yaaさんの宮都研究

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連載・桓武考古-4 第一章 ③ 光仁・桓武朝の平城宮

2005-08-07 18:46:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
2 光仁・桓武朝の平城宮
【内裏と皇后宮】
 光仁天皇の即位は宮城構造に大きな変化をもたらせた。皇后の出現である。孝謙、淳仁、称徳天皇の時代に皇后は存在しなかった。それ以前も聖武天皇の時代に光明皇后が置かれただけであった。
橋本義則氏の研究によれば、藤原光明子は首皇太子の夫人時代、生まれ育った藤原不比等邸に居を構えていた(が、近年長屋王邸の発掘調査によって、天平元年の立后後には、旧長屋王邸に皇后宮を置いたという説も出されている)。恭仁京への遷都により皇后宮も移転するが、やはり宮の外に設けられたのではないかという。平城京への還都後には再び元藤原不比等邸(法華寺)の一角に皇后宮を置いた。
なぜ皇后は別に宮を設けたのであろうか。橋本氏によれば、光明皇后までの皇后は王権の一翼を担い、政治的にも経済的にも大きな力を持っていたからだと言う。
 光仁天皇は即位後直ぐに井上内親王を皇后に立てた。それに合わせるかのごとく、内裏内部に大きな変化が生まれる。平城宮内裏第Ⅴ期建物群に、平安宮内裏図によれば内裏内における皇后の居所である貞観殿相当施設が加えられたのである。
続く桓武朝に当たる第Ⅵ期内裏においても同構造が引き継がれ、さらに始めて北東部に後宮相当施設(後の淑景舎、淑景北舎)が成立する。以後、長岡宮、平安宮と内裏の基本構造はこの第Ⅵ期遺構配置を踏襲し続ける。
橋本氏によれば、皇后の絶対的地位の低下によると言う。後述する長岡宮内裏の独立など、桓武朝における内裏機能の強化と天皇権力の強化は、既に奈良時代の平城宮の構造に明確に読み取ることができるのである。と同時に、皇后他、女性の地位の低下にも注目する必要が有ろう。
【東院と楊梅宮】
 ところで平城宮には建設当初から宮城の東端が二町分東へ拡大され、東院と呼ばれて使用されていたことが知られる。東院の南端には苑地を持つ施設が配され、奈良時代後半には施釉瓦が使用されて玉殿と称された。
 光仁朝にはこの地に楊梅宮が設置され、やはり苑地を持つ宮殿として利用された可能性が高い。楊梅宮の後身は長岡京においてほぼ同位置に山桃院として再建される。文献史料には長岡京に猪熊院が所在したことが知られるが、施設名が平安京の猪熊小路依るならば、その位置はやはり宮城の東となる。宮城の東は伝統的に苑地や離宮の占有空間として強く意識されていたのである。
楊梅宮の北部には光仁朝に山部皇太子のための東宮の所在したことが知られるが、平城宮を通じて同所が東宮であった可能性が高い。同様にして長岡京や平安京でも宮城の東辺に東宮、春宮坊が所在した。東宮を含む一帯が東院と呼ばれ、王統の後継者の居住地とされてきたとすると、父系の血の正当性を印象づけるためには、桓武朝といえども伝統を保持せざるを得なかったのであろう。

3 三代の斎王と新斎宮
桓武朝の中国化政策が注目される中、王権の正当性を誇示するために伊勢神宮祭祀の新しい動きが始まる。
光仁天皇は斎王として井上皇后との間に生まれた酒人内親王を斎宮へ派遣する。その斎宮は壮麗で、現在の竹神社の北東部に位置し、東西240m、南北120mほどの空間が占有され、二重の柵によって囲繞された宮殿の内部には大規模な掘立柱建物が多数建設されていたことが知られる。これまでに具体的な斎王の宮殿が判明した数少ない例である。
さらに驚くべきことは、桓武天皇の代になり、桓武と酒人との間に生まれた朝原内親王が斎王にト定され、伊勢に派遣されることが決まると、斎宮の大規模な改造が始まる。
酒人斎王の宮殿を核にしてまるで都のような碁盤の目のような方格地割が形成されるのである。東西に5区画(後に西にさらに2区画増築して7区画)約680m、南北に4区画約550mの方形の区画が形成され、元酒人斎王の宮殿跡が改修されて朝原斎王の新宮殿とされ、これを核にして四方に斎宮を維持するための役所・斎宮寮の諸官衙が設けられた。その様はまるで都の宮城を見るような壮大さであった。
この後数代の斎王は9世紀初頭に離宮院の地に斎宮が移転するまでほぼこの時の基本構造を継承して使用された。

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