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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№37「山中城址~箱根関所」(静岡県三島市~神奈川県箱根町)

2018-04-18 08:37:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/10(火)今日は天気も良く、富士山がはっきり見えています。三島駅発8:15の東海バスで前日ゴールの山中へ向かいます。今日は、峠道ですのでポールを持って歩きます。

途中、富士山が綺麗でしたのでバスの車窓から写真を撮りました。写真を撮って気付いたのですが、三島~箱根間の富士山は、宝永火口が正面に見えます。

静岡県由比周辺で見た富士山は、右側に宝永火口でした。

  

約30分で山中に到着。今日はここからスタートし、箱根湯本まで歩こうと思っています。

箱根旧街道西坂に入ると「雲助徳利の墓」があります。

この墓の主は、久助という人で、なかなか立派な家の出であったといいます。一説には武家の生まれともいわれ、なかなかの器量人であった様です。

しかし、どのような理由からか一生を人の卑しむ雲助で終わりました。日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。

これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたといいます。

したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。

その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。

石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。(三島市HPより)

   

  

念仏石」この先にある宗閑寺の僧侶が箱根峠越えの途中、行き倒れた人たちを供養するため石に「南無阿弥陀仏」の念仏を刻んだといわれています。

   

兜石」は、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城に北条氏を攻めた時、箱根を越える途中で兜をこの上に置いて休憩した石だとか、秀吉の兜に形が似た石だとも言われています。

  

接待茶屋」の看板があります。箱根峠に程近い、施行平【せぎょうだいら】に接待小屋が設けられたのは今から約180年前、文政7年(1824)のこと。

公的機関ではなく、江戸の商人加勢屋與兵衛という義人が運営したのです。私財50両を投じこれを基金として、馬に飼葉を与え、冬には旅人に粥【かゆ】と焚き火【たきび】を接待(サービス)しました。

茶店も姿を消す冬には寒さをしのぎ体を暖める安らぎの場だったです。 しかし、基金は底を尽き、三十年後に茶屋は閉じられます。(写真は大正中ごろの接待茶屋)

明治に入り、下総(千葉県)性理【しょうり】教会二代目会長の遠藤亮規は箱根峠に接待所の必要性を感じ、その遺志を継いだ門人達が明治12年(1879)接待茶屋を再開します。

その後、門人の鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、一年を通し無料で旅人達にお茶をサービスし、病人や山で疲れた人々の避難場所となっていました。

鈴木家の人々は教会からの援助が途絶えたため、箱根竹を出荷したり鶏を飼うなどして、接待を維持します。その心意気に感じた人々が、全国からお茶や茶碗を送ってきました。

時代は徒歩の旅から車へ、石畳道から舗装道路へ変化し、利用者も減ったため、昭和45年(1970)店が閉じられ、平成5年(1992)国道拡幅工事のため建物も取り壊されてしまいます。(三島市HP)

接待茶屋の向かいには、「徳川有徳公の碑」があります。徳川有徳とは、徳川吉宗のことで享保元年(1716)紀州藩主から将軍になる為、江戸に向かう途中、石割坂にあるこの茶店で休憩を

とりました。その間に店主が馬の世話をよくした所、吉宗はその心遣いに大層喜び、自ら永楽銭を与えたそうです。それからというもの代々の紀州公は、参勤交代の際には、この店で休み、

永楽銭を支払うようになったそうです。

  

街道は一旦国道に出て100mぐらいでまた旧街道に入ります。

  

兜石跡」があります。これは、国道拡張工事に伴って移転するまでここにありました。

八ツ手観音」(馬頭観音)八本の手を持つ馬頭観音は、高さが50cmほどの石像で冠には、馬頭が刻まれています。当時、馬が交通機関であり、労働力であったことから、大きな財産として

大切にされていました。道中の安全を祈願して祀られたとされます。

  

ここには、箱根八里の碑「井上 靖」さんの碑がありました。道標には、江戸へ25里、京へ100里の標示があります。

  

道標を過ぎると国道1号線に合流します。先に進むと、箱根エコパーキング。ここには、箱根八里の碑(峠の地蔵)があります。知っている人の歌碑がありましたので書いてみます。

箱根路を我が越え来れば 伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ  源実朝、杉本苑子、細心大胆 橋本聖子、おしん辛抱 橋田寿賀子、道は段々険しく  穐吉敏子

花見る人は皆きれい 黒柳徹子、夢に向かってもう一度 向井千秋、 花は色なり勇気なり 桜井よし子、

私は彼等と共に泣き、また共に笑った。彼等はただ私と共にあり、私はただ彼等と共にあった  宮城まり子

  

更に先へ進むと、「箱根峠」の信号が見えてきました。ここから「神奈川県」です。標高が846m。大分登ってきましたね。

やっと静岡県を抜けました。静岡県は、三角形の形をしており、東海道沿いが長いです。

この街道にしても西は、湖西市、東は、函南町。新幹線の駅にしても6つあります。西と東では文化圏も違うでしょうね。

私達を歓迎してか、富士山も顔を出してくれました。

   

   

1号線箱根峠から1号線を横断して旧街道に行くのですが、このあたり車の通行が多く、道の駅箱根峠の方まで行ってそこで横断歩道を渡ります。

道の駅の眼下には、「芦ノ湖」が見えます。

   

挟石坂を下りるのですが、ここは、急勾配(45度ぐらいかな?)です。また階段の段差も大きく手摺を使ってゆっくりゆっくり下りていきます。

  

途中には、倒壊した木があります。

 

芦川石仏群は、とは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた

多くの巡礼供養塔などがあります。石仏・石搭の大半は巡礼塔で、箱根宿の宿民が巡礼成就の記念や供養として建立したものもあるそうです。

  

石畳を下りてくると右側に「駒形神社」があります。駒ヶ岳を仰ぎ見る芦ノ湖南岸に鎮座する駒形神社は、駒ヶ岳の地主神 駒形大神を祀る古社であります。

御祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、素戔鳴尊、大山袛神。古くは「駒形権現(こまがたごんげん)」「荒湯駒形権現(あらゆこまがたごんげん)」と呼ばれ、

その淵源は遙か悠久の昔、駒ヶ岳の山岳信仰に遡ると云われ、関東総鎮守として武門の崇敬を集めた箱根神社の社外の末社として尊崇されてきた町内の鎮守様。地元の住民には、

古くから「駒形さん」と親しまれています。境内には、「犬神明神」があり、元和4年(1618)箱根宿が創設された時、付近には狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませました。

そこで唐犬2匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと宿場が完成しました。然し2匹の唐犬も傷ついて死んでしまいました。人々は、宿場を完成させてくれた2匹の唐犬をここに埋め、

「犬神明神」と崇め祀りました。(説明文より)

  

箱根町に入りました。この光景は、お正月の箱根駅伝でよく見かけます。信号を曲がった所には、駅伝広場、箱根駅伝往路ゴールなどの碑が建っています。

  

箱根宿は、元和4年(1618)徳川幕府によって宿場が開かれました。時の松平政綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿と相模国小田原宿から各50戸づつ移住願いせし(約600名)

人為的に箱根宿を創設。またこの系統に依って支配されていました。現在も箱根宿主要部は、字箕島町、字小田原町と名付けられています。

箱根宿は、本陣6軒、脇本陣0、旅籠36軒の規模でした。

箱根駅伝は、東京箱根往復大学駅伝競走(現在217,9km)、大正9年(1920)第1回大会に4校で争われ、以後第2次世界大戦により5回中断しましたが、昭和、平成と三世代に渡り、

シード権獲得した大学と予選を勝ち抜いた大学20校(200名)のみが、毎年1月2日~3日の決戦に母校の名誉と栄光の為に勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い熾烈な戦いを行っています。

   

  

箱根関所・・・元和5年(1619)に関所と宿場が設置され、標高が725m、東海道の中で一番高い場所にあったことから「山の関所」と言われていました。明治2年(1869)に廃止されましたが、

平成7年(1995)に復元されています。

 

  

関所の裏手には、「遠見番所」があります。芦ノ湖を行く船の監視を行っていました。ここからは芦ノ湖がよく見えます。

   

箱根関所から100mぐらい行った所には、「箱根関所資料館」があります。ここは、撮影禁止でした。

  

                                                                                       

                                                                                               <つづく>

 


東海道道草ウォーク№36「三島宿~山中城址」(静岡県三島市)

2018-04-17 05:18:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/9(月) ランチの後、三嶋大社に行ってきました。三嶋大社は、三島の地名の由来となった、伊豆国の一宮です。祭神は、「三嶋大明神」。

創建の時代は、不明ですが、延喜式神名帳(927年)にその名が記載されています。源頼朝が挙兵の時、祈願して以来、多くの武家、庶民の信仰を集めています。

「三嶋暦」を発行し、全国に名を知られていました。

     

三嶋大社は、桜は盛りを過ぎ、つつじが咲き始めていました。広重の三島宿は、朝霧の中、三嶋大社の前を行く旅人の姿が描かれています。

三嶋大社の縁起餅として知られる「福太郎餅」。生命力を宿すという餅と、邪気を払うとされるヨモギを使用した縁起物。カルシウム含有量や滋養に富むことでも知られるヨモギを含んだ草餅を、

烏帽子の形にした甘さ控えめのこしあんで包み、一口でも食べられる丁度良い大きさになっています。これで200円です。広重の描いた旅人も福太郎餅を食べたのでしょうか?

    

さあ、箱根峠に向かって出発です。新町橋があります。ガイドマップには、富士山のビューポイントと書かれていますが、生憎富士山は雲の中でした。

  

箱根旧街道に入ります。

   

箱根旧街道は、1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。この旧街道は、急な坂道なので人も馬も滑って大変な所でした。そこで幕府は、1680年、

それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷き詰めて「石畳の道」に改修したものです。その石畳を1769年に改修した記録によると「愛宕坂では長さ140m、幅3,6mを修理した」とあります。

箱根旧街道には、三島側から、今井坂ー愛宕坂ー臼転坂ー題目坂ー大時雨坂ー小時雨坂ーこわめし坂(下長坂)ーかみなり坂(上長坂)-小枯木坂ー大枯木坂ー石原坂ー

石荒坂ー兜石坂ー挟石坂ー風越坂ー釜石坂ー赤石坂ー向坂の18の坂があります。

  

途中で「大根の碑」があります。「箱根八里の馬子唄消えて 今は大根を造る歌  源水 」。1889(明治22)年、東海道線が開通すると、箱根旧街道を通る人の数は激減して、

今まで街道に生活の糧を求めていた箱根西坂の人びとも農家に転業をせざるを得なくなりました。ここでは、大根、牛蒡、人参などの根野菜を造っていました。

この碑は農業生産の向上に寄与した平井源太郎を記念して建てられたものです。源水は平井源太郎の歌号です。また、平井源太郎は農兵節に歌をつけた人でもあります。

初音ヶ原も富士山のビュースポットですが、まだ富士山は雲の中です。

  

錦田一里塚は江戸日本橋から28番目の一里塚です。街道の両側に一対で残っています。

一里塚の横には、鈴木宗忠氏の「日さらさら歩々道場の一里塚」の歌碑が建っています。

  

街道は、塚原の所で一旦1号線と合流します。1号線を渡るとすぐ左折。向かい側には、伊豆フルーツパークが見えてきます。これから臼転坂です。

  

臼転坂・・・牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたことなどからこの坂の名がついたそうです。

法善寺の所に六地蔵があります。数えてみると12~13体あります。

  

階段を登っていくと、題目坂です。ここには、征夷大将軍足利尊氏建立の「七面堂跡」があります。七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂のことです。

  

坂公民館の所も富士山のビューポイントですが、まだ富士山は雲の中です。

歩いていると前方に「スカイウォーク」が見えてきました。

  

松雲寺は、江戸時代東海道を通行する尾張徳川家や紀伊徳川家が休息所として用い、「寺本陣」と呼ばれました。明治11年(1878)明治天皇は、東海道行幸の節、ここで休憩されました。

 

下長坂(こわめし坂)・・・急勾配で背負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになることからこわめし坂と呼ばれました。

  

  

スカイウォークに着きました。スカイウォークは、2015年(平成27年)12月に完成し、全長400mの歩行者専用吊橋としては日本最高吊橋です。

  

  

  

階段を登って一旦国道に出ます。富士見平ドライブインの所に芭蕉の句碑が建っています。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

意味は、今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめたあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くというのも一興であるよ。

箱根旧街道は、富士見平から入るのですが、ここから先は、工事の為通行止。1号線を迂回します。

 

  

富士山がようやく顔を出してきました。やはり富士山は、素晴らしいですね。 

   

歩いていると、左側に「菊池千本槍の碑」があります。菊池というと、熊本の菊池?と思いながら説明文を見ると、

建武2年(1335)この付近であった水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命をうけた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は、槍の原型となる竹竿の先に短刀を括りつけた武器で足利勢に大勝利しました。

九州に帰国したのち、武重は刀工延寿に槍を造らせ後にこれが菊池千本槍と呼ばれました。

  

再び箱根旧街道に入ります。途中、司馬遼太郎の歌碑があります。幾億の跫音が坂に積もり吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ

  

山中城址に着きました。山中城は永禄年間(1558~1570)に小田原の北条氏康により築城され、天正17年(1589)豊臣秀吉によって落城しました。

碁盤型に掘った「障子堀」や土塁が連なっている「畝堀」が遺構として残っていることで有名です。国指定史跡。

 

  

お城跡にに行ってみようかと思いましたが、城址まで約15分ぐらいかかるそうです。時間がありませんのでここはパスします。

芝切地蔵尊」には、こんな話が残っています。ある夜、巡礼の旅人が宗閑寺(そうかんじ)に一夜の宿を頼みますが、突然腹痛に襲われ亡くなりました。

旅人は亡くなる直前に「私をこの地で地蔵尊として祀(まつ)ってください。そして芝を積んで芝塚をつくり、故郷の常陸国〈ひたちのくに(茨城県)〉が見えるようにしてください。そ

うすれば村の人や世の中の人々の難病を救いましょう」と言い残したそうです。

 こうして旅人は芝切地蔵尊として葬(ほうむ)られ、今でも毎年7月中旬にお祭りが催されています。そこで 売られる「お札」や「腹掛け」は、お腹の病に効くと評判です。

また、戦前は伊豆一円や富士・沼津など遠方からもこの日に多くの信者が集まり、参拝者の列が三島まで続いたといわれています。

 

 山中のバス停で時刻表を見ると、5分ぐらい待てば「三島駅」行のバスが来ます。今日の街道歩きは、ここ迄とします。

バスは、三島まで約30分ぐらいで着きました。何時間もかけて歩いたのに・・・・・・  

三島に着いて「楽寿園」に行こうと思いましたが、今日月曜日は定休日でした。

 

 


東海道道草ウォーク№35「沼津宿~三島宿」(静岡県沼津市~三島市)

2018-04-15 15:00:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

4/9(月)晴れ。前日福島から移動し、今日から3日間東海道を歩きます。今回の最大のテーマは、この東海道最大の難所「箱根峠」を越えることです。

三島発8:15の電車で前回のゴール地、沼津に向かいます。

  

 三枚橋城は、「北条氏政書状」によると天正7年(1579)、武田勝頼が築城したとされる。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松井忠次(松平康親)が城主となり、

天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟中村一栄が城主となっている。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が城主となるが、同19年(1614)、

忠佐の死後跡継ぎがないため三枚橋城は廃城となり、以後160余年間沼津に城はなかった。

安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城する。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、

大手門は静岡銀行の西向い側に造られ、本丸は中央公園辺りにあった。歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続くが、

忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(千葉県市原市)に移り、明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用された。(沼津市HPより)

広重の東海道浮世絵の「沼津」は、夕刻、狩野川を渡る親子連れ、天狗の面を背負った人が描かれています。また、広重の東海道浮世絵の中で唯一「満月」が描かれています。 

  

  

前回2月に沼津を歩いた時は、風が強く、私の相棒の風車が飛んでいきましたが、今回も風が強く、二代目の風車も勢いよく廻っています。

沼津の一里塚の所に「玉砥石」が」二つ置かれています。奈良・平安時代に玉を研ぐために使ったもので日枝神社の参道脇に江戸時代から置かれていたそうです。

  

 

日枝神社に行くため県道に出ると、沼津警察署の前に「友情の碑」が建てられています。何だろう?と見てみると、

昭和29年 5月5日 こどもの日
こどもの日という事で、町内会の催し物があったのですが、中学生の少年は、家の手伝いで、木材をリヤカーで、運ぼうとしていました。

そんな彼を、みんなで運べば速く終わって、みんなで催し物に参加出来ると3人の友だちが(中学生1人、小学生2人)手伝っていました。

しかし、そこに 飲酒運転のトラックが突っ込み、彼らを畑に突き落としました。2人の少年が即死、1人が重体という、悲しい事故が起こったのです。

少年達の友情と、彼らの命を奪った、飲酒運転事故を、忘れてはいけない。そうして、この≪友情の像≫がたてられました

この日からもう60数年経ち、飲酒運転には厳罰が科せられるようになりましたが、変わらず飲酒運転での事故が絶えません。「飲んだら乗るな」を守ってほしいものです。

  

平作地蔵尊」があります。

歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして

「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。

この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。(沼津市HPより)

  

大岡の町に入りました。しばらく歩くと「沼津藩領東榜示杭」があります。

榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、

天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた。

安永6年(1777)、水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。沼津の地は韮山代官支配領であったので、

代官江川太郎左衛門から城地を正式に請け取っている。翌7年(1778)、沼津藩の領域を示す榜示(ぼうじ)を設けたと考えられる。これは、沼津藩の東限を示すもので、沼津市西間門の

八幡神社前に残る榜示杭に対応している。碑の西側を除く3面に「従是西沼津領」と刻まれている。破損もなく、保存状態は非常によい。藩の領域を示す貴重な史料である。(沼津市HPより)

  

潮音寺に亀鶴姫の碑があります。説明文によると、黄瀬川村に小野善司左エ門政なる長者あり、子なきを悲しみ、祈願。一子を授る。亀鶴姫と名付く。七歳の春、両親に死別、

十八歳の時、源頼朝公富士の牧狩も宴に再度召されたが、応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の滝の畔に立ち、「み仏の深き恵みぞ頼みなる。身は滝きつ瀬の

あわと消ゆとも」と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。この時建久四年(1193年)5月27日なり。姫は駿河の三美人と言われ賢女にて亀鶴草紙を残す。(説明文より)

また、一説では、曽我兄弟の仇「工藤祐経」の愛人が亀鶴とも言われています。調べてみると、仇討と身を投じた日が一緒ですね。

  

 智方神社: ご祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王です。倒幕に貢献したものの謀反の容疑をかけられた護良親王は鎌倉に幽閉され殺害された。寵姫、南の方は親王の首を密かに持ち出し、

東海道を西へ逃れたものの黄瀬川の氾濫で断念、この地に首を葬り、クスノキを植えて標としたと伝わっています。境内にはそのクスノキの大木がそびえています。

 

 清水町には、八幡神社に対面石があります。治承四年(1180)十月、陛下の軍勢が富士川辺りまで押し寄せた時、鎌倉にあった源頼朝は、この地に出陣した。たまたま奥州から駆け付けた

弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い懐旧の涙にくれたという。この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。また、この時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、

渋柿だったので傍らに捨てた。すると、後に芽をだし二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹を絡ませねじりあっていたのでいつしか、ねじり柿と呼ぶようになった。(説明文より)

  

八幡の信号の先の玉井寺、また道の反対側の宝池寺に一里塚があります。このようなお寺の両側に一里塚があるのは、初めて見ました。

玉井寺の一里塚は、江戸時代のものがそのまま現存、宝池寺の一里塚は、昭和60年(1985)に改修されたものです。

  

境川にかかる所に「千貫樋」があります。この川で駿河国と伊豆国の境です。

千貫樋(せんがんどい)は、三島の楽寿園に湧水を清水町まで灌漑用水として利用する為にかけられた疎水(樋)です。千貫樋の名前は、架樋の技術が素晴らしく、金千貫に値することから

その名がつけられた、との話が残っています。初めは、木樋でしたが、関東大震災で崩落し現在のコンクリート製になりました。

  

三島市に入ってきました。三島広小路には、伊豆箱根鉄道駿豆線(三島~修善寺)の駅があります。このあたりが三島市の中心部です。

  

踏切を渡ると鰻屋さんの所に「時の鐘」があります。江戸時代に朝と夕、時刻を知らせるため鳴らされていました。大戦の時に供出されましたが、昭和25年(1950)市民の有志により

平和の鐘として復興しました。時の鐘の裏手には、「三石神社」があります。三石神社は、元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷の神を祀ったそうです。

  

時の鐘の横には、源兵衛橋があります。源兵衛川は、楽寿園・小浜池を起点として1,5kmの農業用水路です。きれいな水「三島」の元にもなっています。

   

本町交差点の所に三島宿の本陣「樋口伝左衛門本陣」、その向かいには、「世古六太夫本陣」があります。

江戸時代の三島宿は、家数1025軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒)、人口4084人でした。

   

長圓寺の山門には、世古本陣の門が移設されていました。

  

本町郵便局の角には、「問屋場跡」があります。先に進むと、築後140年の丸平商店です。昔は、金物店だったそうですが、現在は、食べ物屋さんになっています。

時間も11時半を回りましたのでここでランチをいただくことにしました。

  

丸平のランチ「源兵衛膳」。

  

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウォーク№34「吉原宿~沼津宿」(静岡県富士市~沼津市)

2018-02-18 06:56:59 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/4(日)今回の東海道歩きも最終日になりました。今日の15:45の新幹線で福岡に戻る予定です。

早めにホテルをチェックアウトし、前日ゴールの吉原駅に8:10到着。昨日ゴールした時にきれいな姿を見せてくれた富士山は、まだ就寝中かな?顔を見せてくれません。

  

吉原駅から踏切を横断します。渡った所あたりが、「元吉原宿」です。その名残は、もうありません。先に行くと、「妙法寺・毘沙門天」があります。

妙法寺・毘沙門天」武運の神様毘沙門天が祀られ、富士山への修験者の令嬢であり、更に武田氏や紀州徳川家の信仰をうけていました。境内にはインド窟院にならった洞窟七福神堂や

中国様式の建物があり独特の雰囲気をもっています。旧暦正月7日~9日の大祭で開催されるだるま市は、日本三大だるま市の一つです。

毘沙門天から出ると、製紙工場の大きな煙突が建ち並んでいます。ここ富士市には、60社(70工場)の製紙工場があり、全国一の規模です。歴史を見てみると、江戸時代文化年間(西暦1,800年頃)

は富士地区特産である三椏を原料として駿河半紙をすき、江戸や京都、大阪において好評を博したとされています。その後、吉原地区では原料の三椏が量産栽培され、豊富に湧出する水を利用して

製紙業が普及していきました。明治時代には富士地区(旧吉原中心)を中心に県下に中小製紙会社が続々と誕生し、紙の黄金時代が築かれます。その後も紙需用は拡大を続け、

富士市は紙のまちとして発展を続けています。

  

増田平四郎の像があります。水害に悩まされてきた原村を救おうと、明治時代、浮島沼の大干拓を手がけた『増田平四郎(ますだへいじろう)』の碑です。

増田平四郎は、飢饉や水害に悩む住民の救済を決意し、浮島沼の干拓を計画しますが、徳川幕府はなかなか許可せず、計画の立案から許可が出て工事に着工するまでなんと

27年もの月日がかかりました。工事は海から浮島沼にかけて全長505メートル幅7メートルにも及ぶ大規模な掘りを築き、2年後の明治2年(1869)春、ついに大排水路を完成させます。

人々はこれを『スイホシ(水干)』と呼んで平四郎に感謝しますが、その年の8月、高波の被害により無情にも排水路は崩壊、30年に及ぶ平四郎の夢も露と消えてしまいました。

さぞかし無念だったと思いますが、平四郎の計画は後に同じ場所にできた昭和放水路に生かされました。昭和放水路を見守るように、放水路の西側にその碑は立っています。

  

間宿・柏原本陣跡があります。柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところです。

※間宿(あいのしゅく)・・・・江戸時代、本宿と本宿の間に設けられた村。本来は、旅人の休憩のためのもので宿泊は禁止されていた。

   

本陣跡の前には、「立圓寺」です。山門をくぐると、望嶽の碑があります。文化5年尾張藩の侍医・柴田景浩は、江戸への道中しばらく立円寺に滞在し、ここから見た富士の絶景を讃えて碑を建てたと

いわれています。石碑の裏側には漢文でそのいわれが書いてあります。「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし・・・」

晴れた日には正面に大きく富士山が見えます。

その富士山ですが、残念ながら雲の中に隠れています。

この立圓寺には、望嶽の碑の東隣に、昭和54年、富士市の海岸に打ち上げられたデラティック号の碇があります。昭和54年(1979)10月19日、ゲラティック号は、清水港より救援米を運ぶ途中、

台風20号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に直立のまま打ち上げられました。救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。

当時、新聞・テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、5万人の見物人がこの地を訪れ、売店十数軒が出店するなど、近郊はもちろんのこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけました。

船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り、碑を建てました。

  

  

これから、広重の東海道浮世絵の「原宿朝之富士」のモデルになった「浮島ヶ原自然公園」に行きます。浮島ヶ原公園は、東田子の浦駅の国道1号線側にあります。

浮島沼は、湿地草原と富士山を眺望できる風光明媚な場所でしたが、昭和41年(1966)田子の浦港の開港整備に伴う排水工事の改善から湿地の乾田化が進み、湿地地帯は失われて

しまいました。現在湿原に生息している植物を保護し、生態系や風景を保全しようと整備が進められています。

 

  

この時間になると、富士山も起きたのか顔を出してくれました。

  

街道は、沼津市に入りました。植田三十郎のお墓があります。遠州浪人だった植田三十郎はこの地の干拓に尽力するも失敗。後に干拓が成功した後、

この植田の名をつけて植田新田と呼ばれる様になったとの事。

  

浅間愛鷹(せんげんあしたか)神社。愛鷹(あしたか)山は、富士山のふもとに位置する山です。お宮の由緒書きを読んでみますが、かなり古くて文字が薄くなっています。

祭神は、木花咲耶姫命、愛鷹大神(ニギニギノミコト)。

   

桃里改称記念碑というのがあります。改称というのは何のことか?と読んでみますと、浮島ヶ原を最も早く開墾したのは、遠州の浪人だった鈴木助兵衛である。同名の父、鈴木助兵衛良正が

小笠郡堀田城にいた武士で、安倍郡の下足洗新田を開発した後、2代目助兵衛が天正2年(1574)頃浮島ヶ原へ来てこの地を開き、助兵衛新田と称したという。

明治41年(1908)に県知事に改称を申し出、当時この辺りでは桃をよく作っていたので桃里と改めた。この碑は、桃里改名の経緯を記し、助兵衛の功績をたたえている

要するに、助兵衛新田から桃里新田に名称を変えたということですね。

  

休憩の為、コンビニに立ち寄りました。コンビニと富士山・・・・絵になりますかね?

街道は「原宿」に入りました。浮島ヶ原の「原」から名付けられた「原宿」。小さな漁村が東海道13番目の宿場になりました。当時は、鰻のかば焼きが名物と書かれており、

「500年に一人」と言われる臨済宗中興の祖である「白隠禅師」のゆかりの宿場です。東海道は千本松原と並行してまっすぐにのびており、どこからでも富士山が一望できます。

  

高嶋酒造は、文化元年(1804)創業の造り酒屋です。白隠禅師に因んだ「白隠正宗」という山岡鉄舟がつけた銘の酒を製造しています。

原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、

自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であった。

  

原宿は、白隠(はくいん)の里として知られています。白隠禅師は、他の禅宗と比べ衰退していた臨済宗を復興させた名僧です。貞享2年(1685)12月25日、原宿、長沢家の三男として誕生し、

15歳で出家、慧鶴と名付けられ、19歳で諸国行脚の旅に出て、24歳で鐘の音を聞いて悟りを開いたと言われています。享保2年(1717)に33歳で松蔭寺の住職となり、翌年、白隠と号する

ようになりました。当時は「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」と言われていました。

  

松蔭寺への寺道は、「白隠道」と呼ばれ、カラー舗装になっています。

  

松蔭寺は、開基は、約680年前と言われ、白隠禅師が再興し、諸国の大名が禅師の徳を慕って訪ねていたといわれています。白隠禅師の墓があり、宝物館には、禅師に関する書画、文物などが

収蔵されています。

  

長興寺は、江戸中期、松蔭寺に全国から参集した修行者たちの宿坊でした。両寺の間の小路は白隠道と称されました。

我が家の宗派も臨済宗ですが、臨済宗にこのような方がおられたとは、知りませんでした。

  

白隠道から再び街道に戻ります。三本松の踏切を渡ります。JR片浜駅の近くに「神明塚古墳」があるのですが、ちょっとわかりません。近くのお寺に居た人に聞くと、この方は、昨年まで

自治会長をされていた方で詳しく教えていただきました。

神明塚古墳は、5世紀後半に築造された前方後円墳。沼津市内の3つの古墳の中で全長が54mと最大の古墳です。後円部に建てられている「神明宮」は、元和2年(1616)創建で

天照皇大神が祀られています。

   

沼津市のマンホールは、富士山と、はまゆう、千本松原、愛鷹山がデザインされています。

千本松原は、狩野川河口から田子の浦港までの約10km、30万本以上の松があるといわれています。この松原は、昔から農民が防風、防潮の為に植えていたのですが、武田勝頼が駿河攻めの

為に伐採し、それを増誉上人が5年の歳月をかけて植え直しました。大正時代にも伐採の危機がありましたが、若山牧水らの反対運動により免れています。

   

  

沼津市中心部に入ってきました。「沼津藩領榜示杭」は、沼津藩の東西の領域を示す石。安永7年(1778)に設けられ、沼津藩領が確定しました。

中心部に入ってかなり風が強くなりました。突風でしょうか竜巻でしょうか、、私のDバックの後ろの風車が音をたてて回っています。挙句の果ては、飛んで行ってしまいました。

拾いに行こうかと思いましたが、風車は道路の真ん中にありますが、車の通行が激しく、拾いに行けませんでした。帰ったらまた注文しなくては・・・・・・

 

沼津宿は、12番目の宿場で、戦国時代に武田勝頼によって沼津城が築かれた後、廃城となり、160年後、水野忠成が築城し、沼津藩となりました。交通の要衝として、商業、文化の中心的

役割を果たしていました。家数1234軒、(本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒)人口5346人でした。

  

時間も13:30分を過ぎてきました。もう帰りの新幹線に時間も迫っています。今回はここまでとし、次回(4月上旬)、またゆっくり見て回ろうと思います。

 

 


東海道道草ウォーク№33「蒲原(かんばら)宿~吉原宿」(静岡市清水区~富士市)

2018-02-15 22:25:12 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/3(土)昨日の雨で、今回の東海道歩きを1日延長しました。折角来たのですから、富士山と一緒に歩きたいですね。

今日は天気もいいし、きれいな富士山が見れるのが楽しみです。9:00 新蒲原駅から今日の街道歩きスタート。

 蒲原宿は、主要国道から離れているので昔ながらの家並みなどが残っています。

吉田家」は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子屋さんでした。玄関はなまこ壁の塗り家造りで中に入ると柱がなく、広々とした店の間造りになっていて商家らしい雰囲気が残っています。

佐藤家」は、元佐野屋という商家でした。町屋に多くみられる造りですが、このような町屋を塗り壁造りといいます。「塗り壁造り」は、土蔵造りに比べて壁の厚さは少ないが、

防火構造が大きく、昔から贅沢普請とも言われています。

  

この近くに日軽金の発電所があり、山から大きな径の送水管が伸びています。

  

北条新三郎」は、北条早雲の孫にあたり、駿河侵攻を目指す武田信玄、勝頼らに対峙する中心武将として蒲原城主になりましたが、永禄12年(1569)に弟とともに武田軍の猛攻にあい、

戦死しています。

光蓮寺の所から左折、街道は、少し急坂になります。東名高速の横断橋を渡ると街道は、「富士市」に入ります。

   

間宿「岩淵」に着きました。東海道一の急流である藤川は、山梨県からの米などの輸送路としても活用されていたことから、間宿である岩淵には、米蔵や船着場があり、大いに栄えていました。

米は、陸路で江尻宿(清水港)に運ばれ、江戸へ輸送されていました。旅人は、船で富士川を行き来していました。

富士川民族資料館」は、桑木野の大家と言われた稲葉家の家で富士市に現存する最古の民家です。現在、工事中で中に入ることができませんでした。

  

間宿岩淵小休本陣常盤邸」 間宿岩淵には、富士川を渡る準備をするため休憩する施設として小休本陣、脇本陣がありました。常盤邸は、安政元年(1854)の地震後に再建され、

現在も残っています。また、岩淵村の名主だったため、一般の民家には見られない、上段の間といわれる部屋があります。

邸内では、案内人の方から丁寧に説明をうけました。常盤邸は、女優、常盤貴子さんの実家の所有で常盤貴子さんの祖父の方は清水銀行の頭取を務められた方です。

   

富士川に来ました。富士川の先に道の駅「富士川楽座」という所が、富士山のビューポイントですのでそちらに行ってみます。

途中、「富士川渡船場跡、角倉了以紀功碑」があります。富士川を渡る時は、船が使われ、上船居、中船居、下船居の3か所に船着場があり、川の状況によって使い分けていました。

富士川の渡船は、慶長7年(1602)~大正13年(1924)まで続きました。

角倉了以(すみくらりょうい)は、富士川を開削し、甲州方面の水運ルートを開発した戦国時代の京都の豪商、土木事業家です。

 

道の駅富士川楽座は、全国約1000の道の駅で来場者数全国一を誇っています。

3階の展望室からコーヒーを飲みながら富士川越しの富士山を見ていますが、富士山は、雲の中に隠れています。約1時間ほど見ていましたら、少し雲が取れてきました。

  

1時間ほど休憩し再び歩き出します。この旅行中、私のDバックの後ろには、「長崎(出島)から・・・・・」というゼッケン?を付けています。

そのせいか、道行く途中で「頑張って!」と声をかけていただいています。中には、3年前草津で出会った小学生の子、「おじさんたちお金ないから歩いているの?」と聞かれたことが今でも

忘れられません。(笑) その時は、確か、「そうよ、おじちゃんたちお金がないからあるいているのよ」と答えたって。お金は今でもありませんが・・・・・・

街道は、富士川橋を渡ります。ここもビューポイントです。

    

富士川橋を渡ると左側に「富士川渡船場跡、富士山道標、水神社」があります。

水神社は、治水、渡し船の安全を祈願している神社です。境内には、渡船場跡の碑や富士山道の道標、雁堤築造記念の碑、渡船関係者奉納の常夜灯など江戸時代の石碑が多く現存しています。

 

  

札の辻とは、幕府からの通達事項などを書いた高札を建てた場所のことですが、ここでは、実相寺の御札を売っていた場所のことです。実相寺は、「西に比叡、東の実相寺」と言われたほどの

寺で、寺幅は広く、現在の札の辻橋付近に山門があったといわれています。

  

先を行くと、ホワイトホテルがあります。ここには、旧松永邸があった所です。松永家は、甲斐国(現在の山梨県)より駿河国富士郡平垣村に移住してきた、一世五左衛門を祖とし、

六世好時(宝暦一〇〈一七六〇〉~文政八年〈一八ニ五〉)のころより土地集積を進め、財力を蓄えたと伝えられています。

その財力を背景に、江戸末期には富士郡下の平垣村村他六ケ村を領地とする旗本日向小伝太から領地の取締役を命じられ、邸内にその陣屋を構え、領主に代わって年貢のとりまとめを行う

業務を担っていました。明治元年には明治天皇の御東行の際に、屋敷の一室が小休所として使われています。

昭和54年富士市に寄贈され、現在は、富士市博物館西側の「ふるさと村」に移築保存されています。

  

 間宿本市場は、吉原宿と蒲原宿にあり、間の宿として多くの茶屋が立ち並び多くの旅人で賑わいました。名物として白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどが知られて、

安藤広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。

鶴芝の碑」文政3年(1820)間宿本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここからの富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、京の画家蘆州が鶴を書き、

江戸の学者亀田鵬斉が詩を添え石碑としたそうです。

  

  

富士市のマンホールには、かぐや姫が描かれています。ここ富士市にもかぐや姫伝説がありますが、富士市のかぐや姫は、一般的な伝説では、月に帰りますが、富士市は、富士山に帰るそうです。

富士市のかぐや姫伝説です。  http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kids/k_hime/k_story.htm

  

富安橋は、通称三度橋と呼ばれ、江戸と京を1か月に3度行き来していたことから、その便宜を図るために架けられた橋です。

東海道14番目の宿場である「吉原宿」は、寛永16年(1639)、延宝8年(1680)の津波などにより、3度も所替えをしています。最初の宿場を元吉原宿、2番目を中吉原宿、

3番目を新吉原宿と呼んでいます。

商店街を歩いていると「長さん小路」という看板がありました。長さんこと、いかりや長介さんは、1931年東京・墨田で生まれ、小学校卒業と同時に富士市に疎開。

その後、工場の仲間とバンド活動を始め、吉原のダンスホールなどで演奏し、青春時代の16年間を富士市で過ごしました。1959年28歳で上京し、ドリフターズのリーダーとして活躍され、

2004年72歳で死去。2004年、富士市より多くの市民に感動を与えたとして、富士市初めての市民感謝状が贈られました。

 

    

岳南鉄道吉原本町駅裏に「身代り地蔵」が」あります。昔、東本通り付近で目の病が流行り、人々がこのお地蔵さんにお願いすると忽ちに治りました。その時、お地蔵さんの目には、

目ヤニが一杯ついていたので「身代り地蔵」と呼ぶようになったそうです。

うどん屋さんも経営している「鯛屋旅館」は、創業は天和2年(1,682年)より330年以上もの間、当時の場所で現在も営業しております。

また世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である山岡鉄舟の常宿としても知られております。

  

このころから、富士山もきれいな姿を見せてくれました。

   

平家越橋を渡ると、「平家越」があります。源氏と平家が争っていた頃、平維盛(たいらのこれもり)は、富士川西岸に、源頼朝は、東岸に陣を構えました。源氏軍は敵の後ろから攻め込もうと

軍を移動させましたが、これに驚いた大群の水鳥が一斉に飛び立ち、その音に驚いた平家軍は逃げてしまったという源平の富士川合戦の碑が建てられ、橋の名前にもなっています。

 

このあたりが、「中吉原宿」です。馬頭観音を過ぎると、「左富士」があります。

左富士は、広重の吉原宿の浮世絵にもなっていますが、大地震後、津波の影響で3度宿場の場所が変わり、そのたびに内陸に移っていったため、江戸から京に向かっていた場合、

海と並行していた東海道は、北側に大きく曲り、右手に見えていた富士山が左手に見える景勝地が生まれました。

現在では、工場の建物で浮世絵みたいな富士山が見えません。

  

左富士のすぐ近くには、左富士神社です。現在工事中ですので外から撮りました。

  

このあたりからの富士山もきれいです。

  

16:15 吉原駅にゴールしました。

  

  


東海道道草ウォーク№32「由比宿~蒲原(かんばら)宿」(静岡市清水区)

2018-02-13 05:46:43 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

由比宿交流館で一服し、再び街道歩きスタートです。懸念していた雨が本格的に降ってきました。

    

交流館の先には、紀州藩七里役所跡があります。七里役所は、江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里(584km)に沿って

七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。静岡県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び

五人一組の飛脚を配置した。これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し

御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。

幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所とあるのは、由比駅における紀州家お七里役跡のことである。この裏手に大正末期までお七里衆の長屋がありました。

  

   

蒲原駅まであと1km。ただ、蒲原宿の中心地は、蒲原駅の次のえき「新蒲原駅」です。

明治時代の宮内大臣であった田中光顕伯爵は、間宿の岩淵に古渓荘を建てた後、蒲原に新しい別荘「青山荘」を建てて移り住みこの地で95歳の生涯を閉じました。

2万坪の敷地には、邸宅、庭園の他、菜園、ミカン畑などもありました。 

  

蒲原(かんばら)宿に入ってきました。

蒲原宿は、東海道15番目の宿場。東海道開通当初は、海岸近くにあったようですが、水害により現在地に移りました。当時の町割りや見附、問屋場などの主要な施設の場所が

分かる宿場で古い家並みが残されています。家数509軒、(本陣1、脇本陣3軒、旅籠42軒)、人口2480人でした。

  

蒲原宿西木戸です。もともと宿場は、西木戸より南側の海岸近くにあったそうですが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、現在地に移りました。

この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)が」あり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こりました。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、

槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒しました。然し、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。

当時の竜雲寺の住職が墓地に葬り供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されています。

    

蔀戸(しとみど)のある家志田家」・・・蔀戸は、日光や風雨などを遮る戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せに止め、

全部開放するときは、下のものは、取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は、下して戸締りの役を果たしていました。

志田家は、「ヤマロク」という屋号で味噌や醤油の醸造を営む商家でした。

旧五十嵐歯科医院」は、大正時代に町屋を洋風に改築した建物です。外観は洋風、内観は、和風で擬洋風建築と呼ばれていました。歯科医の五十嵐準氏は、大正3年(1914)に開業、

名医と言われ、元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。

 

   

手造りガラスと総欅の家磯部家」明治42年に建築された。当家は素材の美しさから近世以降寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から1枚板の戸袋に至るまでが欅造りです。

二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手造りガラスです。

  

本陣跡・佐藤家・・・・・・江戸中期までは蒲原には、東本陣多芸家と西本陣平岡家、2軒の本陣がありました。東本陣は、宝暦年間に絶えてしまい、西本陣は江戸末期まで務め、

明治11年京都に移っていきました。建物は、大正時代のもので大名が駕籠をおいたという平石が残っています。

旅籠和泉屋・お休み処・・・・・・天保年間(1830~1844)に建てられ、安政の2度の大地震(1855)の時も倒壊を免れた旅籠です。2階櫛形の手摺や看板掛け、腕木などに当時の

面影を残しています。現在はお休み処と鈴木家の2軒に分かれています。

  

広重の蒲原宿の浮世絵は、「夜の雪」です。広重が蒲原を通ったのは、真夏の頃と言われ、この絵の題材は、新潟の蒲原のイメージとダブらせた、などの説があります。

実際、この蒲原は、温暖な地でめったに雪が降らないそうです。

昭和35年の国際文通週間の記念切手に「夜の雪」が採用されたことを記念し碑が建てられました。

 

  

15:45雨も本降りです。今日はここまでとし、新蒲原駅に向かいました。

  

 


東海道道草ウォーク№31「興津宿~由比宿」(静岡市清水区)

2018-02-12 04:38:33 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/1(木) 昨日と変わって静岡地方今日の天気は、曇り。昼から雨の予想。

今日は、東海道の絶景「薩埵(さった)峠」を歩く予定ですが、富士山が見えるかな?前日ゴールの興津駅へ。

8:45ウォーキング開始。資料では興津駅の裏側に「日本のプラタナスのルーツの木」があるそうで行ってみました。

ここは、柑橘研究所、正式の名前は、「農研機構」。ここのプラタナス並木は、東大の銀杏、北大のポプラと共に日本三大並木と言われています。

明治25年(1902年)日英同盟締結を記念してイギリスから送られたもので、今、日本のプラタナスは、この木がルーツです、子孫です。残念ながら、中に入ることはできませんでした。

尚、ここのかんきつ研究所は、「清見オレンジ」を開発しました。名前も興津の清見灘、清見寺から「清見」と名付けられました。

   

興津一里塚の所に「身延道道標」があります。身延道は、ここから始まり、かつては河内道、塩の道と呼ばれていました。もともとは、駿河と甲斐を結ぶ交易道として発達し、

戦国時代には、駿河侵攻の為、武田信玄が道を整備しました。江戸時代には、身延山参詣延道と呼ばれ、江戸幕府の甲府勤番が設置されています。

 

更に先へ行くと「宗像神社」があります。宗像神社??我が福岡県にもある神社です。昨年世界文化遺産に認定されました。

神社の由緒書を見てみると、筑前(福岡県)から勧請したと書いてます。そういえば、福岡の宗像大社は、沖津宮、中津宮、辺津宮の3宮を祀っています。

福岡では、「沖津宮」と書かれていますが、ここでは「興津宮」になっています。ここ興津の地名のルーツは「興津宮」からです。

 

興津川を渡ります。川沿いに歩くと「興津川川越遺跡」があります。広重は、この興津川川越を浮世絵にしています。

   

これから薩埵峠に向かいます。実は私、2015年下田ウォークの後、この薩埵峠を歩いたことがあります。ここからの富士山は、東海道の中でも絶景の一つです。

薩埵峠は、もと上道、中道、下道がありました。私達は、この上道を歩きます。崖下の波が打ち寄せる下道には、「親知らず子知らず」の伝説があります。

親孝行の息子が奉公先から帰る途中で暗くなって、由比のおばさんに「今日は泊まって明日の朝一番で帰ったほうがいいよ」と言われたのに、早く父親に会いたいからと、暗い峠越えをしたのですが、

追いはぎに襲われて、海に死骸を投げ込まれてしまいました。次の日おばさんが父親のもとに訪ねていくと、庭に孝行息子の着物が干してあります。「昨晩は息子さんと久しぶりに会ってよかったね。」

というと、父親が「まだ帰ってない」と答えます。おばさんは「だって、そこに息子さんの着物が干してあるじゃない」と言われ、すべてを悟った父親は、

息子を追って「さった峠」から身を投げたというお話です

瑞泉寺から上り坂になってきます。お墓の真ん中を通ります。このお墓、見てみると「望月氏」「伏見氏」の名前が多いです。

  

 薩埵峠を登りきりました。天気がいい日には、伊豆半島、田子の浦からの富士山などが見えるのですが、今日は、天気が悪く富士山が顔を出してくれません。

  

薩埵峠には、薄寒桜が咲いていました。メジロも今年初めて見ました。

  

 薩埵峠から

天気が良ければここから富士山が見れるのに・・・・・右の写真は、2015年1月に行った時の写真です。この時は富士山がきれいに見えました。

  

広重の東海道の浮世絵は、薩埵峠から下を見る旅人を描いています。

   

薩埵峠は、日当たりがいいのか、紅梅、水仙の花も咲いていました。

 

薩埵峠では、現在地すべり防止工事が行われています。先に進むとミカンのトンネルが・・・・・・これってかんきつ研究所が開発した「清見オレンジ」でしょうか?

  

峠を下りた所が、間宿(あいのしゅく)「西倉沢」です。宿泊でなく休憩を主としているのが間宿です。西倉沢には、当時10軒ぐらいの茶屋があり、本陣は、川島家で脇本陣の柏屋には、

明治天皇も休憩されました。逗留した静岡県令大迫貞清が気候風土がビワの栽培に適していることに気づき故郷の九州からビワの種を取り寄せ栽培を勧めました。「由比ビワ」と呼ばれています。

望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋」は、間宿倉沢で望嶽亭を営み、約400年ほどの歴史があるといわれています。磯料理、アワビ、サザエのつぼ焼きを名物としていました。

かつては離れから富士の眺望がすばらしく望嶽亭の名が付きました。慶応4年(1868)西郷隆盛との話し合いの為、府中(静岡市)に向かっていた幕臣・山岡鉄舟は、官軍に追われ、

望嶽亭に助けを求めました。主人は鉄舟を土蔵に匿い、隠し階段から船で江尻宿まで逃がし、清水次郎長に身柄を託したといわれています。

その時の土蔵と鉄舟が残したフランス製のピストルが今でも残っているそうです。

  

鞍佐里神社」があります。日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。

依って鞍去(くらさり)の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転訛したともいわれている。

鞍佐里神社は尊が野火にあった薩埵峠(さったとうげ)の雲風(くもかぜ)か、山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。

神社拝殿の蟇股(かえるまた)には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。

  

東海道名主の館「小池邸」。小池邸は、江戸時代代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立、管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、

村政全般を扱い、村役人の中では、最も重要な役割を担っていました。

路上では、地元のミカン「青島みかん」が売っていましたので一つ買いました。ちょうど喉が渇いていたのでおいしくいただきました。

  

由比宿に入ってきました。由比宿は、16番目の小さな宿場で、現在、本陣、問屋場、高札場、一里塚、紀州藩七里役所などがありました。

1843年の資料によると家数160軒、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、人口712人でした。

「せがい造り」と「懸魚(けぎょ)」の家があります。せがい造りとは、柱の上部から腕木を出して支える棚をもつ民家のつくり。懸魚は、屋根の破風板に下がる大きな飾りが特徴のものです。

   

由比宿の脇本陣3軒は、順番に務めていました。文化3年(1806)には、徳田屋、次は羽根ノ屋(現在は更地)寛政5年(1793)に幕府に願い出しています。

天保12年(1841)では「温飩屋」になっています。

  

時刻も12時を廻っています。FBの友達(静岡市在住)から由比のおいしいお店を聞いていましたのでそちらでお昼をいただきます。

店名は、「海の庭」。せっかくですから由比名物の桜えびをいただきます。

   

「正雪紺屋」は、何代にも渡り紺屋を営む老舗で、現在も続いています。慶安4年(1651)の慶安の変(由比正雪の乱)の首謀者、由比正雪は、この家の生まれといわれています。

正雪は、幕府の政策への批判、浪人の救済を掲げて、浪人を集め、幕府転覆を計りましたが、仲間の裏切りに遭い、駿府で自刃しました。

   

由比本陣は、今川家の家臣として桶狭間で戦った由比氏が町に定住し、本陣となりました。1300坪(4300㎡)の広大な敷地は、そのまま残されていましたが、平成3年(1991)由比本陣公園として

整備されました。表門、石垣、珍しいタイプの水飲み場や東海道広重美術館、離れ座敷「御幸亭」などが建築されました。

   

本陣公園の中の広重美術館に入ります。入ると、版画体験ができたので早速挑戦します。

形は、由比の「薩埵峠」と蒲原宿の「夜の雪」。何色もの色を出すため何回も版を押します。出来上がったのが、これ(右の写真)です。なかなか難しいですね。

外では雨が本降りになったようです。

  

                                                                                                                                     つづく

 


東海道道草ウォーク№30「江尻宿~興津宿」(静岡市)

2018-02-10 04:43:06 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/31(水)清水魚市場でマグロをいただいて「東海道歩き」に戻りました。

前回ゴール地「清水駅」を15:00スタート。

約1,5km地点に「ほそいの松原の碑」があります。

慶長9年(1604年)二代将軍・徳川秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸の防備と旅人に安全な旅が出来るように、工事奉行に街道の両側に松の木を植えさせ、

慶長17年(1612年)完成したと伝えられています。元禄16年(1703年)の検地によると、松原全長199間2尺(約360メートル)、松の本数206本だったとされています。

細井の松原は太平洋戦争の時、松根油(航空機燃料)の原料として伐採され、今ある松は平成4年に植えられたものとなります。(ふじのくに文化資源より)

 

ほそいの松原の碑の横には、「無縁の碑」がありました。昭和19年(1944)松根油採取の為伐採中、多量の人骨が出てきました。東海道で倒れた旅人を埋葬したもので

町内の人は、寺に葬り、松原に記念碑を建てました。

  

辻町の信号の所から富士山が見えました。東京まであと175kmです。(まだまだ遠いです)

  

興津の町に入ってきました。このあたり明治の公爵「井上薫」の長者荘があるはずなんですが・・・・・・探しても見つかりません。

近くで工事をしている人に聞くと、現在は、静岡市埋蔵文化センターになっているそうです。

井上馨の長者荘は、昭和20年7月空襲によって焼失しました。

注)井上馨   

1836年、長州藩(現山口県)生まれ。幕末の志士で元老、侯爵。過激な攘夷(じょうい)運動家だったが、63年の英国密航で開国論者へと一変。幕府の第1次長州征伐の際、

武備恭順を主張して藩内の反対勢力に襲われ、瀕死(ひんし)の重傷を負う。薩長同盟締結にも奔走。維新後は鹿鳴館を建設し不平等条約改正に尽力、第一国立銀行設立や三井物産創業など

近代化を進め、伊藤博文内閣で初代外相、内相、蔵相を務めた。96年、横砂地区に別邸「長者荘」を建て地元産業振興や園芸試験場の誘致などにも力を注いだ。

  

井上馨公爵の銅像は、線路を渡った海側にありました。昔は、ここが海岸線だったそうです。井上馨の銅像も戦前、高さ4,85m、重さ6,75tでしたが、昭和17年(1942)供出により取り壊されました。

 

街道に戻ります。戻るとすぐ右側に「坐漁荘」があります。坐漁荘は、明治、大正、昭和の政治家「西園寺公望」公の住宅です。大正9年(1920)公望70歳の時に建てられた建物は、明治村に

移設されましたが、平成16年(2004)に復元しています。「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」という意味で「坐漁荘」と命名しましたが、公望公の助言を求めて多くの政治家が訪れました。

訪れる政治家は、水口屋に宿をとり、そこでの話し合いは、「小閣議」と言われていました。

   

建設当時はこの庭から三保の松原や伊豆などが見渡せたという。

    

東海道本線の線路を渡った所に「清見寺(せいけんじ)」があります。開園時間は16:30まで。然し時間は16:30を過ぎています。

寺の方に話を聞くと寺の中には入れないが、外部の見学だったら17時までだったらOKとのこと。急いで寺の外部を見学しました。

清見寺は、白鳳年間(680年ごろ)警護、往来の監視、治安の維持の関所(清見関)が置かれ、そこにお寺が創建されたといわれています。

清見寺は、室町時代には、日本を代表する寺「全国十刹」として保護されていました。ここには、家康公も手習いに訪れ、朝鮮通信使や琉球使、各大名も訪れました。

境内には、多くの文化財や史跡が残っています。

  

  

高山樗牛假寓 (かぐう)之處」という碑があります。樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し 明治三十三年秋当處の三清館に假寓 して清見寺の鐘声を聞いていたそうです。

皇太子殿下御海水浴跡」は、皇太子(大正天皇)明治22年(1889)2月東海道線が開通し、興津駅が開業したことで同年7月清見寺に行啓されたあと、清見灘で海水浴を楽しまれました。

当時は、ここまで海岸線だったそうです。

   

興津宿に入ってきました。

東海道17番目の興津宿は身延、甲府へ通じる身延道が分岐し交通の要衝でした。本陣は、2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒で人口は、1668人、家数は316軒でした。

   

脇本陣水口屋は、塩や魚を甲斐へ送るため武田信玄の家臣がこの地に移り住んだといわれています。興津宿の脇本陣であり、宿を営み、明治時代西園寺公望公などの政治家や皇族、

財界人、更に海外にも紹介されたことから外国人客も宿泊し、ここからの景観を絶賛しています。残念なことに埋め立てや道路整備によりその警官が失われたことから廃業しています。

現在はギャラリーとして当時のことを紹介しています。

  

 


三保の松原で富士山を見る(静岡市清水区)

2018-02-08 05:00:00 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/31(水)から東海道を歩くために静岡県に行ってきました。

博多発朝一番の新幹線で新神戸へ。新神戸から新幹線ひかりで静岡へ。静岡着10:33.約4時間半かかりました。(羽田まで飛行機で行ってそれから戻る方が早いのかな?)

JR清水駅からバスで三保の松原へ。私、三保の松原は初めての地です。三保の松原というと、「羽衣」ですね。羽衣が三保の松原から舞い上がった姿を連想してみます。

バスは、20分ほどで三保の松原入口バス停へ。バスから降りるともう目の前に、「富士山」です。

  

三保の松原は、気比の松原(福井)、虹ノ松原(佐賀)、と並び日本三大松原の一つです。

  

松原の道には、三保の松原を扱った歌人や、文豪などの碑が建てられていました。

  

ちゃっきり節は、静岡鉄道の娯楽施設「狐ヶ崎ランド(現在は廃園)」をPRするために作られた「民謡」だったのですね。

高山樗牛は、昨年、山形県鶴岡市を旅した時、市役所の近くに碑が建っていました。鶴岡出身です。

  

「羽衣の松」です。

三保に白龍(はくりょう)という名の漁師がいました。今朝も三保の松原で釣をしておりました。見慣れた浜の景色ですが海原に浮かぶ春の富士はとりわけ美しく見えました。

と、どこからともなく、えもいわれぬ良い香りがしてきました。香りに惹かれて行ってみると一本の松に見たこともない美しい衣が掛かって風に揺れていました。

「何てきれいなんだろう。持ち帰って家の宝にしよう。」そういって衣を抱え家に持ち帰ろうとしたその時です。「もし、それは私の着物です。」木の陰に美しい女の人が立っていたのです。

「私は天女です。その衣は羽衣といってあなたがたにはご用のないものです。どうぞ返して下さい。それがないと天に帰れません。」

白龍はこれがかの天の羽衣かととても驚きましたが、天女の悲嘆にくれた姿を見て羽衣を返す気持ちになりました。

「返すかわりに天人の舞を舞って下さい。」天女は喜んで承知しましたが「羽衣がないと舞が舞えません。まず羽衣を返して下さい。」と言うのです。

白龍はふと思いました。羽衣を返せば舞を舞わずに帰ってしまうのではないか。すると天女はきっぱりと答えました。「疑いや偽りは人間の世界のことで天上の世界にはございません。」

この言葉に白龍は自分がすっかり恥ずかしくなりました。羽衣を身にまとうと、天女は優雅に袂を翻し、舞いを舞いはじめました。どこからともなく笛や鼓の音が聞こえよい香りが立ちこめます。

白龍があっけにとられて見とれているうちに天女はふわりふわりと天へと上りだんだん高くなったかと思うとみるみる内に愛鷹山から富士の高嶺に、

霞にまぎれて消えていきました。(静岡シティプロモーションより抜粋)

  

羽衣伝説は、日本全国にあります。昨年行った鳥取県倉吉市では、

ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。

「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。百姓はその羽衣を盗みました。天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。

数年たち、二人の子どももできました。天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、

羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。

二人の子どもは、母を慕って泣きました。母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、

また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。(鳥取県)

このように羽衣伝説も地方によっていろいろ違うようですね。

海岸にやってきました。富士山の見える方向では、護岸工事が行われていました。

 

「羽衣の碑(エレーヌ記念碑)」

能「羽衣」に魅せられ、三保松原に憧れつつこの地を訪れることなく亡くなったフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスを記念し、1952年に建立されました。

このエレーヌの碑(羽衣の碑)には、能面を見つめるエレーヌ夫人のレリーフがはめ込まれ、夫マルセル・ジュグラリス氏が亡き妻に贈った6行の詩が刻まれています。

  

御穂神社

御祭神は、大己貴命(大国主神)、三穂津姫命。

   

このあとバス通りに出て、次の目的地清水次郎長生家に行きました。 

 


東海道道草ウォーク№29「府中宿~江尻宿」(静岡市)

2017-11-27 18:06:10 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

11/15 今回の東海道歩き最終日です。静岡市は江戸時代、駿府という名称で呼ばれていましたが、正式には、駿河府中です。府中という地名はたとえば駿河府中、甲斐府中のように特定の地名を表すと言うよりも、むしろ地方の拠点をあらわす名称です。明治2年、新政府はこのまぎらわしい名称を避けるため、駿府藩に対して府中という地名の変更を命じてきました。藩内で検討した結果、「静、静城、静岡」の3つを考案し、政府に報告しましたが、このうち「静岡」が採用され、6月の家達の藩知事任命の際、初めて使用されました。なお、「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われています。

因みにわが福岡県の地名は、黒田長政が中央区舞鶴に築城した際、黒田家の出身地岡山県瀬戸内市長船福岡から取ったと言われています。8時前にJR静岡駅に到着。駅前には、久能山東照宮の石碑が建っています。久能山東照宮は、家康公を祀り、墓所がある神社です。平成22年(2010)10月に本殿を含む社殿が指定されました。江戸時代、参勤交代で府中宿を通る一行は、華陽院により、久能街道を通って東照宮にて墓参りをしたそうです。

   

駅前には、家康公の銅像も建っています。葵タワーから少し入った所には、「浮月楼(うげつろう)」(慶喜公屋敷跡)があります。

15代将軍慶喜公は、明治元年(1868)水戸から駿府に移り、常磐町の宝台院にしばらく閑居し、翌2年幕府の代官屋敷を手に入れ、そこを住まいとしています。以後20年間は、その屋敷で

自転車、写真撮影、油絵、狩猟など多彩な趣味を楽しみました。浮月楼の庭園は、当時のものが残っています。慶喜公は、明治20年(1887)東海道線の喧騒を避け、市内西草深の新邸に

転居しました。慶喜公転居の後、ここを「浮月楼」と名を変え、静岡の迎賓館として結婚式や料亭に使われています。

   

東海道中膝栗毛の作者「十返舎一九」は、町奉行の同心の子供として静岡市両替町生まれ、現在その生家に記念碑が建っています。物語の弥次さんも静岡市、喜多さんは、隣の江尻生まれです。

    

府中宿は、東海道19番目の宿場。家数3673軒(本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒)人口14071人と大きな宿場でした。

伝馬町には、上伝馬本陣脇本陣、下伝馬本陣、脇本陣(小倉本陣、平尾脇本陣)がありました。

その伝馬町には、西郷・山岡会見之史跡があります。慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と

徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇を

はじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、

江戸城の無血開城が実現した。

       

華陽院・・・・・華陽院の始まりは、永正9年(1512)、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で、知源院(ちげんいん)と呼ばれていました。慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、

源応尼(げんおうに:家康の祖母 実名於富)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。また、宗派も真言宗から浄土宗に改宗しました。華陽院は源応尼の菩提寺です。

境内には源応尼の墓と家康の五女・市姫の墓が並び、近くには側室のお久の方の墓があります。主な寺宝として、家康が使った団扇(うちわ)や市姫が使ったひな屏風(びょうぶ)などがあります

  

東海道新幹線、東海道線のガードを潜ると、曲金観音堂があります。ここ曲金は、平安~鎌倉時代の武将梶原景時一族と地元武士団の合戦の古戦場。

戦死者供養のため平成元年に曲金観音(十一面観音)を建立。

  

街道は、静鉄柚木駅に向かいます。ふと、正面を見ると、「富士山」が・・・・・・この街道歩きで初めて富士山を見ることができました。ちょっと薄い雲がかかっていましたが、もう感激です。  

長沼一里塚を過ぎ、国道1号線に出ます。この先の長沼大橋が富士山のビュースポットということでまた寄り道します。今日は富士山の下の方に雲がかかってはっきりとは見えませんが、それでも富士山は素晴らしいです。これから先どんな富士山と会えるか、楽しみです。

静鉄古庄駅の所に「兎餅跡地」の看板があります。静鉄古庄(ふるしょう)駅のあたりでは、江戸時代、安倍川もち追分羊かんと並ぶ駿河三大名物「うさぎ餅」が売られていました。 薄皮の餅で小豆あんを包み、満月の焼印を押した餅菓子です。 この餅菓子を売っていた茶店の店先で飼っていた兔が、名前の由来になっているとのこと。 文化文政時代の狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)が詠んだ「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」によって評判となり、 駿河の名物となったそうです。 (静岡ご当地グルメリストより)

   

古庄のスシローの所から東海道本線に向かって歩きます。このあたりに東海道本線を潜る地下道があるはずなんですが、なかなか見つかりません。近くで工事をしている人に聞いて

ようやくわかりました。渡ると右側に「旧東海道記念碑」が建てられていました。昭和37年(1964) 国鉄操車場 の建設により 栗原の西側が分断され 更に静清土地区画整理事業による

新らしいまちづくりが行われたことから 栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました その昔を偲び なおかつ旧東海道と 共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたい

との願いを込めて この記念碑を建設することにいたしました

  

地下道を過ぎしばらく歩くと、「草薙総合運動場」があります。まだ日本のプロ野球が始まる前の昭和9年(1934)日米野球大会が開催され、日本チームエース沢村栄治がベーブ・ルースを

三振に打ち取り、アメリカ大リーグ選抜を相手に8回9奪三振無失点、失点は最終回ルー・ゲーリックの本塁打による1失点と球史に残る快投を演じました。  

草薙駅前に「草薙神社大鳥居」があります。草薙神社は、蝦夷平定の為、東国へ向かう日本武尊(にほんたけるのみこと)がこの地で起こった逆賊に原野で火を放たれ、焼き殺されそうになりました。

日本武尊は、伊勢神宮で倭姫命(やまとひめのみこと)より戴いた天叢雲剣を抜いて、鎌で打ち払うように剣を振り、草を薙ぎ払って難を切り抜けたという伝説があります。日本武尊を焼き殺そうとした場所を草薙と呼ぶようになり、天叢雲剣はのちに「草薙剣」と名前を変えています。神社は、この大鳥居から1,5km、先を急ぐためパスしました。

静岡銀行草薙支店の所に「草薙一里塚」がありました。 江戸まで43里(約170km)。ここで千葉から来た東海道ウォーカーの方5~6名の方と遭遇。写真を撮らせていただきました。

   

一里塚の信号を斜め左に行くと、また正面に富士山が見えてきました。左側には、清水有度(うど)第一小学校があります。ここに通う小学生は、毎日富士山が正面から見られるのですね。   

上原子安観音堂・・・・永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。

次いで天正十年二月(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。

  

谷津沢川水路橋は、鉄道線路の上を川が流れ、その上に歩道があるという珍しい橋です。

   

遠州都田の吉兵衛碑・・・・・文久元年(1861年)5月、清水次郎長は子分の森の石松が吉兵衛・梅吉兄弟にだまし討ちに遭い斬殺された恨みを晴らすため、遠州都田(現在の浜松市北区都田)の吉兵衛(通称、都鳥)をここで討ちました。吉兵衛の菩提を弔う人も稀で、これを憐み里人が供養塔を最後の地に建立し、侠客の霊を慰さんだとされています。  

元追分の案内板の近くに元禄8年(1695)から創業の「追分羊かん本舗」があります。駿河三大名物の一つに数えられた「追分羊羹」です。さっそくお店の中に入りました。この羊羹は、竹皮で蒸しあげた羊羹です。お土産用としてこの羊羹を買いました。またちょっと小腹がすいたので大福餅とみたらし団子を戴きました。追分羊羹の横には、「志みづ道道標」がありました。  

    

江尻宿に入りました。江尻宿は、家数あ1340軒(本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒)人口6498人。

慶長12年(1607)巴川に橋が架けられました。その渡り始めまさにその時、川の中から一人の童子が現れ、橋脚を登り、入江方面へ消え去りました。人々はこの童子を川に住む河童だと語り、この橋の名前も江尻橋から稚児橋に変えたということです。

  

魚町稲荷神社は、またの名を「サッカー神社」と呼ばれています。境内には、大きなサッカーボールの石碑が台座しています。清水は少年サッカー発祥の地、夏には全国大会が開かれます。

  

   

江尻宿の中心部にやってきました。地図では、このあたりに本陣、脇本陣があるようになっていますが、案内板もなくわかりませんでした。

江浄寺・・・室町時代に鎌倉光明寺第九世観誉祐崇上人が京都に上がる途中、勝沢に勝沢山江浄寺として創建したのが起源です。家康公の第一子である岡崎三郎信康公の遺髪の御廟所があります。   

時間も1時を廻りました。今日は、3時過ぎの新幹線で帰る予定ですので今回はここまでとします。帰りに通った清水駅前商店街は定休日なのか、シャッターが閉まっている店が多かったです。