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鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

夢生、高いレベルに進むよりも、仲間と一緒に戦うことの大切さを息子に知ってほしかった父の思い

2015年11月16日 | Weblog
異色の経歴を持つ金崎夢生。サッカーとフットサルを並行していたジュニア時代
先日行われたW杯アジア2次予選対シンガポール戦、豪快なボレーシュートで代表初ゴールを記録した金崎夢生。今後日本代表としてさらなる活躍が期待される金崎だが、実は小学生年代ではフットサルとサッカーを並行してプレーしていた経歴を持っている。サッカーとフットサルを並行することで金崎は何を磨き、何を学んだのだろうか。(『ジュニアサッカーを応援しよう!Vol.20』より一部転載)

2015年11月16日(Mon)18時16分配信
text by 元川悦子 photo Getty Images


当時では珍しかったフットサル専門クラブの門を叩く


金崎夢生【写真:Getty Images】

 時代が昭和から平成に移ったばかりの89年2月16日。三重県安濃町(現津市)の金崎家に5人目の子どもが誕生した。女の子4人をもつ両親にとっては待望の長男誕生だった。

 夢生という一風変わった名前がつけられたのは、母・美希子さんの歴史好きがきっかけだ。今から1万2000万年前に太平洋にあったとされる伝説の大陸「ムー大陸」の響きにひかれたことから、漢字を当てて「夢生」と名づけた。「文字通り、夢に生きる子になりましたね」と父・益己さんは笑う。

 幼少期の夢生少年はキャッチボール、ドッジボール、縄跳びと運動なら何でもやる子だった。同じ団地に同年代の子どもがいなかったため、歳の近い姉に遊んでもらうことが多かったようだ。両親もすでに4人を育てた経験があって子育てに慣れており、長男にも過度の期待をかけず、「元気に伸び伸びと育ってくれればいい」とだけ考えていたという。

 ボールを蹴るようになったのは、安濃小2年のとき。たまたま益己さんが、自宅に入っていた津ラピドフットサルクラブのチラシを見つけたのだ。職場のチームに入るほどのサッカー好きだった父は「これ、どう?」と息子を誘った。夢生少年も「よくわかんないけど行ってみる」と快諾し、2人で20~30分ほど離れた津スポーツセンターへ車を走らせた。

 全日本少年フットサル大会(バーモントカップ)の常連である津ラピドFCは94年創立。当時、フットサル専門クラブというのは珍しかった。夢生少年が入る1年前には「日の丸をつける選手を育てよう」と強化クラスもスタートし、彼は入会半年後にテストを受けて強化クラスに入り、より高いレベルでプレーするようになった。

「ボール蹴っているときの夢生はニコニコしててね、顔が全然違うんですわ。だけど、点をとられるとメチャメチャ悔しそうな顔をする。ものすごく負けず嫌いな子だとよくわかりました」と監督の澤田一雄さんは話す。強化クラスに入ったばかりの頃の微笑ましいエピソードがある。

 澤田監督が両足裏を交互に使いながらボールタッチするスワップドリブルをさせたところ、彼ひとりだけできなかった。

「お前ひとりだけ、できないやないか!」

 怒鳴られた夢生少年は悔し涙を流しながら、これでもかこれでもかと食らいついた。普通の小学2年ならすぐ諦めてしまうもの。しかし、この子は違った。1時間以上もひとりで黙々とトライしつづけた。そんな姿を見ながら澤田監督は光るものを感じたという。

小学3年からサッカーとフットサルを並行

 最初は火・木・金曜日のフットサルだけをやっていたが、小学3年からは同グループ内にある「セントロ津南」というサッカーチームでも活動しはじめた。ふたつの競技を掛けもちし、多忙な日々を送るようになる。

「セントロは自分が入った頃、できたばかりだったんで、3年生の自分が6年生の大会に出るような感じでした。だから、いつもボロ負け。全然ダメでした」

 くじけそうになるたびに、支えてくれたのが父だった。益己さんは「焦らず、ゆっくりやれ」と息子に言いつづけた。

「ひとつのゲームに勝った負けたはあるけど、今の時期は技術を身につけるのが一番大事なんだよ」と父は常にやさしく諭したのだ。

 プロになった現在まで続く、ビデオを見ながらの意見交換もこの頃、始まった。

「『今日、どうだった?』と夢生にはよく感想を聞きました。それで本人が落ちこんでいたりすると『周りはよくないと言ってるかもしれないけど、お父さんはそうは思わないぞ』と励ましたり。サッカーのプレーは試合の局面局面だけで判断できないことも多いですよね。試合全体、あるいは、その子の将来を考えながら良し悪しを判断すべきだと思うんです。そういう大きな視点をもって、夢生にはアドバイスをしたつもりです」

 誠心誠意、サポートしてくれる父の存在に後押しされ、夢生少年は必死にボールを蹴った。学校の休み時間もサッカーに費やすほどの熱の入れようだった。

「(サッカーとフットサル)ふたつの競技をやったことでボールに触れる時間がすごく長かった。それがよかったと思うんです。フットサルの足の裏を使ったプレーは普通のサッカーにはないし、そういうのを学べたのも大きかった」と本人は言う。

高いレベルに進むよりも、仲間と一緒に戦うことの大切さを息子に知ってほしかった父の思い


小学5年時にバーモントカップへ出場して3位。金崎が大活躍していたことは、後にサッカー界の話題となった【写真:Getty Images】

 フットサルの方では、小学5年時にバーモントカップへ出場して3位。6年生中心のチームで5年生の金崎が大活躍していたことは、後にサッカー界の話題となった。

「夢生がフットサルでレギュラーになったのは5年になってから。ひとつ上はうまい子が揃っていたけど、彼らに臆することなく向かっていきましたね。低学年の頃から常にワンランク上の環境で戦ってきた影響も大きかったと思います。今の夢生はファーストタッチで敵の近いところにボールを置いて、独特の仕かけをしますけど、それもフットサル仕込み。どう飛びこんでいけばいいかと相手を迷わせるプレーは、少年時代に磨いた一番の武器でしょう」(澤田監督)

 フットサルでそれだけ名を馳せたのだから、中学生になってもクラブに残る選択肢はあった。U-12ナショナルトレセンにも選ばれており、他のクラブからも注目されていた。しかし、金崎はそういうチームを選ばず、あえて地元の東観中学校のサッカー部に入ってプレーしようと決意する。

「地元の普通のクラブに入るか、津ラピドの中学生チームに行くか、どうするか迷いましたけど、結局は部活動をやろうかと。学校生活を楽しんでほしいという親の思いも大きかったですね。僕は学校終わってすぐに塾へ通う生活も嫌いだったし」

 本人はこう語るが、父・益己さんは中学で仲間と一緒に戦うことの大切さを息子に知ってもらいたかったのだと、その言葉に隠された意味を教えてくれた。

「夢生はトレセンに入ってましたし、高いレベルのサッカーを学ぶ機会はたくさんあると思いました。でも自分たちで何とかしなければいけないことを学ぶチャンスはそうそうない。中学の部活動の環境が厳しいことはわかっていましたし、それでも自発的に何かをやるという経験をしてほしかったんです」

【了】


金崎夢生の小中学校時代を綴る元川女史である。
夢生がどのようにサッカーとフットサルに接し、成長してきたのかがよく伝わってくる。
やはり、父の影響は大きかった模様。
ナビスコ杯優勝で「パパ!」と叫んだことも頷ける。
こうして育まれた夢生が、国内、海外を経て鹿島でプレイすることには運命を感じさせる。
これからも長く臙脂のユニフォームに袖を通し続けて欲しい。
期待しておる。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2015-11-16 21:04:00
来年は金崎に「パパー!」を3回言ってもらいましょう!
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Unknown (Unknown)
2015-11-17 08:36:25
きっとのびのび育った子供だったんだろうなとは思っていたけれど、父親の良い影響があったのですね。
「パパー」も納得。

来年はヒーローインタビュー毎に、
「パパー! 勝ったよー。」と言ってもらおう。
30回ぐらいかな?
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