yaaさんの宮都研究

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連載・桓武考古-5  第一章 ④遣唐使と宝菩提院廃寺半跏像

2005-08-26 23:56:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久しぶりの桓武考古である。
 今回は遷都前の代表的な動きとして知られる宝亀8年の遣唐使に着目してみよう。長岡京への遷都直前に新たな文化的、宗教的変革が起こったと考えている。

 
 
 (写真は日本最古の風呂跡。しかし無惨にも破壊されてしまった。宝菩提院廃寺の性格を正確に見抜けなかったからだと私は思っている。向日市埋蔵文化財センターの資料から転載)

 長岡宮城の北西部に接するようにして法起寺式の伽藍配置を取る白鳳期創建の寺院がある。今日の遺跡台帳では宝菩提院廃寺と呼称されているが、願徳寺と呼ばれていたらしい。当寺に所蔵されていた半跏像は、天平仏とは明らかに異なる新しい様式で、平安初期の仏像群の原型をなしたと考えられ、国宝に指定されている。
 半跏像がどういう来歴で当寺に入れられたのか、そもそも同仏は誰が、いつ作ったのかについては全くわかっていない。ところが1979年以後断続的になされてきた発掘調査などから、宝菩提院廃寺が、律令政府と深い関係にあることが明らかになってきた。新しい資料の発見である。

 同寺は従来の条坊復原では長岡京右京北一条二坊に位置したが、近年の北部の各種遺構検出状況から、「北苑」に所在した可能性が高くなりつつある。出土した墨書土器を分析した清水みき氏は、「大膳」と記した土器に着目し、同寺が、大膳職から食料を供給される特別な位置づけの寺院であったことを明らかにした。大膳職は官人の食料を弁備すると共に、内膳司へも食材他を供給したことが知られる。大膳職→内膳司→宝菩提院廃寺の流れを仮定すると、その立地や半跏像所蔵の経緯もおぼろげながら見えてくることになる。

 既に指摘されているように、桓武天皇は平城京内に所在した有力豪族の寺院の新京への移建を認めなかった。しかし仏教の崇拝を禁止したわけではなく、長岡京では遷都以前から所在した寺院を修造して使用したことが知られる。後に皇太子安殿親王の病気平癒を願って読経させた「京下の七寺」がそれである。その一つが宝菩提院廃寺であり、早良皇太子幽閉の地である乙訓寺であると推定している。
 ところで、東野治之氏は宝亀八(777)年の遣唐使の派遣の意義を、山部皇太子主導の中国文化、思想の集取にあるとする。特に大学寮の伊予部家守を派遣した目的は明白で、まず第一に、王権の正当性を強化するために『春秋』穀梁伝と公羊伝を入手し学ぶこと、第二に、『切韻』を入手し中国語の発音を学ぶことにあったという。日本文化の中国化政策の具体策の一つである。従来の遣唐使派遣目的の大転換であった。
 
 このような明確な意図をもって派遣された遣唐使が身近にあるとすると、宝菩提院廃寺に所蔵されている半跏像がこの時に生来されたか、同船によって来日した仏師によって製作されたと仮定することも十分可能となる。
 ではなぜこれほどまでの仏像が宝菩提院廃寺という一地方寺院に所蔵されていたのであろうか。その確実なところは不明であるが、先の墨書土器の発見と合わせて考えると、王権との関係を想定することはあながち突拍子もない発想ではなかろう。山部親王が新しい王権を形制するにあたり、新しい仏教、仏像の生来を宝亀八年の遣唐使に求め、得られた仏像を王権の寺院に施入したと考えたい。
 となると、宝菩提院廃寺は創建時は当該地の有力氏族(田邊氏か)の手になる寺院であったが、長岡京遷都後には王権の寺院となったと考えることも可能ではなかろうか。

 日本の古代王権は、舒明天皇の百済大寺、天智天皇の川原寺建立以来国家寺院と天皇の寺院を併設してきた。平安京においても東西二寺はそれぞれ両寺院に位置づけられたものと考えられる。では長岡京の両寺院はどこにあるのだろうか。有力な寺院が宝菩提院廃寺と乙訓寺である。両寺はいずれも右京にあり、前代の寺院とは異なるが、早良親王が幽閉されたのが乙訓寺であることからするとこちらが国家寺院として機能したのかも知れない。すると、宝菩提院廃寺は天皇家の寺院ということになる。桓武天皇にとって、新しい仏教こそ新都に相応しいものであった。

 ついでに忘れてはならないのが宝菩提院廃寺出土の風呂跡である。
 現地説明会などの資料によるとこの風呂跡は9世紀後半のものだとされているが、本当だろうか?
 そもそもこれほどまでの風呂跡はどこを探しても見ることができない日本一の風呂である。なぜこのような立派な風呂がこの寺院に設けられたのか。当然先に述べた王権との関係以外にないと思われる。天皇家の寺院であるからこそこれほどの風呂が設けられたものだと私なら直ぐに発想する。
 
 (にもかかわらずこの石敷きの発見当初多くの「発掘調査員」がこれを「土器焼成土壙」だと言って平気だった。私は即座に否定し、移建を申し上げた。「宝菩提院ほどの最高級の寺院の内部にどうして「土器焼成土壙」が必要なのか?これは日本でも珍しい「風呂跡」ではないか」と。その後全国の「発掘調査員」のトップに立つ文化庁の調査官がこの遺跡を見に来て「こんなもんどこにでもある」とのたもうてお帰りあそばされたという。その結果、日本最古でかつ日本一の風呂跡はあっけなく破壊されてしまった。権力だけを振りかざして、己の無知を自覚もせずに「指導」する今日の文化財行政の典型的な姿である。そしてその権力に頼って保存の労苦を行わず、形式的な言い逃れ的な講演会をして破壊は己のせいではないと、言い訳の行事を行って平気なのが「発掘調査員」である。遺跡は残してなんぼである!!あらゆる努力をして保存に奔走する、この「魂」なくして遺跡は残らない、と思った瞬間である。)

 当時の最高級の風呂を持つ寺院は長岡京期に天皇家の寺院として位置づけられたからこそ、その後も維持され続け、地名-向日市寺戸-にまでその威厳を残したのである。(なお、私はこの風呂は長岡京期に設けられたものだと思っている。9世紀後半建設の根拠は必ずしも明確ではない。この風呂の直ぐ西側の一段高い位置から1979年に大規模な井戸が発見され、中から「大膳」他の墨書土器が出ているのである。位置的にも長岡京期の風呂である可能性は極めて高いと思っている。)宝菩提院廃寺は並の寺ではない!!



(現地説明会資料より。平面図)

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