yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

東国見聞記-3  三十三間堂遺跡の未来

2005-08-19 22:54:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  (写真は三十三間堂遺跡の政庁南西コーナー柵列)

18日の午後お疲れの今泉さんの車でさらに南を目指した。名取川を越え、阿武隈川を越えて、石城・石背の国に入った。亘理郡の郡衙正倉院と政庁の跡である三十三間堂遺跡を見学するためだ。わざわざ私たちのためにシートをはずして見せて頂けた。有り難いことだ。この遺跡は全く初めてだったので、大変印象に残った。

教育委員会の鈴木さんがいろんな資料を用意してくれていて懇切丁寧にお話ししてくれた。これまでにも城柵官衙遺跡検討会で何度もこの遺跡の報告を聞いたはずなのだが、不覚にも私は遺跡を勘違いしていた。この遺跡は9世紀以降の亘理郡衙跡なのだという。3~4時期の時期変遷を取り、最後に礎石建物になるという。それだけでも驚きだった。郡衙の終わりの頃じゃないか?どうして?

さらに現地で驚いたのは、随分激しい傾斜地に余りきちんと造成もせずに郡衙建物を建設していることだった。もちろん土取り跡がいっぱいあって、その土を造成に使ったのだというのだが、なぜ傾斜地を選んだのだろうと首を傾げたくなる。もちろん阿武隈川を眺める絶好の土地であることは言うまでもないが、それが9世紀以降というところがどうも・・・・。

おそらく8世紀代(或いはそれ以前)の郡衙施設はもっと他にあるのだろうが、今のところ見つかっていないという。今泉さんの話によると、亘理は当然阿武隈川を渡ると言うところから付いた郡名で、曰理(wetsuri)が亘理(watari)に転じたのだという。渡った先の名取郡には玉前剗がある。阿武隈川の水運と東山道と浜通との結節点である。剗と関の違いなど車中でもいろんな話を聞くことができたが、それはなたいずれ鈴鹿関でも掘った時にお話しすることにしよう。

政庁跡を見学した後、直ぐ南に残る正倉院を見に行った。実にたくさんの礎石が現地に残っている。だからこれが「三十三間堂」と呼ばれたのだという。納得してしまう。これらも9世紀以降のものなのだろうか。もしそうだとすると正倉が維持できなくなる頃のものである。ひょっとして正倉院は古いのかも知れないなー、等と勝手に思って帰ってきた。三軒屋遺跡と三十三間堂遺跡、東国の代表的な二つの正倉院を見てただただ感動したが、この成果を生かさなければ。先の堀方も含めて宿題ばかりが残った東国見聞だった。



(写真は正倉院の礎石)

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東国見聞記-2  多賀城政庁脇殿調査の変遷

2005-08-19 17:30:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

17日、高崎-大宮間で止まってしまった新幹線を避けて、快速で1時間20分もかかって大宮に辿り着き、何とか新幹線に飛び乗ることができた。待ち合わせ時間に1時間以上遅れて今泉さんに会い、美味しいお酒と肴に舌鼓をうった。考古学が歴史学になっていないと、ここでも考古学の現状を二人で憂えた。実証主義と資料提示とは違うのだということをほとんどの発掘調査員は分かっていない。印象的だったのは「論理が正しければ間違うことはない。正しい論理をいかに構築するかだよ。」「学問は資料の提示ではない。仮説を立てて、論証ること。仮説が新しい資料によって論理的でなくなれば、新しい資料を下に論理を組み立て直せばいいんだよ。」という言葉だった。一流の学者の言うことには重みがある。

思い切り呑んだにもかかわらず、翌日には再び今泉さんの運転で、久しぶりに多賀城政庁を訪れた。
多賀城政庁の西脇殿の再調査だという。新しい成果が見つかったようだが、それはまた研究所からの発表に待つとして、私が印象的だったのは、遺跡の調査方法であった。といってももちろん現在の調査方法ではない。そして過去の調査方法でもない。調査とは一体何かと言うことである。

最近の発掘調査は大半が開発に伴う事前調査で、記録保存という破壊を前提としている。だから調査担当の大半は破壊されることを覚悟して発掘せざるを得ない。時間とお金に制約されて、何層にもわたる遺構を発掘するとなると、一体どの時点で一般公開するのかも大きな問題となる。もちろんもっと重要な問題は保存すべき遺跡かどうかをどのように判断するかである。すべてを残せればいいのに決まっているが残念ながらそうはいかない。どれを残し、どれを破壊するか、どれを手際よく破壊し、どれを集中的に掘るかも調査員の手腕である。

もっとも99%は破壊されるから、大半の調査員はそんなことを考えているゆとりもないし、その心構えもない。そんな状況だから大学によっては「行政調査」に学生が参加することを嫌うところもある。早くから「悪しき」習慣を付けないようにとの配慮からだ。もっともである。但し私はそんな現実を目を凝らして見るために参加させるが・・・。

破壊が前提だとどうなるか。遺構は完全に掘りあげる。ピットの断面も、溝のあぜも全部掘り尽くす。しかし、学術調査の場合はそうではない。再び誰かがこの遺跡の調査を検討し、報告された内容に疑問を持って、再調査する場合を考えて、必ずあぜを残す。或いは左右対称と考える遺跡なら半分しか掘らない。長岡京旧東院も市の史跡として残すことになったから私はピットは半分しか掘っていない(にもかかわらず、その上に最近建てられた建物の調査を誰もしよう!とは発言せず、いつの間にか破壊し闇へと葬り去ってしまった。信じられない悪行である。)。

残念ながら多賀城の過去の調査はそうではなかったらしい。再調査の必要が生じ、かつて掘られたところを開けてみると、上層にあった基壇は余り重要ではないと考えられたのか、完全に掘り下げられ、その下層から発見された第Ⅰ期のピットも底まで畦を残すことなく掘りあげられていた。今回の調査によって過去に掘られなかったところから新しい成果が出たにもかかわらず、その成果を過去の成果と結びつけて検証できないのだ。
先に紹介した枇杷形をした一対の堀方にしても、残念ながら、失われた第Ⅲ期の遺構との厳密な関係の検証はできない。だからといってもう40年近く前のことを非難するつもりは毛頭ない。今の私たちが考えるべきは、自分たちの技術を過信せず、己の論理を絶対視しないで遺跡をいかに掘ればいいのかである。

己の能力を過信して天狗になる人(私は天狗ぐらいならまだましだと思う)、己のパフォーマンスのために他を排除する人(まるで今の小泉みたいだ)、資料を抱え込んで自分でだけ処理しようとする人(これは最低だ)等々、周りを見ても随分といる(これも考古学の原始的なところ、非学問的なところである)。常に自分の論理(調査での一鍬一鍬も同じ「論理」である)を疑いながら、検証を重ねていく、この姿勢があれば、どれを残すべきか、どこまで掘っていいのか(或いは逆にどこまで掘らなければならないのか)をイメージすることができるはずだ。多賀城の現場で強く思ったことである。


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東国見聞記-1  「八面甲倉」に会う!!

2005-08-19 11:23:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
お久しぶりです。一時京都へ帰って参りました。この間見聞きしたことを何回かに分けてご報告いたします。題して「東国見聞記」です。
既に携帯メールから簡単な報告をした通り、八月十六日に伊勢崎市の現地を訪れ、「八面甲倉」と対面してきました。想像以上のド迫力でした。①柱堀方や根石据え付け穴が大変大きいこと、②過去の八角形建物とは違い、総柱建物の各辺を伸ばしながら八角形にするという特異な技法で八角形にこだわった建物を建てていること、③下層の「八面甲倉」の時期が7世紀末から8世紀初頭の時期である可能性があるということ、④南辺の中央の南6m前後に一対の堀方があり、長辺の断面の形状が直角三角形状を呈し、堀方の南端がもっとも深く、壁が真っ直ぐ掘られていること、⑤「八面甲倉」の周辺15m前後の範囲には建物などが一切設けられていなかったこと等、これまでに見た地方官衙の施設としては異例の壮大さであることを実感いたしました。

当日はお盆の最終日であるにもかかわらず、現場では最後の実測にたくさんの作業員の方々が作業に専念され、緊張感が溢れていました。そのようなご多忙な中、出浦さん、坂爪さんから懇切丁寧なご説明を受けることができました。特に直ぐ北にある校舎の屋上から見学させて頂いたことによって、周辺の地形や立地、これまでの発掘調査の位置関係を一気に了解することができました。改めて御礼申し上げます。

屋上から眺めながら思ったことはなぜこれを「中南行第一」と『実録帳』が表記したのかということでした。発見された倉庫群が東西に列をなしていることから各列を指して北、中、中南などと表現したことはよく分かりました。『実録帳』では中南行に二行や三行が記されており、仮に「八面甲倉」を中南一行であったと仮定すると、現場ばから発見されていた総柱建物は二行に、昨年のプール建設時の建物が三行になる可能性があります。もちろんこうした記載は現実のものである可能性は低く、特に今回見つかったものが八世紀を前後する時期のものだとすると、それはまさに律令国家創建期に建設された郡衙正倉の姿ということになる上、その時から既に「八面甲倉」が設けられていたことを意味します。『実録帳』は一一世紀のもので、国司交替時の引き継ぎ書ですが、既にこの頃の『実録帳』は実態とかけ離れていたといわれます。ですから、中や中南の表記にとらわれる必要はないのですが、少なくとも数年前から始まった発掘調査によって、「八面甲倉」の前後(南北)に列をなして倉庫群があることが判明していることは大変重要だと思います。



さて、「八面甲倉」の正面から見つかった一対の堀方ですが、驚いたことに昨日訪れた多賀城政庁の西脇殿の調査でも、南北棟に推定される西脇殿の第Ⅲ期建物の正面にやはり一対の平面形「枇杷形」、断面形直角三角定規状の堀方が見つかっていた。その位置は建物の中心よりやや南よりの正面で、異なるのは、底部が少し袋状に掘り込まれている点であった。一体これは何であろうか?

第一案は階段の構造物の一つ、第二案は幢管支柱である。もちろんいずれも問題がある。第一案ではこれまでに階段施設としてこのようなものが見つかっていないという問題がある。第二案では、なぜ「八面甲倉」や多賀城政庁に「幢」を立てたのかということである。しかし、日本古代宮都の正面に極めて日本的な儀礼のシンボルとして宝幢を立てたことが実証された以上、記録にないからといって、同様の行為を国府や郡衙で行わせなかったとは限らないのである。ひょっとしたら多賀城政庁正殿前面にも宝幢があるかも知れない・・・。そんな妄想を抱いた次第であった。でも真面目に地方官衙における儀礼を調べてみようと思う。

だから発掘調査はおもしろい!!やめられない!!何せ歴史を書き換えるのだから。

現場を後にするに際して思ったことは、やはりこの壮大な遺跡の保存でした。もちろん今回の建物は皆さんの努力で現状保存されることが決まり、予定の体育館施設は別のところに建てることになったようです。しかし、その予定地も正倉院の一角である可能性が大です。おそらくこの遺構群、佐位正倉院は確実に小学校の校庭全体に広がっていると思われます。だから、小学校(埴蓮小学校)を近くへ移転し(西に広がる水田地帯は低湿地で、おそらく古代には水田に利用されているくらいで―もちろん水田だって大事ですが―学校を建てるのには問題ないと思います。)、小学校全体を史跡指定して学校の建物を歴史博物館として改葬し、伊勢崎市の歴史文化の拠点として活用するというのがベストだと思ったのですが、いかがでしょうか皆さん。また市長に具申しようかな!



(多賀城政庁西脇殿前の堀方)


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