よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№27「島田宿~藤枝宿」(静岡県島田市~藤枝市)

2017-11-21 06:38:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

11/13(月) 加古川ツーデーマーチの後、静岡県藤枝に移動し、今日から3日間東海道を歩きます

前回ゴール地JR島田駅を8:00スタート。

島田宿は、家数1461軒、本陣3軒、旅籠48軒、人口6727人(1843年資料より)

  

静岡銀行島田支店の所には、「塚本如舟(じょしゅう)邸跡」があります。

塚本家は代々「孫兵衛」を名乗り、幕府より島田宿の川庄屋(かわしょうや)に任じられました。川庄屋とは川越を管理する役人のことです。

三代目孫兵衛の時、塚本家の財力がとても大きくなり塚本家は大いに栄えました。その三代目孫兵衛は俳諧をたしなむ人物で塚本如舟と名乗っていました。

元禄4年(1691)松尾芭蕉が島田宿を訪れた時に塚本如舟が接待しました。この時芭蕉48歳如舟51歳。

その後、芭蕉最後の旅となった元禄7年(1694)の旅の途上でも、芭蕉はここ如舟宅を訪れ、いくつかの句を詠んでいます。この時芭蕉は大井川の川留めのため四泊しています。

碑には、如舟作の俳句が刻まれています。 やわらかに たけよ今年の 手作麦

 

刀匠島田顕彰碑    島田の刀鍛冶は室町から江戸末期に至る400年間の歴史を持ち、今川、武田、徳川などの武将に高く評価されていました。

 

ここで街道を離れ、「蓬莱橋」へ。

蓬莱橋は、明治12年(1879年)に開拓した牧之原の茶畑へ行く橋として作られた全長897,4m(厄無の長生橋)、通行幅2,7mの木製橋です。

平成9年(1997年)に世界一長い木造歩道橋としてギネスブックに登録されました。

名前は、明治3年(1870)開拓している幕臣の激励のため牧之原を訪れた静岡藩主16代徳川家達の言葉からつけられたとされています。 

2016年NHK朝ドラ「ととねえちゃん」で主役常子が通う通学路としても放映されました。

  

この蓬莱橋から見る富士山は、ビューポイントになっていますが、この日は、空がかすんでいて、富士山が輪郭しか見えませんでした。

 

   

蓬莱橋から再び東海道に戻りました

 升形跡」は、宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張施設のことをいいました。

宿場の見付は、上に咲くや竹矢来を設けた石段や土手で、街道に直角や鍵の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。

島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80㎡)ほどです。ここには宿場の番人を置いたという記録はありませんので、

宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。

島田市のマンホールは、日本三大奇祭の一つ「帯祭」がデザインされています。

  

監物川と監物橋

今は、小さな川ですが、寛永12年(1635)島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野監物忠善の支配下に入りました。注)志太郡一帯を支配することになった監物は、

水不足に悩む栃山川以東の村々の為に、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して

大井川の水を引き入れました。感謝した農民達は、その名前を後世に残そうとこの水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだものと思われます。

  ※注)志太郡・・・・・・藤枝市の大部分、焼津、島田の一部、川根本町の一部

  

栃山土橋 大津谷川と伊太谷川がこの橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。

享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の栃山橋は、土橋で長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)、橋杭は三本立て七組で支えていました。

土橋とは、板橋の上に土を貼ったもので、この橋の東端が、当時の遊悦島村と島田宿の境になっていました。

 

街道は、22番目の宿場「藤枝」に入りました。

藤枝は、古代から人が生活を営み平安時代には、役所(志太郡衛)が置かれていました。宿場町であるとともに、田中城の城下町として栄え、海辺の町、相良までの「塩の道」でもある

田沼街道の終点でもあり、商業の町としても栄えていました。

  

田中藩は、他藩と接する領地が入り込んでいた為、田中藩を示す榜示石を各所に立てていました。その石に刻まれた文字は、田中城主が家臣に命じて書かせたもので、

その書の見事さは、旅する文人を驚かせたほどだといわれています。

   

千貫堤は、大井川の氾濫から村を守るため田中藩が江戸初期より築いた堤防です。近くには千貫堤・瀬戸染飯伝承館がありますが、今日は月曜日定休日でした。

  

瀬戸染飯・・・・・・クチナシで染めたおこわである染飯は、戦国時代から売られてきたもので、足腰の疲れを取る薬効もあり、東海道の名物でした。

     

六地蔵・・・・・・・世界観である六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のそれぞれの世界に救いを与える地蔵菩薩を祀っています。多くの旅人が祈願したと伝えられています。

東海道追分・・・・ここには、瀬戸山を越える中世の古東海道を山裾に沿う旧東海道があります。瀬戸新屋や水上は、池や湿地が多い所だったので東海道から六地蔵の所を通るように

なったのは、開拓が進んでからです。当時東海道は、この碑の所から東へ竜太寺山を通り、前島境で初倉からの道と合流して南新屋(五又路)へ通っていました。

東海道が瀬戸新屋を通るようになって東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼びました。

     

時刻も12時を廻り、青木の信号の所の食堂で軽い昼食を食べます。

昼食後再びスタート。歩いていると「岡野繁蔵生誕地」の石碑がありました。岡野繁蔵????

石碑の説明文を見ると、裸一貫から南洋のデパート王となった岡野繁蔵は、明治27年青島村(現藤枝市青島)で生まれ、青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアの

スマトラに渡り、大信洋行を興し、雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが、太平洋戦争で止む無く日本に引き揚げました。

戦後衆議院議員に当選し国や郷土の為に貢献されたが昭和50年81歳の生涯を閉じました。

志太郡衛跡は、奈良・平安時代の駿河の国志太郡の役所跡です。

志太の一里塚は勝草公園の所にありました。

   

勝草橋を渡ります。江戸幕府は大きな川に橋を架けることを禁じていたので、瀬戸川も川越しが行われた。「越すに越されぬ大井川」に比べ川幅も狭く、水深も浅いので徒歩で渡ることが多く、 

瀬戸川の徒渡り(かちわたり)といわれ知られていました。

 明治8年(1875)11月初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となりました。勝草橋の名前の由来は、二つの説が伝えられ、一つは昔、田中城の兵が付近の河原で合戦し勝利したことから、

勝軍橋と言っていたのが縮まって勝草橋になったという説ともう一つは志太という地名が植物のシダの読みと同じで、シダの異名、勝草と称することから志太橋という意味で

志太という地名が勝草橋になったということです。

 

勝草橋を渡ると「藤枝宿」です。現在藤枝の中心部は駅付近ですが、当時はこのあたりが藤枝の中心部だったのでしょう。

「藤枝宿」は、家数1061軒(本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠37軒)、人口4425人でした。(1843年資料)

正定寺には、田中城主であった土岐丹後守頼稔が大阪城代への出世を記念して寄進された「本願の松」があります。

  

広重の東海道の浮世絵は、問屋場の風景を描いており、問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所で、町役人がいて荷物の賃金を決めたり、馬の乗換えや人足の補充をしたり、

駅伝の重要な機関でした。問屋場の役人たち、汗を拭いたり煙草をふかしてひと休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、慌ただしい問屋場のひと時の情景が情緒豊かに描かれています。

交番の所が問屋場のあった所です。そこには、大きな浮世絵の看板が設置されていました。

   

地図では、交番の横、おたけせんべいの向かい側に本陣があると表示されていますが、探しても見当たらず、また近所の方に聞いてもわからないとのこと。

おたけせんべいは、明治の初め、東海道22番宿・藤枝で創業者天野たけが、宿場の梅園にて美しく咲き乱れる梅に心を奪われ、その梅を型どった煎餅を焼いて、

宿場町で休む旅人たちに親しまれていました。残念ながら月曜日は定休日でした。

旧東海道は藤枝の宿、江戸時代からの伝統を受け継いでいる“藤枝だるま”は、創業170余年…。かぼちゃ型、面長型などは明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が

愛玩したということから『八雲だるま』や『乙吉だるま』とよばれて親しまれている。

“藤枝だるま”の大きな特徴は、びんの左右に描かれた「8の字」である。

だるま以外に、オカメ、ヒョットコ、その他の張子面も作っている。ひとつひとつがすべて手作りであり、今も伝統が守られている。(静岡こだわりの逸品ガイドより)

若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)は、平安時代に源八幡太郎義家が奥州での争乱を平定する為に下向し、その途中義家は若一王子神社で武道長久を祈願しました。

その時、神社の古い松の木の枝に藤の花が今を盛りと咲きにおっていました。これを見た義家は、松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代をへん  という和歌を詠み、

また自身も松を手植えをしました。その時、この松を「千歳の松」というようになり、この辺一帯を「藤枝」と呼ぶようになったといわれています。

    

蓮華寺池公園・・・・慶長18年(1613)頃、灌漑用として村民が総出で掘った池で、現在は、周辺を含め公園となっており、公園内の「若王子古墳群」は28基の古墳と東日本では珍しい

車輪石等が出土しています。

  

白子由来の碑・・・・家康公は、天正10年(1582)本能寺の変で三河に逃れる途中、伊勢国白子の孫三に助けられました。その後現在の本町あたりを白子町として、孫三に居住を許し、

諸役免除の御朱印を与えました。その御朱印は子孫の手で今でも保管されています。

  

藤枝は、サッカーの町、東海道沿いには、高校サッカーの名門「藤枝東高校」があります。また、藤枝はスイーツの町、サッカー饅頭、サッカー最中などのお菓子もありました。

    

街道からは外れますが、本町3丁目から右折すると、「旧西益津村役場跡」があります。その先の大手の信号の所に「田中城跡」の碑が建っています。

田中城は徳川家康の死因ともいわれる鯛の天ぷらを食した城です。かつては今川氏と武田氏とが奪い合った城で、山県昌景が城主を務めたこともあります。

この城の特徴はなんといっても縄張で、本丸を中心に、直径約600mの同心円を描く全国的にも珍しい円形輪郭式の縄張となっています。当時の遺構は水堀と石垣がわずかに残るだけですが、

江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった別荘が史跡公園(田中城下屋敷)として整備され、本丸櫓や茶室が復元されています。

城跡は、現在西益津小学校が建てられています。時間の関係上、城跡までは行けませんでした。

    

                                                                                                                            (つづく)

 


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kumasan)
2017-11-21 17:07:16
大井川に長さ900mの木製の橋を架けるとはびっくりしました。
この橋が出来て牧之原のお茶が榮えて、日本一のお茶所となり、八女茶も追い越されたのだなと思いました。茶畑のスケールが静岡県はとてつもなく広いですからね。
Unknown (ぼくちゃん 相棒)
2017-11-22 18:27:54
二日間のツーデー参加の後の東海道歩き、お疲れ様でした
写真の整理も大変だったのではないですか?
詳しいレポート、楽しく読んでいます
一日目、富士山がくっきり姿を現してくれなかったのは少し残念ですが、これから先沢山のビュースポットでの美しい写真、期待してますね
Unknown (サンカヨウ)
2017-11-23 09:11:21
東海道歩きお疲れ様です。
よっくんさんのレポートを読みながら、歩いて来た道を思い出しています。
もうすぐ駿河國に入りますね。美しい富士山がみられるといいですね。写真を楽しみにしていますね。
Kumasan (よっくん)
2017-11-25 05:07:56
蓬莱橋は、初めて渡りました。お茶農家の方々がお金を出し合い、自費で架けたそうです。
現在でも洪水などでは、橋脚に倒木などが押し寄せ修理を行っているそうです。そうですね、この橋のおかげでお茶の生産量も増えていったでしょうね。
ぼくちゃん&相棒さん (よっくん)
2017-11-25 05:12:36
加古川ツーデー2日目から膝が痛くなり、東海道を歩いた時は、膝をかばいながら歩きました。
やはり休足日も必要ですね。
蓬莱橋から富士山が見える!ということで期待していましたが、輪郭だけでした。それでも見えたことには変わりありませんね。(笑)
これから先は、天気予報とも相談しながら美しい富士山を見たいですね。
サンカヨウさん (よっくん)
2017-11-25 05:17:34
コメント有難うございます。
静岡県も遠江、遠州、駿府と広いですね。
今回は江尻まで歩きましたが、まだまだ先は遠いです。
次回は1月末頃を予定しています。美しい富士山が早く見たいです。
Unknown (country walker)
2017-11-26 10:09:12
東海道「東下り」の再開ですね。
何時もの事ながら街道沿いは勿論、街道から外れたところまで実に丁寧に観察されております。
歩く前の下調べが充分されている何よりの証拠です。
県内ではいたる所で富士山が見られます。昨日は野鳥の写真撮影で静岡・安倍川河口まで出かけてきましたが富士山の冠雪もかなり増えていましたよ。
「薩埵峠」では美しい富士山を存分にお楽しみ下さい。
countrywalkerさま (よっくん)
2017-11-28 05:59:49
コメント有難うございます。
気候もよくなりましたので東海道を再開しました。
蓬莱橋では、微かですが、富士山が見えました。これから江戸に向けて富士山が顔を出してくれると思いますので楽しみにしております。
1月末にさった峠を予定しています。せっかくですので天気のいい日に歩きたいです。

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