(写真は長岡京跡出土墨書人面土器:専門の絵師が描いた祓えの土器か?)
夏休みを通じて、本ブログに二つの連載を載せようと思っている。一つは現在進行中の『桓武朝の考古学』(歴史ライブラリー 吉川弘文館)のダイジェスト版、もう一つは、主に携帯から発信する『斎宮日記』である。後者は8月23日から始まる発掘調査に合わせて行う三重大学の授業日誌でもある。果たして酷暑の現場からどれだけ続くのか不安も一杯だが、今年の夏は海外へ行けそうにもないので、その分、国内研究に没頭しようと思っている。気づいたことがあればどしどしコメント下さいネ。
『桓武朝の考古学』(略して「桓武考古」)の第1回目(20回連載予定) プロローグ
「咲く花の匂うがごとき・・・」と唄われ、華やかな貴族社会が展開した奈良時代。その時代に大きな影を落としたのが聖武天皇後継問題であった。
孝謙-淳仁-称徳と異例の皇位継承が続いた王統は、称徳の死をもって新たな段階にはいった。
歴代の皇位継承をみると、天皇からその子(親王・内親王)へと継承される場合の政情は安定している。ところが、兄弟、甥、従兄弟など、他の皇族に継承される場合には、必ずしも政情は安定していない。
称徳後継は、称徳の遺詔を装って異母姉妹・井上内親王の夫・白壁王とされた。光仁天皇-井上皇后-他戸皇太子体制の成立によって、皇位継承問題は無事決着したかに見えた。
井上皇后は若かりし頃には藤原氏との関係から、幼少にして伊勢斎王にト定され、宮中から排除されていた。しかし、皇統断絶の危機に瀕して、聖武天皇(と県犬養広刀自)の娘として急遽脚光を浴びることとなった。井上内親王は称徳の死によって初めて政治の表舞台に登場することができたのである。既に白壁王との間に他戸親王が生まれていた。誰もが皇位安泰と考えたはずである。
ところが、これは世間の目を欺くダミーにすぎなかった。妖怪渦巻く政界には裏が準備されていたのである。その中心人物こそ、藤原四氏の中でも必ずしも厚遇されていなかった式家の藤原良継・百川であった。
宝亀3(772)年3月2日、井上皇后が天皇を巫蠱(ふこ)しているという報告が内裏に届いた。ただちに皇后の身柄が確保され、2ヶ月後には他戸皇太子も連座して配された。さらに翌年難波内親王呪詛事件がでっち上げられ、親子共に大和国宇智郡の没官宅に幽閉され、宝亀6(775)年4月27日変死の報が届く。毒殺されたのであろう。但し天皇、皇太子了解済みの「事件」であったことは言うまでもない。
ここに桓武朝の歴史ドラマの幕が切って落とされるのであった。本書は、かくもドラマチックなスタートを切りながら、必ずしもその実像については研究の進んでいなかった桓武朝を、考古資料を素材にして明らかにしようとする試みである。もちろん考古資料だけでは描ききることはできない。随所に文献史料、文字情報を織り込みながら、描いてみたい。
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