無知の知

ほたるぶくろの日記

洗濯の話し

2014-06-08 16:54:59 | 日記

梅雨になりました。この辺りもこのところすごい雨でした。今日は雨こそ降っていませんが、どんよりとした梅雨空です。ひんやりとした空気でほっとしていますが。

ところで、梅雨と言えば洗濯物の悩み。汚れが落ちていないと濡れた洗濯物に細菌が増殖して大変なことになります。梅雨から夏場にかけての洗濯についてはいろいろ今まで苦労しました。そうしてたどり着いた現在の私のお洗濯に関する話しなどを書いてみます。

1)洗濯物についている汚れとはなにか?

まず、ターゲットの汚れの成分を知っておかないと埒があきません。大体はつぎのものです。

汗、皮脂、環境から来る汚れ(泥、食べ物、インク、など)。この中で汗と皮脂が主なものです。それをどうやってきちんと洗浄しきるかが洗濯の目的。

汗/尿素、塩化ナトリウムその他の塩類(いわゆるミネラル)、タンパク質

皮脂/皮膚の破片(ケラチンが主成分)、微生物(乳酸菌など皮膚に付着している細菌)、脂肪(グリセリン脂肪酸エステル(いわゆる動物性脂肪))

これらの汚れを繊維からどうやって落とすのでしょうか。水のみで落ちるものもあります。しかし、それだけではうまく行かないことは皆さんご存知のとおりです。

2)洗濯用洗剤とはなにか?

洗剤は繊維についた汚れを分解し、水に溶けやすくすることで汚れを落ちやすくするもの。

主成分は界面活性剤(石けんもその一部)。これは主に脂肪分に作用します。ミセルをつくり水に溶かして汚れを落として行きます。

汗の成分やタンパク成分は水溶性ですから、水のみである程度は流れ去ります。しかし、それでは不十分。そこで酵素が重要になってきます。タンパク質を分解する酵素が添加されている洗剤で1時間ほどつけ置きすると、皮脂の汚れは格段にきれいになります。 

3)それから、やはり水。

洗濯にはある程度の量の水は必要です。あまりに少量の水では汗の成分が落ちていないことが多いのです。とくに夏場、びっしょりと汗で濡れた衣類の洗濯をする際には、2度洗いをします。尿素などの成分がよく落ちていませんと、それだけで強烈な匂いを発することになります。

以前の洗濯機は大量の水を使いました。今の洗濯機の前のものを購入したとき、あまり水を使わないエコな洗濯機だ、ということで期待したのですが、その結果は惨憺たるものでした。汚れが落ちていなかったのです。特に夏場の汚れに関しては酷いものでした。仕方ないので、水だけで一度手洗いし、それから洗濯機にかけるということになりました。しかも洗濯機の中にも汚れが溜まり、洗濯機の洗浄も大分やりました。

現在使用しているものは以前よりは水を使うものですが、格段に洗濯の効率はよいです。

 

ところで、洗濯についてドイツ人の知り合いの方から面白い話しを聞きました。彼女は御年80歳ですが、彼女のお母様は冬物の毛織物や毛糸のセーターなどを洗う際、まず肉屋へ行って牛の胆のうを購入(あるいはもらった?)。大鍋にお湯をつくり、胆汁を入れ、その中で毛織物やセータをつけ置き、洗濯したそうです。胆汁は界面活性剤とタンパク分解酵素や脂肪分解酵素そのものです。それをそのまま使って洗濯したとは何とあっぱれな。。。ドイツ人女性の知恵、おそるべし。

さらに現在でもGall Seife(胆汁石けん)なるものが売られているのです。それは現代ではしみ抜き石けんとして使われているそうですが、実際すごくよくおちるらしい。日本ではどうも手に入らないらしいので、今度彼女に頼んでみようと思っています。

これから本格的な微生物とのお付き合いが始まります。殲滅してやる~(滅菌!滅菌!)と力まずに、上手につきあって、生物界の一員らしい生活をしたいと思っています。


感覚の発達

2014-06-01 12:32:44 | 日記

人間の(私の?)脳の発達は遅いもんだな、と思うことがあります。年を取って経験を重ねると分かることも勿論あります。しかしそういうのとは違って、もっと感覚的なものなど、子どものときや若いときにはちっとも感じなかったことが最近はよくわかることがあって、ちょっとびっくりするのです。 

例えば、こどものころ家族で出かけて夜遅めに帰宅し、もうお風呂は入らないで寝ましょう。というとき、父が濡れタオルで顔やら首やらを拭いてくれて「ほーらさっぱりしただろう?気持ちいいだろう?」なんて言っていたのですが、口では「うん」などと言っていましたが、実のところ全然そうではなくて、眠いところに突然濡れタオルで顔やら首やらを拭かれたので、眠りを邪魔された不快の方が大きかったことを憶えています。 

肌がべたついて気持ち悪い、という感覚が結構大人になるまでわからなかった私は、変なヤツだと思います。皮膚感覚が鈍かったのでしょう。かといって、無感覚でもなく、虫が這っているのなどすぐに分かったのですが。痒かったり、痛かったりは勿論わかりましたから、別にセンサーが悪かったわけではなかったかと。

 

もうひとつ鈍かったのは言葉の感覚。高校のときに国語の教師から「あんたはねー言葉に対する感覚が粗いのよー」と言われ、何のことを言われているのかさっぱり分かりませんでした。教科としての国語の正誤、という問題ではなくて、文学的なといいますか、いわゆる言葉に関する微妙な感性のことを言われたワケですが、それはもう「ない」ものは「ない」のでどうしようもない。あまり気に病むことはなかったのですが、そのことはずっと憶えていました。

やっと最近、その意味が分かって来たように思います。言葉とは記号ではなく、概念だけではなく、それ以上のものをまとっていること。それらのすべてを感覚だけで操作すること。人間の醍醐味ですね。一番難しいことです。すごいことだと理解しています。まさに情緒がないと使いこなせません。

言葉に関する教育をもっと意識的にするべきでしょう。

「ごきげんよう」という言葉も、ある種の言霊のように思います。

言葉は始まりであり、終わりである。