発掘調査報告・現地見学に参加して
=我が家、もしかしたら遺跡の上にある?=
日記そのー1
(この日記の掲載期間:3月2日ー3月8日)
過日野洲市教育委員会文化財保護課主催による標題の会が
開催されました。今日はその会に参加しての日記(感想文)です。
発掘される遺跡のここがわからない?
市内を歩いていると地面を掘り返しているのをよく見かけます。時には
その発掘で見つかる遺跡の歴史的価値が高くて記者発表ということも
あります。それらの発掘はいったいどんな背景で行われているのか?
なんで大抵遺跡にはあれだけ沢山の穴(下の写真)があるのか等々、
この際ちょっと勉強させて頂こうと標題の報告、見学会に参加しました。
民家の地下は遺跡!
住居跡が出てきた発掘調査の現場
この土地(上の写真)は埋め戻されて既に民家が完成し入居されて
いる。後方に見える住宅も地下は同様に住居跡が有ったのだろうか。
竪穴式住宅は室町時代でも
縄文、弥生、古墳時代そして室町時代に至っても竪穴式住宅が主だ
ったそうです。土地に穴を掘って柱を立てると云うやり方です。今の
ように礎石の上に柱を置くという建築方式はもっと後になってからの
ことだそうです。発掘現場のたくさんの穴はその場所で建物が何度
も建て替えられたことによるものだとも今回知りました。
個人の家が遺跡の上にあっても不思議ではない
遺跡が出てくるのは全てが特別な事ではないんやそうです。つまり
そこに縄文時代や弥生時代、その後もと人が住んでいたことの証とい
うわけです。仮に私の家が遺跡の上に有るとしたら、この場所にその
時代の人が住んでいてその後建物がなくなり長い年月で土砂が堆積し
て隠れていただけ、ということです。その遺跡の住民と私はたまたま同
じ場所に住んだという偶然です。そうやったんか! ちょっとでも遺跡
が出たら全て一大事かと思っていました。
最近野洲市でまた一つ円墳を発掘
市立野洲図書館横の発掘現場、見学会(野洲市)
発掘調査で古墳などの場合もあります
発掘で出土するのは住宅跡だけとは限りません。今、市立野洲図書館
のJR線寄りが発掘されています(上の写真)。どうやらそこは5世紀前
半の古墳があったのではと最近分かったようです。
見学会当日、出土品を見入る見学者
お饅頭の形じゃないの? 発掘された古墳
古墳って円墳ならお饅頭の形でしょう、なんで平たい姿で土の中から
出て来るの?です。理由が分かりましたし、ちゃんと名前までついて
います。「削平された古墳」 と当日配布の資料の記載されています。
明治以降の開発によって基底部を高さ20~30cmほど残して上を
削ってしまったようです(とレジュメにあります)。その土は上質だそう
で(豪族のお墓です)畑や堤などに有効利用されました。
明治時代の古地図にもその場所が古墳であったことが示されている
そうで、それが今回の発掘で証明されたわけです。
上の写真で円形に見える部分でその30cm程高くなって所が古墳の
周囲です。 発掘調査の時でも容易にわかるそうです。
近くの甲山古墳の内部にある石棺 同、大塚山古墳
どうして野洲には古墳が沢山あるの?
先ず野洲市に特別古墳が多い訳でもないらしいです。どの地域にも豪族
がその地を取り仕切っており古代近江でも豪族は勢力を競っていました。
農耕が生活の基盤ゆえ水の豊富な川に近い土地に多くの人が住みます。
古墳時代の当時この地の首長(現在の野洲、守山市はやすうじ)が贅を
尽くし古墳を築いたのだと思います。銅鐸の時代(弥生時代)から古墳
時代に移行して首長は自らの権威を古墳を築くことで示したことにより
野洲にも本当にたくさんの(100基以上?)古墳があります。(以上は私
の感想)。なお、今回の発見で五世紀中も一帯を支配した豪族の大きな
衰退がなかったことが裏付けられたと解説の研究員さんのお話でした。
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まだまだ面白いお話がありました。長くなりますので次週の
「そのー2」で日記(感想文)の続きを書きます。
お断り:
*このブログはKenny(野洲市在住)の私的な日記です。
*ここに記載の文言はお話下さったの先生方の内容を私の
理解、言葉で書き綴りました。聞き違いによる間違いなども
あると思いますが、素人の日記とご容赦ください。
*今回の調査報告、現地見学会では今日書いた部分でも
学術的にもっと内容の濃いお話でしたがここでは私の特
に知りたい事項のみ記載しました。
*TOPの住居跡の一枚の写真は野洲市文化財保護課の資
料から拝借しました。
*この日記(感想文)の掲載は主催者のご了解を頂いており
ます。
今日もご覧くださいましてありがとうございました。