今年は祟り年だったね、山田博士に厄払いをしてもらわないとね!!怨霊の神様お願いしますよ!
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2008年12月24日(世間ではクリスマスイブと呼んでいる日)、北畠館跡の指導委員会があり、行って参りました。
今年は年初から嫌なことばかりありましたが、年の最後までそれは続いていました。これだけ続くと私も桓武天皇の気分が判るような気がします。
前日、従姉妹から電話があり、ご主人が亡くなったとのこと、この日が通夜で翌日が葬儀だという。血は繋がっていないが、長く学校の先生をなさっていた方で、とても物静かな方であった。会うのは叔父などの葬儀の時だけなのだが(母の時は相当悪くなっていたらしくお会いすることはなかった)、それなりに親しくして頂いていた。67歳というから本当に早い。癌が手遅れで、1年持たなかったらしい。余命を知ってか、この1年間は奥様とヨーロッパや中国などあちこちを旅行なさったとか。ご冥福をお祈りしたい。
そんな突発的な事態も神は予想してか、見事に通夜と葬儀の間を開けてくれていた(神さんもドンだけ働かしたら気が済むんでっかねーーー.先日労働条件の調査なるものがあって、今度呼び出されることになったが、どうせ口だけ!!誰も人を増やして仕事を軽減してやろうとは言わない!)。午前中に史跡整備基本方針の会議、午後から現地視察。会議が終わって直ぐに最寄りの駅まで送って頂いて、通夜へ。普段着のママ滑り込みセーフ(フーッ)。
それにしても午前中の史跡整備会議はお粗末だった!!資料の誤字誤植は言うまでもなく、文章も中味も、ちょっと待ってよと言いたくなる。こんなレポートだったらまずは「不可!!」もっと問題は中味がないこと。まるで開発部局が作った整備管理計画案。史跡として重要だが地元が開発して欲しいと言えば「どうそご自由に」こんな弱気な最初から逃げ腰な文化財部局の文書を見るのは初めてだ。悲しい!!これも市町村合併の典型的な弊害の一つだろう。合併してみんなが無責任になってきた。個性を失ってきた!!
さて今年の現地は去年の続き。私にとってはとても興味深い成果が出ていた。昨年のちょうど今頃初めて北畠館跡から地割に関する遺構が出てきた。築地跡だ。その続きを掘っていたのだ。
発掘調査地は昨年の調査地の北、いわゆる六田館跡の直ぐ南であった。
(この図面の上部の四角くやや黒く塗ってあるところが六田館跡の堀跡、その直ぐ南に長く連なっているところが今年と昨年の調査地)
(六田館跡の現状。この家の向こうが館の中心部らしい。委員会ではこの本体を早く掘ってその実態を明らかにすべきではないかという意見が出た)
(六田館跡の南堀の続きかと思われる落ち込み跡が発見された。)
(石列を北から見たところ。発掘調査区の西端は前回同様川原石を積んだ「石垣」状の遺構によって境されていた。ただしこの遺構は前回のものと微妙に位置を違えているらしく、南端で1m近く西に位置しているという。南端の右から3番目の人の辺りに前回の石列がある。)
(途中こんな石組み遺構も認められる。)
(さらに興味深かったのはちょうどこの石列がグ位置になる辺りに南北の空間を区切る掘立柱柵列が認められるのである。その位置は北の堀から南の築地塀までのほぼ中間に当たり、略計算すると約450㎡(二つ分で900㎡)あるのである。とても切りのいい数字だ)
図面をもう一度見ていただくとよく判るのだが、六田館の南から東にかけてはほぼ同じくらいの南北に長い地割が連なっている。それが発掘調査で確認できたのである。造成時期はどうも16世紀中頃のことらしい。北畠が滅ぶ半世紀ほど前のことである。16世紀前半には北畠に変化が起こっているようで、六田館はその変革の中核を担っているようだ。この館を中心にして、昨年発見された築地塀までが区画整備されているのである。言葉を変えて言えば都市の再整備である。
どうもその区画の基準が900㎡(あるいはその半分の450㎡)にあるらしい。図面の下に延びている図面が昨年と今年の発掘区である。上半分が今年の調査地でそこに畔があるのも偶然ではなさそうである。どちらからも刀の飾り金具の鋳型や未製品が出ているので、恐らくそうしたかなり特殊な工人達が集住させられていた空間であろう。町の内部にある不思議な、石を使った施設の性格解明も急がれる。
京都・平安京の最小区画が15m×30m=450㎡だから大体それに近いのは偶然だろうか。その解釈はおいておくとしても、300坪を基準として区画を作り、その町の中に都市民を住まわせる方式はなかなかの計画性である。これまでにも遺存地割りから多気の北畠には朝倉館のような谷全体を統一的に町造りした可能性があると指摘されてきたが、どうもそれは一気になされたのではなく、川向こうの館を中心に展開した15世紀代から16世紀代に入ると、その町割りを基準に川と反対方向の今回の調査地一帯(東側)に利用空間が広がり、その際に新たに六田館が設けられ、これを核にして主に北側に900㎡を基準とした整然とした町造りが始まるのではないだろうか。
残念なことに、この都市空間は城主の滅亡と共に廃絶し、人々の記憶から薄れていくわけだが、後の伊勢本街道という大和から伊勢に抜ける重要な交通路を抑えた北畠の壮大な政治拠点の形成を予感させるものであった。過疎化が進み、遺跡の保護には絶好の状況である。美杉村がなくなり、津市にとっては交通も不便でお荷物なのかも知れないが、それはあくまで今の感覚からみたものである。地球環境の悪化が叫ばれている今日、これほど豊かな自然に恵まれた住環境こそ大切なのではなかろうか。大和(飛鳥・桜井・榛原)から伊賀(名張)を経て伊勢(多気)に抜ける道沿いに遺されたオアシスである。こんな贅沢な環境は他にない。
もう開発の時代は終わった!ゼネコンや土木事業で国民の金を浪費するのではなく、自然を守り、育てることに振り向け、そこに雇用を創出し、豊かな生活を保障していくことこそ求められているのではなかろうか。その一翼を担うのが歴史遺産の保護活用であることは間違いない。
津市民のオアシスとして是非積極的にこの遺跡を護ることに全力を傾けたいものである。
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都市北畠氏館址群が面白くなってきたね!津市の皆さん、このオアシスは人工では造れませんよ!
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2008年12月24日(世間ではクリスマスイブと呼んでいる日)、北畠館跡の指導委員会があり、行って参りました。
今年は年初から嫌なことばかりありましたが、年の最後までそれは続いていました。これだけ続くと私も桓武天皇の気分が判るような気がします。
前日、従姉妹から電話があり、ご主人が亡くなったとのこと、この日が通夜で翌日が葬儀だという。血は繋がっていないが、長く学校の先生をなさっていた方で、とても物静かな方であった。会うのは叔父などの葬儀の時だけなのだが(母の時は相当悪くなっていたらしくお会いすることはなかった)、それなりに親しくして頂いていた。67歳というから本当に早い。癌が手遅れで、1年持たなかったらしい。余命を知ってか、この1年間は奥様とヨーロッパや中国などあちこちを旅行なさったとか。ご冥福をお祈りしたい。
そんな突発的な事態も神は予想してか、見事に通夜と葬儀の間を開けてくれていた(神さんもドンだけ働かしたら気が済むんでっかねーーー.先日労働条件の調査なるものがあって、今度呼び出されることになったが、どうせ口だけ!!誰も人を増やして仕事を軽減してやろうとは言わない!)。午前中に史跡整備基本方針の会議、午後から現地視察。会議が終わって直ぐに最寄りの駅まで送って頂いて、通夜へ。普段着のママ滑り込みセーフ(フーッ)。
それにしても午前中の史跡整備会議はお粗末だった!!資料の誤字誤植は言うまでもなく、文章も中味も、ちょっと待ってよと言いたくなる。こんなレポートだったらまずは「不可!!」もっと問題は中味がないこと。まるで開発部局が作った整備管理計画案。史跡として重要だが地元が開発して欲しいと言えば「どうそご自由に」こんな弱気な最初から逃げ腰な文化財部局の文書を見るのは初めてだ。悲しい!!これも市町村合併の典型的な弊害の一つだろう。合併してみんなが無責任になってきた。個性を失ってきた!!
さて今年の現地は去年の続き。私にとってはとても興味深い成果が出ていた。昨年のちょうど今頃初めて北畠館跡から地割に関する遺構が出てきた。築地跡だ。その続きを掘っていたのだ。
発掘調査地は昨年の調査地の北、いわゆる六田館跡の直ぐ南であった。
(この図面の上部の四角くやや黒く塗ってあるところが六田館跡の堀跡、その直ぐ南に長く連なっているところが今年と昨年の調査地)
(六田館跡の現状。この家の向こうが館の中心部らしい。委員会ではこの本体を早く掘ってその実態を明らかにすべきではないかという意見が出た)
(六田館跡の南堀の続きかと思われる落ち込み跡が発見された。)
(石列を北から見たところ。発掘調査区の西端は前回同様川原石を積んだ「石垣」状の遺構によって境されていた。ただしこの遺構は前回のものと微妙に位置を違えているらしく、南端で1m近く西に位置しているという。南端の右から3番目の人の辺りに前回の石列がある。)
(途中こんな石組み遺構も認められる。)
(さらに興味深かったのはちょうどこの石列がグ位置になる辺りに南北の空間を区切る掘立柱柵列が認められるのである。その位置は北の堀から南の築地塀までのほぼ中間に当たり、略計算すると約450㎡(二つ分で900㎡)あるのである。とても切りのいい数字だ)
図面をもう一度見ていただくとよく判るのだが、六田館の南から東にかけてはほぼ同じくらいの南北に長い地割が連なっている。それが発掘調査で確認できたのである。造成時期はどうも16世紀中頃のことらしい。北畠が滅ぶ半世紀ほど前のことである。16世紀前半には北畠に変化が起こっているようで、六田館はその変革の中核を担っているようだ。この館を中心にして、昨年発見された築地塀までが区画整備されているのである。言葉を変えて言えば都市の再整備である。
どうもその区画の基準が900㎡(あるいはその半分の450㎡)にあるらしい。図面の下に延びている図面が昨年と今年の発掘区である。上半分が今年の調査地でそこに畔があるのも偶然ではなさそうである。どちらからも刀の飾り金具の鋳型や未製品が出ているので、恐らくそうしたかなり特殊な工人達が集住させられていた空間であろう。町の内部にある不思議な、石を使った施設の性格解明も急がれる。
京都・平安京の最小区画が15m×30m=450㎡だから大体それに近いのは偶然だろうか。その解釈はおいておくとしても、300坪を基準として区画を作り、その町の中に都市民を住まわせる方式はなかなかの計画性である。これまでにも遺存地割りから多気の北畠には朝倉館のような谷全体を統一的に町造りした可能性があると指摘されてきたが、どうもそれは一気になされたのではなく、川向こうの館を中心に展開した15世紀代から16世紀代に入ると、その町割りを基準に川と反対方向の今回の調査地一帯(東側)に利用空間が広がり、その際に新たに六田館が設けられ、これを核にして主に北側に900㎡を基準とした整然とした町造りが始まるのではないだろうか。
残念なことに、この都市空間は城主の滅亡と共に廃絶し、人々の記憶から薄れていくわけだが、後の伊勢本街道という大和から伊勢に抜ける重要な交通路を抑えた北畠の壮大な政治拠点の形成を予感させるものであった。過疎化が進み、遺跡の保護には絶好の状況である。美杉村がなくなり、津市にとっては交通も不便でお荷物なのかも知れないが、それはあくまで今の感覚からみたものである。地球環境の悪化が叫ばれている今日、これほど豊かな自然に恵まれた住環境こそ大切なのではなかろうか。大和(飛鳥・桜井・榛原)から伊賀(名張)を経て伊勢(多気)に抜ける道沿いに遺されたオアシスである。こんな贅沢な環境は他にない。
もう開発の時代は終わった!ゼネコンや土木事業で国民の金を浪費するのではなく、自然を守り、育てることに振り向け、そこに雇用を創出し、豊かな生活を保障していくことこそ求められているのではなかろうか。その一翼を担うのが歴史遺産の保護活用であることは間違いない。
津市民のオアシスとして是非積極的にこの遺跡を護ることに全力を傾けたいものである。
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いろんなことがあった一年でしたが、塩崎さんを通してyaasanとお知り合いになれたことも大きな収穫でした
ブログって不思議!!
難しいことはよくわかりませんが、こちらに帰られた時にまた、お会いできる機会があればいいですね
島根県の小豆原埋没林、見にいきました
すごかったです
三瓶まで出かけたんですか!
私は小豆原埋没林へはまだ行ったことがありません。羨ましい。
本当は縄文時代が大好きなんですが、仕事柄この頃はそのお隣の石見銀山など歴史時代の遺跡が専門です。
早く銀山に行ってみたいのですが・・・。
実は三重県にも治田銀山という、あの秀頼の妻だった千姫の財産があるんです。石見銀山と同じくらいたくさんの銀を出していたそうです。
それにしても千姫の嫁入り道具が銀山とは、スケールが違いますね(笑)。
そんなこんなで是非吉田へ「帰ったら」歴史談義に花を咲かせたいものです。
よいお年を!!