跡」 江戸時代から磐田は煙草の産地であり、遠州葉というブランドもあり、葉煙草の一大集積地でした。栗田家は明治20年(1887)頃に栗田煙草合資会社を設立し、

遠州でも有数の煙草製造会社で、明治から昭和初期に建てられた土蔵群が近年まで残っていました。

  

旧見附学校

現存する日本最古の洋風木造学校で、明治8年(1875)に造られました。建物の石積みは横須賀城(掛川市大須賀)から移設され、当初は4階建てで、明治16年(1883)に5階建てとなりました。

玄関のエンタシスをつけたドリス式の飾り柱や男女の分かれた入口などが残り、建物内では当時の学校風景や資料が展示されています。

  

  

見附学校の隣は、「淡海国玉神社」(おうみくにたまじんじゃ)です。 

大国主命を祀る神社です。大国主命と兎の「因幡の白兎」の話は有名ですが、一説には八上姫が兎を使者として結婚相手を探し、その後大国主命と八上姫がめでたく結婚されたことから、

縁結びの神様としても慕われています。境内の狛犬?は、狛兎??です。

   

    

見附宿バス停の手前に「本陣跡」がありました。見附宿は、家数1029軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒、人口3935人でした。(1843年資料より)

   

本陣跡からちょっと奥のほうに入った所に「大見寺」があります。境内には、珍しい木「ジャガランタ」の花が咲いていました。一見桐の花みたいです。

この大見寺には、「鳥人幸吉」の墓があります。1757年生まれ。本名は浮田幸吉。記録によれば、1785年夏に岡山城下の京橋から滑空し、世間を騒がせた罪で岡山藩を所払いに。

船員として全国を巡った後、静岡で舶来時計の修理や入れ歯の製作で成功。50歳の頃、飛行に再挑戦。再び所払いに遭い、静岡県磐田市見付へ。そこで結婚し、91歳まで生きたとされる。

  

見附宿は、お寺が多いです。次に行くお寺は、白波五人男の日本駄右衛門のモデルとなった「日本左衛門」の墓がある「見性寺」です。

日本左衛門は、尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。

延享3年(1746)年9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。

これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、

安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念。延享4年(1747)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞)に自首し、江戸に送られ、

北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。

なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29才。(wikipediaより)

歩いているとオリンピックでメダルを獲得した「水谷隼」「伊藤美誠」の垂れ幕がありました。お二人とも磐田北小学校の出身だそうです。

   

朝8時から見附宿周辺を探索していますが、もう10時です。見附宿は見どころ満載でなかなか先に進みません。

今日も暑く、途中のスーパーで休憩しました。暑いときにはこれですね。ガリガリ君。

水分をたっぷり補給して再び出発します。

昨日countrywalkerさんから教えていただいた「宣光寺」に行きます。宣光寺は、「みがわり地蔵」といって元亀三年(1572)三方原の戦いで信玄に追われた家康は、見附に逃れて、町に火を放った。

地蔵は、にげまどう人々を助けるため、幼児に化身。身にやけどを負いながら火を消して回った。その功徳によって多くの人々は難を逃れた。深く地蔵に帰依した家康は、のち天下人になった。

以来、心や身体の苦しみなどの災難を身代りになってくれる仏として信仰を集めています。世にみがわり地蔵といいます。

    

見附宿東木戸跡近くに「見附天神(矢奈比売(やなひめ)神社)」があります。祭神は、矢奈比売命、菅原道真、霊犬悉平太郎で創建は不明ですが、延喜5年(905)の延喜式に名前が記されています。

旧暦8月に行われる例大祭「見附天神裸祭り」は国の重要無形文化財に指定されています。

   

富士見公園があります。昔は、ここから富士山が見えていたでしょう。然し、今日は、薄曇りでその形を見ることができません。

道路の左側の高地に「遠州鈴ヶ森」があります。白波五人男の日本左衛門は、ここで処刑されたと伝えられています。

鈴ヶ森の先の歩道橋を渡ります。このあたり「行人坂」です。ここには、行人(山伏)が多く住んでいて村の祀りごとや社会奉仕に携わっていたのでこの坂を「行人坂」と呼ぶようになったそうです。

   

行人坂の所に「北向き地蔵」があります。明治の中頃、この地区で疫病が流行りこれを封じるためにお地蔵さんを方角が悪いとされた北向きに建立して身代りになっていただいたと伝えられています。

  

(その2)に続く

 


東海道道草ウオーク №24(浜松宿~見附宿)浜松市~磐田市

2017-07-10 06:26:59 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

7/3(月)、4ヵ月ぶりの「東海道道草ウオーク」です。

博多を6:08始発の新幹線のぞみに乗り、途中でひかりに乗り換え、浜松に着いたのが10:06。荷物をホテルに預け、前回ゴール地「連尺」を10:30から歩き出しました。

  

新町バス停のところに「夢告地蔵」があります。安政5年(1858)に流行ったコレラの犠牲者を供養するための延命地蔵でした。明治になって廃仏稀釈の波を受け土中に埋められてしまいましたが、

小柳丈之助の夢に「世上に出たい」と現れ、大正8年(1919)に町民たちの手で掘り出され、お堂に安置されました。これが「夢告(ゆめつげ)地蔵として人気を呼び、参拝客でにぎわったそうです。

松江町の馬込橋を渡り、しばらく歩くと「旧掛塚街道入口」の看板があります。その向かい側のホテルのところには、「旧笠井街道入口」の看板。

「旧掛塚街道」は、東海道に対し、南街道の道として重要な道でした。明治中ごろまで天竜川上流から運ばれてくる材木や鉱石、木炭を浜松市内へ運ぶ道として栄えました。

「旧笠井街道」は、当時の流通の中心地「笠井」を結ぶ唯一の街道でした。

   

馬込一里塚を過ぎ、「蒲神明宮」に来ました。この蒲神明宮は、浜松で一番古い神社です。大同元年(806)、伊勢神宮を勧請し、創建されました。

参道が1km以上あり、往時の規模を彷彿とさせます。鎌倉時代、室町時代の将軍の信仰を得ていました。

   

今日は、浜松でも日中の気温が30度を超え、現在33度ぐらいでしょうか、とにかく暑い。地図を見ながら、名所地よりもコンビニを探すほうが多くなってきます。

現代のコンビニは、今でいう、「お茶屋」さんですね。

天竜川駅近くの六所神社から入った所に「法橋の松」があるそうですが、なかなか見つけられません。近くの人に聞きやっと見つけました。

法橋の松」は、三方原の戦で逃げた家康を匿ったことで有名な日蓮宗妙恩寺の開基、金原法橋の館のあった黒松と伝えられています。樹齢700年といわれ高さは約14m、幹回りは約5mあります。

       

国道1号線の下を通ると、「安間一里塚」があります。江戸から数えて64番目の一里塚です。この一里塚が、本坂通(姫街道)の分岐点で姫街道一里塚の最初の塚ともなっています。

     

歩いていると古い大きな家が見えてきました。これが「金原明善生誕地」です。

天保3年(1832)に豪農に生まれた明善は、水害で苦しむ住民のため自費で治水工事を行い、その治水の考え方は、のちの天竜川治水の基本方針ともなっています。

また、水源地の植林に力を入れ、杉や檜など292本の木がある森を作ったといわれ、これが天竜美林と呼ばれるようになりました。(さすが静岡東海道より)

今、歩いている「中野町」は、東海道江戸から60里、京から60里の位置に属し、東海道の中間点でした。かつてここを流れる小川には、土橋(東橋)が架かっていました。中野町では、一番東の橋で

東海道を往来する旅人は皆、この橋を渡りました。明治後期から、中野町は、天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。堤防沿いには、旅館、芸者置場、小料理屋、洋食屋、

玉突き(ビリヤードかな?)、カフェなどの店が軒を連ねていました。

  

天竜川橋紀功碑

浅野茂平は、明治元年(1867)の天皇東光行に際して、天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年(1874)には、舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の

活性化に大きく貢献しました。

中野町銀行跡

明治15年(1882)この場所で「竜西社」が結成され、2年後に中野町銀行が誕生しました。その後、西遠銀行と合併し遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収されました。

昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガにかすかに当時の面影を見ることができます。 

  

 

舟橋・木橋跡

江戸時代の天竜川は、江戸防衛の理由から橋が架けられてなかった。東海道の往来は、上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。

明治元年(1867)、天皇御東幸の際には、舟を並べ板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられた。その後、同7年(1874)には、本流の舟橋と洲の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成して

街道の往来が格別に便利になった。然し、舟橋は洪水により度々流されたので、同9年(1876)に完全な木橋に架けられました。この天竜橋は昭和8年(1933)に現在の鉄橋ができるまで使用された。

  

天竜川が見えてきました。私、今年の4月に上流の長野県飯田で行われた「飯田ツーデーマーチ」で天竜川下りを体験しました。

橋を渡っていると何か、懐かしい感じがしてきました。この天竜川には、何本もの橋が架けられ、今渡っている天竜川橋は、全長約920mぐらいです。

 

橋を渡ると磐田市に入ります。磐田市は、2005年に磐田市、豊田町、竜洋町、福田町、豊岡村と合併し、人口約17万人で静岡県内で5番目に人口の多い都市です。

このあたりは、旧豊田町。マンホールには、旧豊田町の花「藤」が描かれています。また、行興寺の長藤は、県の天然記念物に指定されています。

 

天竜川橋から少し上流の所にある「池田の渡し跡」に向かいます。池田の渡しの前には、「歴史風景館」がありますが、今日は月曜日で休館でした。

天正元年(1573)、家康公は武田軍との戦の危機を救った東岸の池田と西岸の船越一色村に渡船の独占権を与えました。天竜川には瀬が二つあり、その中洲で船を乗り換えるシステムでしたが、

明治に有料の橋が架けられ、渡船は無くなりました。風景館では渡しの歴史等が紹介されています。

  

広重の浮世絵「見附」には、天竜川の渡しが描かれています。 

    

再び街道に戻ります。長森の信号から入るのですが、どうも一つ手前の信号から入ったみたいです。若宮八幡宮のコンビニで地元の方に聞き、街道に戻りました。

宮之一色という所に秋葉神社の常夜灯がありました。この常夜灯(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年【一八二八年】に建てられたものとわかりました。

竜の彫り物があるので「竜灯」とも呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。

「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。

  

宮之一色一里塚を過ぎると千寿酒造に向け、少し上り坂になっています。旧街道はここから斜め右に入ります。

くろん坊様」  黒坊大権現は、旧東海道筋で現磐田化学正門の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。

インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので土地の人が手厚く葬ったものといわれており、毎年11月3日が縁日とされています。

「大乗院坂」  山伏の修行寺「大乗院」があった坂です。赤レンガ製作工場があったことから、磐田の建物には、赤レンガが多く使われています。

  

中泉の町に入ってきました中泉交流センターには、江戸時代の中泉、大正時代の中泉の絵図がありました。

現磐田駅も昔は、「中泉駅」と呼ばれていたそうです。

  

15:28今日のゴール地「磐田駅」に到着しました。磐田駅では、昔のSNSの仲間「country walkerさん」と会う予定になっていて今日一番の楽しみでした。

country walkerさんは、以前、東海道を往復された方で、私たち東海道ウオーカーにとって大先輩です。

色々なアドバイスをいただいてとても有意義な時間を過ごすことができました。

初めてお会いするのですが、以前のSNSで交流があったからか、とても初対面とは思えませんでした。

そのあと、country walkerさんの車で明日歩く見附の町を案内してもらいました。

  

西願寺山門です。これは、「中泉御殿」の裏門を移設したものです。中泉御殿は、明日行きますのでその時に説明します。

サッカーJ1ジュビロ磐田の本拠地「ヤマハスタジアム」です。ジュビロという意味は、ポルトガル語の「歓喜」を意味しているそうです。

スタジアムの向かい側には、ヤマハ発動機の本社がありました。

  

country walkerさんからJR豊田町駅まで送っていただき、今晩の宿浜松まで戻りました。今日の歩行距離は20kmでした。

とにかく今日は暑かった。浜松の居酒屋で飲んだビールは本当においしかったです。

   

  

 


東海道道草ウオーキング№23(新居宿~浜松宿)

2017-05-05 13:53:31 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/9 宿泊した浜松のホテルから電車で昨日ゴール地「新居町駅」に移動。

新居町駅からスタートします。新居関所は、慶長5年(1600)に設置されました。大津波の影響で現在地に至るまで2回変わっています。

最初に設けられたのが、今切渡しの近くです。ここは、慶長5年(1600)~元禄14年(1701)まで。現在は、「大元屋敷跡」の案内板があるのみです。(下記写真①)

次が、新居高校の近くで、元禄14年(1701)~宝永4年(1707)までです。(下記写真②)ここには、「中屋敷」がありました。

現在地に移ったのが、宝永5年(1708)~です。(下記写真③)

 

  

井上通女の歌碑がありました。通女は、江戸時代中期の歌人で讃岐丸亀の生まれ、幼少から和漢の学に通じ、多くの文人と交わり文名を高めました。著書に「東海紀行」「江戸日記」「帰家日記」などがあります。

              旅衣 あら井の関を越かねて 袖によるなみ身をうらみつつ  

この歌は、今切関所で手形に「小女」と記すべきところを「女」とだけあったため、通行を拒否された時の心境を詠んだ歌です。「東海紀行」に収められています。

     

街道に合流します。

西浜名橋を越えると浜松市に入ります。

  

中浜名橋から弁天島に立ち寄ります。このあたりは、弁天島海浜公園になっており、春先には、潮干狩りが楽しめます。

また、海浜公園の前には、マンション、ホテルなど建ち並んでいます。

  

 

【弁天島と天女】

昔、弁天島のこのあたりは、砂州が新居の橋本廻りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。

村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。

それから長い年月がたち、この辺り一帯は、大きな災害にみまわれ、、洲崎の一部であった弁天は、湖に取り残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は、渡船で行き来するようになりましたが、

江戸時代、宝永6年(1709)、今切渡船安全の為、この島に辨天神社が建てられました。人々は、天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしていきました。御祭神は、「市杵島姫命」です。

  

舞阪宿に入りました。舞阪宿は、家数541軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、人口2475人。(1843年資料より)

舞阪宿に入ると、「北雁木(きたがんけ)」があります。ここは、今切渡しの舞阪宿側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。

雁木(がんけ)とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では、「がんけ」と昔から言っています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所です。

    

本雁木跡:ここは、旅人が一番多く利用した船着場です。

  

舞阪宿には、本陣2軒(宮崎伝左衛門本陣、徳右衛門本陣)がありました。本陣跡は、現在駐車場になっていて石碑のみが残っていました。

その向かい側には、脇本陣があります。江戸時代、東海道舞坂宿は江戸から30番目の宿場にあたり、東西交通を結ぶ今切渡しの渡船場でした。今日、当時をしのぶ町並みは失われてしまいましたが、

天保9年(1838)建築の旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていました。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物を復元しました。

明治時代は、村役場としても利用されたそうです。

  

広重の浮世絵「舞阪宿」ですが、奥の方の岩山は「舘山寺」の方では、ないでしょうか?、また富士山もこの位置からは見ることができません。

 

舞阪は、江戸時代から海苔の養殖が盛んで、街中を歩くと干物屋さんの看板が多く目にします。生しらす丼なんか美味しいでしょうね。

街道は、新町交差点より国道1号線と交わり、ここは、東海道松並木の方に行きます。

  

340本の松並木は、700m続きます。途中には東海道53次各宿場のイラストが掲げられています。

【浪小僧】

昔、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていた。魚が獲れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり、小僧を殺そうとすると、

小僧は、「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助け下さい。その代り、御恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりするときは、海の底で太鼓を叩いてお知らせします。」というので

海に戻してやりました。それ以来、天気が変わる時、海の音が聞こえるようになったと伝えられています。

  

街道は、浜松。馬郡の町に入ります。春日神社の先に「本徳寺」が東本徳寺、西本徳寺と分かれています。本徳寺時代の泉光坊が、東本徳寺、大泉坊が西本徳寺になったそうです。

また、この西本徳寺には、こんな話があります。

歌舞伎「白波五人男」のモデルにもなった盗人日本左衛門(歌舞伎では、日本駄右衛門)がこの寺の釈迦像を盗み、浜松方向に逃げたのですが、かなりの距離を走ったにもかかわらず、

寺の門前だったと言い伝えがあります。

  

馬郡観音】 かってここに馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

往古、東海道を上り下りした旅人の信仰をうけ、人々はこの堂の前を通るときには必ず手を合わせたといわれてます。

    

このあたり、神社・仏閣が多いですね。

   

  

そろそろお腹もすいてきました。JR高塚駅近くを歩いていると、浜松のファミレス「さわやか」があります。ここの「げんこつハンバーグ」が有名ですので入ってみました。

さすが、テレビでも紹介されているお店です。美味しかった。

  

お腹も一杯になり、再び歩き出します。

麦飯長者跡

昔、高塚の村に一軒の裕福な家があり、五郎兵衛という男の家族が住んでいた。五郎兵衛は馬を引いて人や荷物を運ぶ、馬子を生業としていた。

ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで一人の旅僧を送り届けると、馬の鞍に風呂敷包みがくくりつけたままだった。手にとって見ると、ずっしりと重く、家に入って中を見てみると、

そこには観音経一巻と大量の小判が入っていた。急いで返そうと思い、舞坂の町まで馬を走らせ、旅僧の姿を捜すが見つからなかった。

そして、旅僧が現れるのを待って30年ほど過ぎたある日、捜し求めていた旅僧が立派な格式の高い僧(白隠禅師)として、街道を通るのを見つけた。五郎兵衛は大金を返そうとするが、

誠実さに感動した高僧は受け取らなかった。 そこで、五郎兵衛は困った人のために使おうと、街道を行き交う人々に湯茶を接待したり、空腹の人には麦飯を食べさせてあげたり、

怪我をした人を手当してやったりした。こうした五郎兵衛の善行によって、後に小野田という姓が与えられ、村役人や庄屋にまでなることができた。(浜松情報BOOKより)

     

二輪・四輪メーカーのスズキは、この辺りに本社があります。バス停にもスズキ入口がありました。

   

浜松領界石】 江戸時代高塚が堀江領となり、ここに境界を示す標示石が立てられました。堀江領は、舘山寺を居城とした名門大沢氏が納めていました。

先に行くと、右側に松並木があります。

  

【二つ御堂】 奥州平泉の当主、藤原秀衡が京で病に倒れ、彼の元へ駆けつけようとした側室がこの地で死報を受け取り、悲しみの中北側に御堂を建てて亡くなりました。

それは、誤報で、病が治り、奥州への帰途の途中、この話を聞いた秀衡は、南側の御堂を建てたといいます。明治15年(1882)頃まで側室の遺体を埋めた場所に秀衡が植えた、周囲6mの

「秀衡の松」があったといわれています。

   

ここには、馬頭観音、高札場跡もありました。

  

今、歩いているのは、国道257号線。浜松の市街地も近くなりました。

鎧橋】 平安時代末、鴨江寺では、比叡山延暦寺の本山には、無断で戒壇(出家者には、正式な僧・尼として認めること)を行っていました。そのことで延暦寺側の兵が攻めてきたため、

鴨江寺もこの橋で鎧を着て迎えうちました。2日間の戦いで双方1000人を超える戦死者があったそうです。鎧橋の北に戦死者を葬った場所は、千塚または血塚と言われていました。

   

新幹線のガードを潜り、西浅田から東海道本線の下を通ります。しばらく歩くと、「堀留ポッポ道」があります。

東海道線の浜松工場への引込線の後を、緑の散策路として、昭和60年(1985)に整備しています。ここには、大正時代に造られた、初期の国産蒸気機関車が展示されています。

この小型機関車は、「ケ91タンク機関車」で大日本鉄道会社が製造し、東農鉄道(岐阜県美濃太田~多治見間)を走っていました。

   

五社神社】 家康公は、城内にあった神社を2代将軍秀忠の産神様として天正8年(1580)現在地に社殿を建立しました。社名は、太玉命、武富命、斎主命、天児屋根命、姫大神の5柱を祭神として

祀っていることに由来します。戦災で焼失しましたが、昭和57年(1982)、京都の平安神宮を思わせる優美な神殿が再建され、特に子守、子育ての神として信仰されました。

浜松復興記念館】 戦時中、軍施設や軍需工場があった浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶ激しい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化した。

戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業が1983(昭和58)年に終了。この事業の完成を記念し、1988(昭和63)年4月に開館。

  

浜松宿は、家数1622軒、本陣6軒、脇本陣0軒、旅籠94軒、人口5964人(1843年資料より)

浜松宿は、箱根宿と並ぶ6軒の本陣がありましたが、戦災で焼失し、現在碑が所在を示しています。

三菱UFJ銀行の所には、川口本陣跡、緑屋の前に、佐藤本陣跡、静岡信用金庫の所に杉浦本陣跡、トイザレスの前に梅屋本陣跡がありました。

この中で最も古いのが、杉浦本陣です。

  

  

街道は、蓮尺の交差点で「姫街道」と交差しています。今回は、ここまでにします。

 

 

旅の楽しみは、温泉と食べ物。浜松と言えば、「餃子」ですね。美味しかったです。