yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

斎宮「授業」報告-2  久しぶりのレベルと大伯皇女の斎宮

2005-08-24 20:43:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


今日は台風の余波で雨が降ったり止んだりの妙な天候。そんな中で「考古学演習」の授業として受講している学生に斎宮の現場へレベルを入れる作業を行わせる。何せ今年はどういう訳か2年生の受講がやたらと多く、それもこれまで余り見たこともない(ということは僕の授業を受けたこともない)学生が多く、困っていたのだが、その学生達を相手に斎宮で実習する羽目になったのである。

もちろん密かに考古学を目指す学生もいるかも知れないので、余り冷たくもできず、かといって、興味本位でこんなマニアックな授業を受けられても困るのだが、真意を確かめられないまま夏休みに突入してしまい、今日を迎えた次第である。

レベルの器具の説明に始まり、機器の設置の仕方、スタッフの立て方、数字の読み方等々、久しぶりの実習はなかなか楽しくもある。学生もさほど難しくないレベルセットに次第に興味を示し始め、1往復した頃には十分スムーズに機械を操作することができるようになっていた。

始めた頃は少し曇っていた空も、なぜか次第に晴れてきて、結局作業時間中雨にはたたられず、最後まで終えることができた。室内に帰ってきて、計算方法と結果を講義し、測量の無事を伝えて本日の授業を終えた。誤差もなく、やれやれだった。

明日は紀伊半島に上陸する可能性が強まった台風11号のためにおそらく休講せざるを得まい。こんな事態を予想していなかったのでこの斑は1日授業時間が減るが、仕方あるまい。それにしてもさすがに紀伊半島は台風がよく来る。今年もこれで台風騒ぎは3回目だ。

ところで今日レベルを測って分かったことは、今回の調査地が斎宮の中では一番高いところにあるという事実だ。標高14.2mが今回調査する予定の第146次調査地の現場付近の高さであるが、昨日基準点測量を実施した8世紀末から9世紀前半の斎宮の中心部・内院地区の標高が10m前後であるからいかに高いかがよく分かるだろう。特に本調査地だけが際だって高くなっており、もし最初に斎宮をこの地に設けるとしたらなるほどいい所だと実感させる。

祓川を渡って直ぐの段丘状に設けられた宮殿で初めての斎王・大伯皇女がどんな思いでこの地に至ったのか、そんなことを考えてもいいような予感がにわかに高まった一日でもあった。考古学はこのような単純な水準測量作業からでもこんなことを考えられるから止められない(尤も世間ではこれを山中の妄想だというが・・・)。

きっと1ヶ月後には新聞紙上をにぎわすに違いない。

「大伯斎王の斎宮跡発見!!」のニュースが全国を駆けめぐることを確信した一日でもあった。

(ついでに申し上げると先日山田博士が訪れられた長岡京市の発掘した長岡京駅前で発見された同一規模の建物が軒を並べる遺構群は発見当時から私は申し上げているのだが、長岡京建設に動員された諸国農民の飯場だと思っている。最近これを「市」だとぬかす大馬鹿な調査員がどこぞのセンターにはいらっしゃるが(そしてまたこれを公衆の面前で堂々とお話しになった-その上この発言が京都新聞発行の冊子に載っているという悲劇!アー長岡京の将来が思いやられる!!)―)、こんな思いつきと考古学の資料からの発言は質が違うということを読者諸氏はお忘れなきように。あの建物群こそ、人間を入れる倉庫、即ち肉体労働者を詰め込んで僅かな飯を与えてこき使った飯場の址であることは間違いない!と思っている。もちろん大博士もご理解頂けると思うが、・・・。)

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