yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

《準日記版-9》 読者の連鎖

2005-08-11 12:34:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は橿原考古学研究所林部さん主催の「地理情報システムを用いた古代宮都の環境復原と環境史の研究」打ち合わせで奈良に行った。いつも通るのだがなかなか途中下車できず、指をくわえていた飛鳥の現場見学を段取りして頂いた。お陰で素晴らしい遺跡を三カ所も見て回ることができた。

 一カ所目は奈文研が掘っている藤原宮朝堂院東第六堂であった。現場では調査担当の豊島さんに丁寧なご説明を受けた。東西11間南北二面廂の4間、身舎の柱間10尺等間、廂の出9尺の大規模な礎石建物がそっくり姿を現していた。宮都の発掘調査でもこれだけの建物がこれだけ雄大な姿でみれるのもそうはない。写真を撮っても余りに大きすぎて絵にならないのである。

 不思議だったのは階段の凹凸が認められないことであった。これまでの経験では礎石建物なら必ず階段があり、その位置は建物の基壇と同様に整地されるので基壇の前後が凸凹しているのだが、それがどこにも認められないのだ。平城宮の施設なら基壇化粧は凝灰岩の切石を使うのでその痕跡が必ず認められるのだが、基壇の周りに溝が巡るにもかかわらず(この溝は新しいという見方もあるらしいが)かけらもないのである。基壇化粧は木製だったのでは?という。

 もう一つの問題は建物内部に床束が有るか無いかである。現場担当者のIさんとIさんの間で激しい論争が展開されているようだが、もし床束が他の礎石の構築方法と変わらないとすると私の目にはどう見てもその痕跡は認められなかった。基壇の造成土中にたくさんの大形の石が入っているので、その部分的な固まりを床束としようとの考えのようだが、ちょっとそれは考古学的には納得できない。しっかり議論して結論づけてもらいたいものだ。

 第二の現場は「藤原京」十一条一・二坊である。橿原考古学研究所の松井さんの説明によると「藤原京」の東一坊路が溝心心幅8.35mで発見され、周囲からこれに沿う溝や柵列、建物跡が確認されているという。溝中からは「藤原京」期を遡る遺物が出ており、新城段階にこの辺りまで条坊が建設されていたことを示す資料と考えればいいのであろうか。林部氏の話によると、十条以南は「藤原京」関係の遺構が少なく、朱雀大路も認められない状況であるが、場所によっては(この調査地はあの有名な古宮土壇の直ぐ北に位置する)建物の設けられるところがあるという。藤原京の四至や規模、利用状況については「誇大宣伝」の嫌いがなきにしもあらずだが、もう少しこうした地道な研究・調査成果を利用してその造営実態について議論した方がいいように感じた。

 長岡京の南東部や南西部に遺構がないと「だから副都なんだ」とか「仮の都なんだ」と大声で言い回る輩が最近増えているらしい(あくまで噂なので断定はしないが、そんなつまらない意見でも自信があるなら「論文」にすればいいのに・・・。もっともこの手の揚げ足を取る「論文」が最近やたらと目に付く。そんな駄文を載せる方も載せる方だと私は思うのだが。)。しかし平城京もしかり、藤原京に至ってはもっとしかり、20平方㎞もある敷地にたったの10万人や20万人程度の人口密度、ガラガラに決まってるじゃん!!
発掘屋さん(最近私は発掘する人が考古学してるとは思っていない。単に仕事で掘っている人だと思っている。だから発掘屋さん!)ももっともっと目先の小さな違いにこだわらず、歴史を語ってもらいたいよネ。そうすれば考古学してる人になるんだけどね。

 昼飯を食った後、明日香村の資料展示室に行った。驚くなかれ、「刀支県主」木簡の現物を見ることができた。ありがとう!相原さん。

 第3の現場は島の庄遺跡。例の蘇我馬子の邸宅かと騒がれている遺跡。今回も東側の施設の展開状況を確認するためにトレンチが設けられ、南東部には余り施設はなさそうだが、北東部にはさらに広がりがあるらしいと明日香村教育委員会の高橋さんから説明を受けた。この邸宅がどちらを正面にしているのかが私には興味深かった。普通は南を正面と考えるのだろうが、それでは馬子の墓と考えられている石舞台古墳が目の前にあることになる。それでいいのだろうか。この飛鳥の奥まった丘陵の裾部に巨大な家を建て、北に広がる盆地に展開する飛鳥寺などの施設を悠然と眺める馬子の姿を想像するのは筋違いであろうか。

 昼過ぎまでじっくり遺跡を拝見して、研究所に戻り、本来の仕事である「地理情報システムを用いた古代宮都の環境復原と環境史の研究」のデーターベースのあり方、今後の研究会の進め方についてつっこんだ話をすることができた。

 途中研究所の嘱託で、都城研究をなさっているDさん(現Iさん)にも久しぶりにあってこの研究への協力をお願いした。その中で驚くべき事実???を告げられた。またまたこのBlogを愛読しているのだという。「エエッツ!」「何でそんなん知ってるの?」「山田さんの平安京閑話を愛読しているから」「なるほど、大博士が元凶だったのか。最近えらくこのマニアックなBlogの読者が増えているなと思ってたんや」「これから余り過激なことを書かないように気いつけよ」
とこんな会話が弾んだのである。表題の所以である。

 さて、そろそろ会議も終わろうかというと気になって、研究所のM係長から「お誘い」があって、最終電車間際まで近くの飲み屋で痛飲した。久しぶりに日本酒を随分飲んだので、今朝は少々ふらついていた。でも、彼とは旧知の仲なので、呑んでいても実に楽しい(エエッツあのMさんと楽しく呑むなんて!と思う御仁も多かろうが)。最後の最後には学生気分で電車に乗り込んだ。よく家まで辿り着いたもんだと思うくらい熟睡していたが、不思議と乗り換えの駅で目が覚めて、家に帰るとシンデレラだった。

 そんなこんなでまだOさんへのコメントが書けない。これから大急ぎで締め切りのとっくに過ぎた原稿を書きあげて、それから夜にでも書き込もうかな・・・。誰もいない我が家で。

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