yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

東龍山漢墓報告-3 再会そして武関への条

2008-12-12 13:11:15 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
  お久しぶりーーーー!! 


(前日の1日には大雁塔へ参り亡き母に焼香しました。)


(再会!!)
 今回の調査は6年前に発掘調査した東龍山漢墓の再測量を行い、その成果を関口先生のヴァーチャルリアリテー研究に活かして将来的に、現地確での遺跡再現を可能にするためのものだった。
 6年前に一緒に発掘調査した総合地球環境学研究所の槙林さんや東亜大学の黄暁芬さん、そして情報芸術大学院大学の関口先生に参加していただき必要情報を収集したものである。

 11月30日、中部国際空港に集まっていただきそこから上海経由で西安に向かった。
 11月4日に帰国する強行軍であったが、全日快晴で比較的暖かく、病人も出ることなく無事終えることができた。

 西安では報告書の打ち合わせも無事終わり、発掘調査を中国側の責任者として共に進めた劉さんとも再会し,12月2日に現地に向かった。
 現地商洛ではこれまたかって現場で様々な形で調査を補助してくれた王さんとも再会し、現地の状況やその後の様子をうかがった。

 再会の宴は昼間から行われ、白酒の乾杯の嵐で参った(笑)。

 いざ、現地で測量という時点で機械の不具合が判明し、急遽第二の目的地武関へ向かった。


 (西安から商洛へは片道3~4車線の高速道路が真っ直ぐ走っていた!!)

 西安から商洛もそうだが、商洛から武関もとても立派な高速道路が完成し、西安商洛はわずか1.5時間。商洛武関も1時間で行く事ができた。これ全てオリンピックに合わせて私たちが帰国後に進められた大事業の結果である。そのせいか、商洛には立派な高級ホテルが建っていた。
 もっともそのお蔭で、秦嶺山脈の岩場を見ることも、商洛から武関までの様々な史跡をじっくり観察しながら進むこともできなかった。もう一つ驚いたのことは鉄道が完成し、西安から南京まで行く事ができるようになったらしいのである。今後はこうした手段を取って再訪することができるかも知れない 。

 東龍山漢墓は発掘調査によって墳丘を解体したので今はその姿はわずかに凹んだ麦畑の状況から推測する以外にない。わずかに、麦畑の向こうに今も残る給水塔が6年前を甦らせてくれる。
 あの時も実はとても怖かったが、言い出した手前、恐る恐る給水塔に昇り写真を撮ったのだが、今はさらに錆が進みとても昇る気にはなれない。


(随分小さくなってしまった城壁)

 そんな感傷に浸っている間もなく、武関へ向かった。
 武関へは当時東龍山遺跡を発掘していた楊さんが同行してくれ、現地を細かく案内してくれた。そのお陰でとても具体的に武関の様子を知ることができたし、武関そのものの変遷に着いての知見も得ることができた。


(この川ははるか雲夢遺跡まで続いている)

 特に初めて南側を流れる川の向こうに渡り武関を全貌することによって、その要害の地であることの実際を確認することができた。この点については早速1月22日の木曜日に人文学部伊勢湾・熊野地域研究センターの月例報告会で簡単な報告をすることになった。




(武関全景。右端の山の頂部が平である。狼煙台であろうか。)

 とにかく関口先生と声を上げて感激したのは鈴鹿の関との多くの共通点であった。特に川の蛇行部分を活かした立地や陸路との関係、狼煙台などの配置は大いに参考になった。しかし残念なこともいくつかあった。まず第一に6年までも既に大半が失われていた城壁がさらに小さくなって3m余しか残っていなかったこと、城内にあった民家が次々と壊され、明・清の時代にも関であったと言われる城内が急変していること、等であった。これも高速道路の開通による都市化の影響であろうか。


(武関鎮の町)                                


(旧家の庭先で勉強する4歳の女の子)            
 私が中国の文化財担当者なら一刻も早く城内全体の保護の手立てを加えるのだが・・・・。悲しい!!

 その後楊さんに頂いた報告書などによって、武関は古くは丹鳳にあったという。ちょうど商洛と武関の間にある丹鳳には城壁も残っているらしい。これはもう一度来なければならない。そんな思いを残しながら12月2日の調査は終了した。

 もちろん夜は地元料理で祝宴だった。


(地元料理に舌鼓)

 皆さん有り難う!!乾杯!! 


(また会う日まで無事でいて下さいね!城壁さん。)


 背景は四川の大地震の際に少し傾いた大雁塔の最新写真