秋萩の 歌剥片と 瓶の宅 (あきはぎの うたはくへんと みかのいへ
(この山背国分寺の塔跡から南西方向、木津川の向こうに遺跡はある)
馬場南遺跡のある現在の岡田国神社の裏山はひょっとしたら当時の最有力貴族橘諸兄の邸宅(別荘)のあったところではないかという説もあるらしい。その遺跡から「「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11字が墨で書かれた木簡が出土した。万葉集巻10に収録されている作者不明の歌「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも」の冒頭部分とみられている。
あるいはこの邸宅で諸兄や家持が歌を歌い、『萬葉集』の編纂に従事していたと思うととてもワクワクするのだが・・・。
(かつて紫香楽宮とされたこの地は今は甲賀寺ではないかと考えられている。11月2日苅谷俊介さんご一行を案内いたおりに)
昨日、一昨日と二日間続けて今年の木簡学会だった。
今年の大会報告は昨年に続き会長である栄原永遠男さんの研究テーマに沿った「歌木簡の総合的研究」であった。
紫香楽宮の「安積山木簡」の再発見を契機に俄に高まった「万葉木簡」の研究、新たな事例も相次いで見付かりその意義についての熱い研究会であった。特に国文学者のシビアーな研究報告とその内容に関する質疑は久しぶりに緊張感溢れるものであった。ただ少し気になったのは、紫香楽宮や馬場南遺跡で発見された和歌と推定される木簡がこれまでの研究で『萬葉集』の第一期編さん時とされた8世紀中頃に限りなく近い資料であるにもかかわらず、国文の研究者が300年後に写本されて残る資料を基準にして分析する姿であった。
私なら、後の『萬葉集』に載せられている和歌に限りなく近い歌木簡があれば、そちらこそ、伝わらなかった原『萬葉集』に載せられたものに限りなく近い和歌(和歌の表記方法)だと考えるのだが、どうも彼らは違うようだ。次々と地下から資料の出てくる考古学では、仮説は次々と変遷していく。ところが、ほとんど新たな資料の出てこない上代文学の世界では、定説化した仮説を変えるなんてことは研究者のプライドが許さないらしい。そうかなーーー?!
安積山 謡うは妹子 宮赤し (あさかやま うたふはいもこ みやあかし)
そんな国文学者の「解釈」を許すのも、考古学者の責任のような気がする。今回も、木簡を出土した遺跡の調査担当者の報告は少し寂しいものがあったからだ。
紫香楽宮跡や祢布ヶ森遺跡の報告はとても判りやすく、出土木簡との関係についても積極的に理解しようとの意欲も感じられ、参加者は十分に理解することができたに違いない。しかしそれ以外については少々首をかしげたくなるものがあった。果たして何が伝えたいのか、木簡と遺跡との関係がどの様なものであるのかがさっぱり判らなかったのである。
中には複雑な事情があるので公表が難しく、説明できないものもあったらしいのだが、それにしてももう少し工夫の余地があったのではないだろうか。
聞くところによるとある調査については、新聞記者や一部の学者には現地も公開されているとか、ウーン!?と考えさせられてしまう。
近年地方自治体を初めとする調査主体者の情報隠蔽や恣意的な情報公開が目につく。こんなことで果たして本当の意味での学問研究ができるのだろうか,そんな思いを強くする行為が目につく。日本考古学が停滞している大きな要因がここにもあるように思う。
かつて頑なに情報公開を拒んできた宮内庁ですら、先の山田博士のブログに紹介されているように(百舌鳥御廟山古墳を見る・・・・の巻)、ここのところかなり積極的に管理する陵墓の調査情報を公開するようになってきた。にもかかわらず、その一方で、ここ半世紀ほど日本の遺跡の発掘調査の大半を担ってきた地方自治体などの公開拒否や選択的公開が目に余るようになってきている。どんな理由があろうとも、税金を使って発掘調査をしている以上、その結果を全面的に公表するのは当然ではないだろうか。特に発掘調査の情報は報告書やネット情報では理解しにくい、現地でなければ確認しにくい情報や資料をたくさん有している。一部の学者にのみ公表して情報を秘匿するというのも実に不公平である。学問というのは平等に資料を公開しその資料を基に多くの研究者が分析して自説を展開するのが原則なのだから!
もう一つ苦言を呈したいのは、だらだらと弥生時代の遺構や遺物の説明に報告時間を費やす某遺跡の報告者である。もちろん、木簡が出ようが古代の遺跡であろうが、その遺跡がどの様な歴史的背景のもとに成立しているかを説明することはとても大事なことである。とかく木簡の文字のみに注目しがちな研究者に警鐘を鳴らし続けているのはこの学会の大きな特徴でもある。だから、弥生時代を省けとは絶対に言わない。しかし、何の脈絡もなく、だらだらと弥生時代の様子を説明し、突然木簡がここから出ました、墨書土器はこんなにありますと言われても、普通の人間は理解できない。たまたま日本中に著名な遺跡の関連報告なので、参加者は何とか我慢されたのであろうが、一番前に座っていた私等はよほど「もうちょっと古代のことも勉強して報告しろよ!」と怒鳴りたかった(怒鳴らないところが私も歳をとったのかも知れないが(笑))。そんな思いを強くする報告もあった。
もちろんそうした報告者を選んだのは私も含めたこの会の委員会なのだから大いに反省しなければならないと思った。折角遠方から貴重な時間を割いて、高い会費を払ってきていただいた方々に本当に申し訳なかったとお詫び申し上げたい。初日の和歌木簡の研究報告が素晴らしかっただけにその落差に呆然とした一日でもあった。
愚痴はこれくらいにして、とてもいい知らせが大会中に舞い込んだ。
とは言っても、大会中は携帯を切っていたので、何度も電話をくれた本人とは話すことはできなかったんだが・・・・。
苦節5年、今年三十路を迎える卒業生のN君が関西の某市への就職が決まったのだ。この間、北陸のT県や関西のK市で嘱託職員として頑張っていたのだが、ようやく正職員としての試験に通り採用されたという。
彼はとても個性的な学生で、1年生の入学式直後からわたしの研究室を訪れ、現場に出ていた学生であった。こう言うとどこが個性的なんだ?と不思議に思われることだろう。本人の名誉のこともあるので相当抑えてご紹介すると、まず第一に研究室に来て直ぐに発した言葉が「先生1000円貸して」だった。「ウン? 何でや」「金ないねん、・・・」経済的に困っていたようなので貸してやった。ところがバイトをし始めても、どうもいろいろ遊びにも行っているようなのに、一向に返しもしなければ状況報告もない。ある時、
「おい、N!! おまえな,金の貸し借りはきちんとせんといかんぞ!俺にとって1000円は別に踏み倒されてもどうという金ではないが、しかし、お前という人間はそういう人間やと思ってしまうぞ。ええんか?」
もちろん慌てて返しに来た。そんなやりとりがあったからだろうか、彼はよく現状を報告に来た。付きあっている彼女のこと、飼っている猫のこと、弟のこと、お母さんのこと、剣道をやっておられるお父さんのこと等々。とにかく元気だけは人一番いいので研究室を引っ張る人間にもなっていった。卒論は群馬県の三ッ寺遺跡を取り上げて古墳時代の豪族居館を論じた。その資料調査でもエピソードが・・・
相変わらず金のない彼はバイトの金を切り詰めて群馬へ向かった。ところがお金はどう見ても足りない。そこで、公園の子供が遊ぶコンクリートのトンネルの中で野宿をしていた。朝起きてボーッツとしているとたまたま公園を散歩中の人に話しかけられ、かくかくしかじかと話すと、俺の所へこいという。旅館のご主人だったのである。半額で泊めてもらった上、朝夕の食事も出してもらったとか。卒論は大したことはなかったがそれでも現地まで行こうという努力は評価してやった。
そして卒業式。
ナナナント頭を剃り、真ん中にハート型を残し、そこをピンクに染めて出現したのである。みんな唖然!!非難囂々、しかし我関せず。
そんな彼が大学院へ行くと言うので2年間面倒を見た。そして修了式。運良く??彼の所属している研究科がその年の総代を出す年に。伝統で総代は名簿の順番だ。ろころが、彼より早い名簿の院生が休学中。で、彼に総代の役割が。ご家族中が喜ばれたとか。ついにご両親までもが修了式お出でに!!お父上は北陸の某大学の著名な学者だったのである。さす8がに修了式は真面目な黒のスーツ。頭は完全に刈り、丸坊主。
その彼にようやく春が!
私の贈った歌がこれ
寒桜 咲いたのメール はらはらと
おめでとう!!しっかり勉強してみんなから褒められる様な調査員になるように!!
(ハイこの中にその1年生の時私の研究室に来た3人が含まれています。やっぱり目的意思,がしっかりしていると違うね。みんなとても立派になりました!!嬉しい!!)
(この山背国分寺の塔跡から南西方向、木津川の向こうに遺跡はある)
馬場南遺跡のある現在の岡田国神社の裏山はひょっとしたら当時の最有力貴族橘諸兄の邸宅(別荘)のあったところではないかという説もあるらしい。その遺跡から「「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11字が墨で書かれた木簡が出土した。万葉集巻10に収録されている作者不明の歌「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも」の冒頭部分とみられている。
あるいはこの邸宅で諸兄や家持が歌を歌い、『萬葉集』の編纂に従事していたと思うととてもワクワクするのだが・・・。
(かつて紫香楽宮とされたこの地は今は甲賀寺ではないかと考えられている。11月2日苅谷俊介さんご一行を案内いたおりに)
昨日、一昨日と二日間続けて今年の木簡学会だった。
今年の大会報告は昨年に続き会長である栄原永遠男さんの研究テーマに沿った「歌木簡の総合的研究」であった。
紫香楽宮の「安積山木簡」の再発見を契機に俄に高まった「万葉木簡」の研究、新たな事例も相次いで見付かりその意義についての熱い研究会であった。特に国文学者のシビアーな研究報告とその内容に関する質疑は久しぶりに緊張感溢れるものであった。ただ少し気になったのは、紫香楽宮や馬場南遺跡で発見された和歌と推定される木簡がこれまでの研究で『萬葉集』の第一期編さん時とされた8世紀中頃に限りなく近い資料であるにもかかわらず、国文の研究者が300年後に写本されて残る資料を基準にして分析する姿であった。
私なら、後の『萬葉集』に載せられている和歌に限りなく近い歌木簡があれば、そちらこそ、伝わらなかった原『萬葉集』に載せられたものに限りなく近い和歌(和歌の表記方法)だと考えるのだが、どうも彼らは違うようだ。次々と地下から資料の出てくる考古学では、仮説は次々と変遷していく。ところが、ほとんど新たな資料の出てこない上代文学の世界では、定説化した仮説を変えるなんてことは研究者のプライドが許さないらしい。そうかなーーー?!
安積山 謡うは妹子 宮赤し (あさかやま うたふはいもこ みやあかし)
そんな国文学者の「解釈」を許すのも、考古学者の責任のような気がする。今回も、木簡を出土した遺跡の調査担当者の報告は少し寂しいものがあったからだ。
紫香楽宮跡や祢布ヶ森遺跡の報告はとても判りやすく、出土木簡との関係についても積極的に理解しようとの意欲も感じられ、参加者は十分に理解することができたに違いない。しかしそれ以外については少々首をかしげたくなるものがあった。果たして何が伝えたいのか、木簡と遺跡との関係がどの様なものであるのかがさっぱり判らなかったのである。
中には複雑な事情があるので公表が難しく、説明できないものもあったらしいのだが、それにしてももう少し工夫の余地があったのではないだろうか。
聞くところによるとある調査については、新聞記者や一部の学者には現地も公開されているとか、ウーン!?と考えさせられてしまう。
近年地方自治体を初めとする調査主体者の情報隠蔽や恣意的な情報公開が目につく。こんなことで果たして本当の意味での学問研究ができるのだろうか,そんな思いを強くする行為が目につく。日本考古学が停滞している大きな要因がここにもあるように思う。
かつて頑なに情報公開を拒んできた宮内庁ですら、先の山田博士のブログに紹介されているように(百舌鳥御廟山古墳を見る・・・・の巻)、ここのところかなり積極的に管理する陵墓の調査情報を公開するようになってきた。にもかかわらず、その一方で、ここ半世紀ほど日本の遺跡の発掘調査の大半を担ってきた地方自治体などの公開拒否や選択的公開が目に余るようになってきている。どんな理由があろうとも、税金を使って発掘調査をしている以上、その結果を全面的に公表するのは当然ではないだろうか。特に発掘調査の情報は報告書やネット情報では理解しにくい、現地でなければ確認しにくい情報や資料をたくさん有している。一部の学者にのみ公表して情報を秘匿するというのも実に不公平である。学問というのは平等に資料を公開しその資料を基に多くの研究者が分析して自説を展開するのが原則なのだから!
もう一つ苦言を呈したいのは、だらだらと弥生時代の遺構や遺物の説明に報告時間を費やす某遺跡の報告者である。もちろん、木簡が出ようが古代の遺跡であろうが、その遺跡がどの様な歴史的背景のもとに成立しているかを説明することはとても大事なことである。とかく木簡の文字のみに注目しがちな研究者に警鐘を鳴らし続けているのはこの学会の大きな特徴でもある。だから、弥生時代を省けとは絶対に言わない。しかし、何の脈絡もなく、だらだらと弥生時代の様子を説明し、突然木簡がここから出ました、墨書土器はこんなにありますと言われても、普通の人間は理解できない。たまたま日本中に著名な遺跡の関連報告なので、参加者は何とか我慢されたのであろうが、一番前に座っていた私等はよほど「もうちょっと古代のことも勉強して報告しろよ!」と怒鳴りたかった(怒鳴らないところが私も歳をとったのかも知れないが(笑))。そんな思いを強くする報告もあった。
もちろんそうした報告者を選んだのは私も含めたこの会の委員会なのだから大いに反省しなければならないと思った。折角遠方から貴重な時間を割いて、高い会費を払ってきていただいた方々に本当に申し訳なかったとお詫び申し上げたい。初日の和歌木簡の研究報告が素晴らしかっただけにその落差に呆然とした一日でもあった。
愚痴はこれくらいにして、とてもいい知らせが大会中に舞い込んだ。
とは言っても、大会中は携帯を切っていたので、何度も電話をくれた本人とは話すことはできなかったんだが・・・・。
苦節5年、今年三十路を迎える卒業生のN君が関西の某市への就職が決まったのだ。この間、北陸のT県や関西のK市で嘱託職員として頑張っていたのだが、ようやく正職員としての試験に通り採用されたという。
彼はとても個性的な学生で、1年生の入学式直後からわたしの研究室を訪れ、現場に出ていた学生であった。こう言うとどこが個性的なんだ?と不思議に思われることだろう。本人の名誉のこともあるので相当抑えてご紹介すると、まず第一に研究室に来て直ぐに発した言葉が「先生1000円貸して」だった。「ウン? 何でや」「金ないねん、・・・」経済的に困っていたようなので貸してやった。ところがバイトをし始めても、どうもいろいろ遊びにも行っているようなのに、一向に返しもしなければ状況報告もない。ある時、
「おい、N!! おまえな,金の貸し借りはきちんとせんといかんぞ!俺にとって1000円は別に踏み倒されてもどうという金ではないが、しかし、お前という人間はそういう人間やと思ってしまうぞ。ええんか?」
もちろん慌てて返しに来た。そんなやりとりがあったからだろうか、彼はよく現状を報告に来た。付きあっている彼女のこと、飼っている猫のこと、弟のこと、お母さんのこと、剣道をやっておられるお父さんのこと等々。とにかく元気だけは人一番いいので研究室を引っ張る人間にもなっていった。卒論は群馬県の三ッ寺遺跡を取り上げて古墳時代の豪族居館を論じた。その資料調査でもエピソードが・・・
相変わらず金のない彼はバイトの金を切り詰めて群馬へ向かった。ところがお金はどう見ても足りない。そこで、公園の子供が遊ぶコンクリートのトンネルの中で野宿をしていた。朝起きてボーッツとしているとたまたま公園を散歩中の人に話しかけられ、かくかくしかじかと話すと、俺の所へこいという。旅館のご主人だったのである。半額で泊めてもらった上、朝夕の食事も出してもらったとか。卒論は大したことはなかったがそれでも現地まで行こうという努力は評価してやった。
そして卒業式。
ナナナント頭を剃り、真ん中にハート型を残し、そこをピンクに染めて出現したのである。みんな唖然!!非難囂々、しかし我関せず。
そんな彼が大学院へ行くと言うので2年間面倒を見た。そして修了式。運良く??彼の所属している研究科がその年の総代を出す年に。伝統で総代は名簿の順番だ。ろころが、彼より早い名簿の院生が休学中。で、彼に総代の役割が。ご家族中が喜ばれたとか。ついにご両親までもが修了式お出でに!!お父上は北陸の某大学の著名な学者だったのである。さす8がに修了式は真面目な黒のスーツ。頭は完全に刈り、丸坊主。
その彼にようやく春が!
私の贈った歌がこれ
寒桜 咲いたのメール はらはらと
おめでとう!!しっかり勉強してみんなから褒められる様な調査員になるように!!
(ハイこの中にその1年生の時私の研究室に来た3人が含まれています。やっぱり目的意思,がしっかりしていると違うね。みんなとても立派になりました!!嬉しい!!)