yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

連載・桓武考古-2 第1章 考古資料にみる王統譜への挑戦 ①

2005-08-03 10:40:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 
 

(鳥の絵を描いた土師器の皿。長屋王邸にはまるで動物園のように様々な動物が飼われていたらしい。)

桓武天皇以後の皇統が、前代の元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳天皇と継承された皇統と異なることは明白である。両皇統を接着する役目を果たしたのが光仁天皇であった。しかしそれは桓武朝創出のための措置であったことは井上皇后を巡る一連の「事件」が明確に示している。
 天皇という王統の延長上にあるとはいえ、あらたな王権を形成した桓武朝はその正当性を主張するために様々な「改革」を断行した。これまでにも、皇統の交替時には必ず何らかの新政策が採用されたが、桓武にとっての最大の問題は母・高野新笠が渡来系氏族の出身であったということであった。これを払拭するために光仁天皇が執った措置については既に述べた。
 もちろんこれが不十分なことは桓武立太子後の平城京を巡る様々な「怪異」が暗示している。反対派のブーイングの大合唱が巻き起こっていたのである。いかにしてこれを沈めるかに桓武(山部)の王としての能力が問われた。
 既に東野治之氏が明らかにしたように桓武が前面に押し立てた方針は出自を逆手に取った中国化政策であった。
 まず実行されたのが思想改革であった。王の資質、資格とは何かを述べた『春秋』の注釈書としてこれまでの「左氏伝」に代えて「穀梁伝」、「公羊伝」を持ち帰らせ大学で教育することにしたのである。帝王学の改変である。
 さらに教育・文化の根本に迫る改革を計画する。大学寮の伊予部家守を遣唐使に入れ、本場の中国語を学ばせた上で、発音の載る辞書『切韻』を持ち帰らせ、大学で講義させたのである。公用語としての中国語の導入である。桓武の中国への入れ込みようがよくわかる事例である。
王統の正当化論理の変更は当然様々な「もの」に変化を生み出す。平城京末期の都市・宮殿構造、中国文化を象徴するものから探ってみよう。
 
 1 平城京終焉前夜
 桓武王朝の政策変更は既に旧都平城京の都市構造の改変に見ることができる。象徴的な変化を見せうるのが、かつて長屋王の邸宅であった、宮城南東隅に接する宅地であった。



(写真は長屋王邸初期の段階の中心部全景。これが後に太政官厨家や仕丁の宿泊所に替わる)

【長屋王邸の末路】 平城京左京三条二坊一・二・七・八町は遷都当初長屋王の邸宅が設けられることが定められていたらしく、宅地の中央を十字に通るはずの道路は施行されず、4町が宅地として確保されていた。長屋王だけではなく、当時の政権の中心人物・藤原不比等の邸宅は宮城の東門に接して建設され、一族の邸宅も宮城の周りに配された。天武天皇の皇子新田部親王の邸宅が後の唐招提寺の伽藍として用いられたことは余りに有名である。左右京を通じて、当初の平城京は天皇とこれを支える高級貴族が首都の中枢部を押さえ、まるで王と貴族の町であるかのような様相を呈していたのである。
 ところが、8世紀末の光仁・桓武朝になると平城京の宅地利用が一変する。
 京内に多数の下級官人層や、諸国から集められた仕丁・兵士が日常生活を営む空間が保証され始めるのである。宝亀年間に出された写経生達の「月借銭解」には、彼らの平城京内の宅地を担保として出すことが記されているが、それによると、1町の64分の1から16分の1までの宅地を班給されていたことがわかる。
 同様にして宮城周辺部の宅地利用も一変し、貴族の邸宅群が排除され、中央官庁の現業的官司や天皇の離宮が集中する。その象徴が長屋王旧邸宅跡である。
 長屋王邸の北西部の宅地に当たる一町には太政官厨家が配置される。太政官に付属して太政官の台所として機能するほか、太政官配下にある八省の事務経費を賄うための財政運営を行っていた。その実態は長岡京太政官厨家の発見によって解明され、後に見ることができるが、遅くとも平城京末期において既にこの地に太政官厨家という現業官司が置かれたところに都市・平城京の実態をうかがい知ることができる。
 さらに興味深いのは、長屋王邸では南東部に当たり、池や広場などが配置されていた七町の変質である。
 1棟6坪(12畳)程度の小さな建物が密集し、所々に小さな井戸が配される宅地利用に大改造されるのである。後述する長岡京の事例からこれらの施設は諸国から都での肉体労働のために徴発された仕丁か、都の警備、造作のために集められた兵士の暮らした建物と推測できた。資料に欠けるため詳細は不明だが、おそらく二町や八町も同様の宅地利用に改変されたものと思われる。
 天皇・貴族・高級官僚・僧侶の住まう都から、「都市民」の活動する都市へと変貌を開始したのである。国家の顔が改められつつあった。



(図は報告書より接写。長屋王邸南東部。左京三条二坊七町の想定復原図)

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