yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

斎宮「授業」報告-3  台風の斎宮

2005-08-25 11:25:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 眼下に広がる伊勢湾はどんよりと曇った空のせいか薄暗く、白い小波が一面に立っています。台風の直撃は免れそうですが、それでも台風銀座の伊勢湾、風は相当な強さになりつつあります。今日の実習は中止せざるを得ないのですが、昨日、「十時時点で大雨暴風警報がでたら」などと条件を付けたものですから、天気予報に釘付け状態。とこがなかなか警報が出ず、いろいろ探ってみると十時にはどうも情報が更新されないらしいことが分かった。困ってしまい、仕方なく電話番号を調べて学生一人一人に電話をかける始末。とても現場などやってられる状態ではないのです。こんなことならあっさり「明日は休み」といっておけばよかった。

 ということで本日は新しい情報は何も無し。済みません。

 そこで、最近、桓武天皇が何故斎宮に方格地割を作ったのかについて若干の構想を述べたことがあるのでそれを紹介しておこう。

 光仁天皇は斎王として井上皇后(聖武天皇の娘で元斎王)との間に生まれた酒人内親王をト定する。その後の経緯から見てこれが酒人の皇室周辺からの排除であることは明白であろう。周辺の有力皇族との間に男の子でももうけられた日には、光仁即位を画策した藤原百川達にとっては目も当てられない。そこで予め彼女を斎宮へ「避難」させて、謀略の実行に障害にならないよう策略を練った結果であったと思われる。その後、おそらく、母・井上皇后、弟・他戸皇太子の死(暗殺)によって都へ呼び戻されたのであろう。残酷なことに母弟を排除した山部皇太子に嫁がされ、女の子をもうけるのである。それが次の斎王・朝原内親王であった。

 近年の発掘調査で酒人斎王が入った斎宮の地が明らかになりつつある。現在の竹神社の北東部から発見された広大な空間がそれである。二重の柵によって囲繞された壮麗な宮殿跡で、周辺部から出土した遺物の状況から、これが朝原斎王のために建設された方格地割形成の直前の遺構であることが判明した。おそらく酒人斎王の斎宮であろう。この頃まで斎宮は一代ごとの斎王に応じて宮殿を建設した模様である。なぜ酒人斎王の斎宮がこの地に建設されたのかは明らかではないが、いわゆる「奈良古道」の南に接して建設されている。現時点で、検出遺構と斎王を特定できる最も古い斎宮跡である。特に注目さえるのは宮殿が二重の柵によって囲繞されている点である。宮都及びその周辺部の離宮の構造と変わらない点は大事なことである。斎王は天皇の名代であり、斎王の用いる施設は天皇クラスでなければならない。そう考えれば、離宮と同じ構造を取るのも頷ける。

 次いで斎王となるのが桓武と酒人との間に生まれた朝原内親王である。桓武天皇は朝原のために斎宮の大改造に取りかかる。元酒人斎王の宮殿を核にした方格地割を形成したのである。東西に5区画(後に西にさらに2区画増築して7区画)約680m、南北に4区画約550mの方形の区画が形成され、元酒人斎王の宮殿跡が改修されて朝原斎王の新宮殿とされ、これ中心にして四方に斎宮を維持するための役所・斎宮寮の諸官衙が設けられた。その様はまるで都の宮城を見るような壮大さであった。斎宮内院と斎宮寮の固定化を図るためであろう。この後数代の斎王は9世紀前半に離宮院の地に斎宮が移転するまでほぼこの時の基本構造を継承して使用した。

 この方格地割がなぜこの位置に設けられたかについて諸説があるが、最近三重県埋蔵文化財センターの伊藤裕偉氏は多気郡条理との関係を指摘されているが、私は違うと思う。伊藤さんが根拠とされている基準点が余りに偶然的に方格地割と重なる地点に設定されているからだ。私の斎宮の方格地割の復原を批判された井上和人氏の考察と合わせていずれ本格的に批判したいが、一言で言えば余りに数字のマジックに頼りすぎだということだ。権力者がそれまでとは異なる新しい理念で大規模な施設改造に取り組む時、適当な地点を起点に適当に建設することはあり得ないと私は仮定する。特に理念の全く異なる斎王の宮殿の基準を条里という生産に関する施設にするほど古代王権はいい加減ではないと考えるのである。過去の宮都研究でも、初期の段階ではこうした歴史地理学的手法を使った研究が多用された。しかし、今日のような発掘調査の進んだ遺跡では、おおよそでしか復原できない条里型地割とミリ単位で検出されている遺構を同列にして比較して分析するのはいかにもアンバランスである。

 ではなぜこの地にこのような形で朝原斎王の宮殿は建設されたのか?

 先にも触れた通り、朝原の母酒人の宮殿を核にしたからだと考えれば理解しやすいのではないだろうか。幼少の朝原の不安を解消し、桓武の伊勢神宮祭祀への並々ならぬ決意を示すために宮城並の斎宮が建設されたのである。事実、酒人斎王の宮殿跡の遺構群とその後改装された遺構群とは方向性に於いてほとんど変わらないくらい同一の方向性を取っている。可能性として、酒人の段階から方格地割は構想されていたのではないかと思いたくなるくらい一致しているのである。

 ではなぜ桓武天皇は斎宮の荘厳化と固定化を図ったのであろうか。

 答えは簡単である。血統に不安を残す桓武にとって、中国の権威を借りるだけでは不十分であり、王権の正当性を保証する皇祖神、伊勢神宮の天照大神を祭祀することこそ、反対勢力の気勢を削ぐ絶大なる効果があると考えたからに違いない。天武天皇が伊勢神宮祭祀を積極的に取り込んだのと同じ発想であろう。

 桓武はこのほか、宗教面では国家寺院である大安寺は平安京では東寺として、天皇家の寺院である薬師寺は西寺として継承した。長岡京でそれぞれに相当する寺院がどれかを検討する資料は極めて限られている。宝亀八(777)年の遣唐使によってもたらされた仏師(或いは仏像そのもの)によって製作されたとする半跏像を持つ宝菩提院廃寺は、大膳職からの食料の供給を意味する「大膳」と記した墨書土器を有する点等、天皇家の有力寺院である。また、藤原種継暗殺事件に際し、早良親王が幽閉された乙訓寺は、国家寺院であった可能性もある。同寺に空海が別当として配されたことも無関係ではなかろう。

 桓武天皇はあらゆる手段を尽くして、己の正当性を主張したのである。それ故、古代王権の正当性のシンボル斎宮は室町時代まで維持され続けるのである。平安京が実態を失ってもその枠組みを維持し続けたのとどこか共通している。

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