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Kennyの城址歩き:虎御前山

2011-09-23 16:44:00 | 小谷城

県と長浜市の学芸員さんの
  ご案内で城址を歩いてきました
  =信長の陣城があった虎御前山です=

          この日記の掲載期間:9月30日ー10月6日



虎御前山は綺麗に整備されて!
この辺が信長の陣地だろう、防御の堀切もくっきり、散策路は
歩き易くなどなど、前回(5年位になろうか)の事がありましので
見違えるような城址に先ず驚きました。お聞きしたところ、地元
の皆さんが2年掛かりで整備されたそうです。大きな山のこと、
御苦労に感謝しました。

 
   雑木が整理されたお陰で石碑や堀切などもしっかり伺えます

虎姫(滋賀県)の虎御前山に城址が
姉川の合戦で信長軍に敗れた浅井軍は小谷城(小谷山)に引き
揚げますが、当然の如く信長軍の追撃に合います。包囲網を狭
めて勢いに乗る信長は小谷城と直線距離で500mの虎御前山
に築いた陣城で攻撃の機会を伺いますが結果的には木下秀吉
に監視を任せて持久戦に備えます。

約3年後の天正元年(1573)8月に
信長軍の総攻撃に遭い、
浅井軍(浅井家)は滅亡して小谷城も落城します。今年のNHK
大河ドラマの最初の部分に長政とお市が黒金門で戦国の世の
悲壮な別れを迎えるシーンがありましたが印象的でした。


    虎御前山から見た小谷山 最高峰が大嶽(おおづく)
           まさにこれだけ真近に見えます

虎御前山の陣を固めた武将
多賀貞能(さだよし)、蜂屋頼隆(よりたか)、丹羽長秀、滝川一益
(かずます)、堀 秀政、織田信長、佐久間盛政、木下秀吉(当時は
木下姓)、柴田勝家とされています。上の順番に書いたのはこの
虎御前山に構えた陣地跡の並びの通りです。ただすべての解説書、
現地の看板では「伝」と書かれています。伝、つまり伝承で断言は
されていません。

  
 説明には全て伝の文字     学芸員さんの解説を聞く参加者

浅井氏敗戦は変心、裏切りが背景に
浅井家が信長軍に滅ぼされた。でも素人の考えながらよくぞこれ
だけ持久戦に持ち込んだと思ってしまいます。それは難攻不落
の小谷城によるところが大きいと云われていますが結局は終焉
の時を迎えます。

浅井軍敗戦のきっかけ
やはり変心、裏切りにあったと今までに何度も開催された小谷城
の見学会やその他の関連するセミナーでの共通するお話です。
事の起こりは浅井勢の浅見対馬守が信長に内通し織田軍を
小谷城防御の焼尾砦に引き入れたことです。これを見た信長は
朝倉勢が守る大嶽に、更には小谷城に一気に攻め入りました。

今回のお話(もうひとつの要因)
浅井軍は支城との連携、結束が不備、調略に負けたこと。一方
信長は雨中大嶽奪取、勝敗を決した京極丸の夜討ちなど、奇襲
戦法
を多用したことも大きいとのお話です

 
      
見学前の講義           JR河毛駅に集合の参加者

虎御前山??
JR虎姫駅から歩いて15分の230mで低い山です。この山の元の
名は長尾山(ながおやま)と云うそうで手元の案内書では山の長さ
が約2kmの独立峰。我々は見学しながら1時間ほどで反対側の
登山口に下りました。

虎御前山の名前の由来
長尾山の入り口に井筒と呼ばれる泉がありその池の傍に虎御前
という美しいお姫様が住んでいたそうです。その伝説の虎御前に
ちなみいつの頃からか、
虎御前山と呼ばれるようになったとの事
です。また地名の「虎姫」もこの伝説を親しんで名付けられました。
いずれにしても440年ほど前にタイムスリップしての見学会でした。

 
                沿道に咲く秋のお花  

ご参考までに
虎御前山に陣どった信長軍と小谷山に籠る浅井軍との戦いの経緯
は2011年4月19日公開の
Kennyの城址あるき:陣屋の馬場」
をご覧いただければ幸いです。申し訳けないのですがその日記は
当ブログの22回分遡っていただく事をお願いしなければなりません。

お断り
内容の一部は当日配布の資料を参考にしております。この見学会
の感想日記の掲載も当連続講座の初めに主催者の了解を戴いて
おります。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

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4 コメント

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虎御前山ルートの整備にはびっくり (茲愉有人)
2011-09-30 22:58:54
確かにルートはかなり整備がされていましたね。お陰で、解りやすくてよかったです。関係者の方々に感謝です!

さて、人の名前の読み方って、むずかしいですね。
多賀貞能。現地の説明銘板には「さだよし」とルビがふられていました。1枚写真を撮っていましたので、確認できます。一方、当日いただいたブックレット『小谷城跡をめぐる城々』には、「さだたか」と括弧書きを入れて、読ませています。後記のパンフレットは「さだよし」としています。二通りの読み方があったということでしょうかねえ・・・・

同様に、虎御前山の最南端の八相山も、当日の講義の折にいただいたパンフレット「歴史 虎御前山には二つの戦いがあった!」には、「はっそうざん」とルビがふられていますが、『信長の親衛隊』(谷口克広・中公新書)では、「やあいやま」(p77)とルビをふっています。これまた、ややこしい・・・・

もう一つ、多賀貞能関連で、不思議に思うことがあります。
『信長公記』の巻六、元亀四年八月十二日の条は、
「八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ候。」
という一文から始まっています。(これが、本文にご記載の浅見による信長への内通を記述した証拠文でしょう。)
この次の段落は、朝倉左京大夫退散の追討にあたり、先手衆の名前が列挙されているのですが、この中に出てくる武将名は「多賀新左衛門」なのです。
上掲中公新書には、この名前を多賀常則と読み替えています。一方、『織田信長総合辞典』(岡田正人編・雄山閣)では、多賀常則の項に、「生年不詳、天正十五年(1587)四月二十日没。新左衛門尉。近江浅井氏旧臣。浅井氏滅亡のかなり以前に信長に属した。」と記し、この後の説明文中にも、「貞能」と称したとは一切記述がありません。
虎御前山の一角に陣を置くように命じられるほどなら、それなりの立場だったと思うのですが、この辞典にも上記新書にも「多賀貞能」は載っていません。
このあたり歴史資料のおもしろさなのかもしれません。

小谷城に兵を入れる直接の内通者は浅見対馬であることは間違いないようですが、「八月八日、江北阿閉淡路守、御身方の色を立て、即ち、夜中、信長御馬を出され、其の夜、御敵城つきがせの城、あけのき候なり。」この阿閉謀反が要因としては大きいでしょうね。
『考証織田信長事典』(西ケ谷恭弘・東京堂出版)には、「山田山に陣を構えた信長は、大嶽城の北西尾根、焼尾の出城を守る浅見対馬に阿閉淡路を使者に立て、寝返らせたのである」と記しています。
『信長公記』には、「八月十日、大づくの北、山田山に悉く陣どらせ、越前への通路御取切り候。・・・・近年、浅井下野守、大づくの下、やけをと云ふ所こしらへ、浅見対馬を入れ置き候。是れ又、阿閉淡路と同心に御身方の色を立て、御忠節とし、八月十二日・・・・」と記されています。

このあたり、小説家なら、いろいろと武将の思惑、心理描写を交えて、小谷城落城の経緯を描いていくことができるでしょうね。

この日に、この秋初めて、彼岸花(曼珠沙華)の実物を見ました。



山本山城、他 (Kenny)
2011-10-01 00:08:08
ご指摘の通りと思います。信長は小谷城の北側を突く(攻める)ことに困難を極めていたところ、阿閉淡路守の接近を機に浅井氏の運命を決定づけることになったようです。そして難攻不落といえども一つ口が開けば(焼尾砦)実際どうだったのかは別としてもあっけないと思える幕切れになります。親子が分断されるというあの深い空堀はこの際は裏目になりましたね。過去2年の門前の小僧につきこれからのセミナーに期待しております。明日は早立ちのまた山です。取り急ぎなんの資料も見ずのお礼コメントで失礼します。
由来 (ポエム)
2011-10-05 18:10:55
虎姫の地名の由来、綺麗なお姫様のお話など、歴史に疎い私にも興味が沸きました。

秋の花はやはり彼岸花ですね。
こんばんは (kenny)
2011-10-05 22:03:16
こんな事をしながら少しずつ新しい事を覚えています。過去の不勉強の反省でもあります。しかし、友人のほとんどが難しくて・・、とか興味ないわー(長年の山とかお酒仲間の特におばさま達には)、とこの城物の日記は不評です(笑)。でもお花はいいですね。ポエムさんのブログではお花の写真が拡大しますね、素晴らしい!また私も挑戦します。コメントありがとうございます。

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