(写真は三十三間堂遺跡の政庁南西コーナー柵列)
18日の午後お疲れの今泉さんの車でさらに南を目指した。名取川を越え、阿武隈川を越えて、石城・石背の国に入った。亘理郡の郡衙正倉院と政庁の跡である三十三間堂遺跡を見学するためだ。わざわざ私たちのためにシートをはずして見せて頂けた。有り難いことだ。この遺跡は全く初めてだったので、大変印象に残った。
教育委員会の鈴木さんがいろんな資料を用意してくれていて懇切丁寧にお話ししてくれた。これまでにも城柵官衙遺跡検討会で何度もこの遺跡の報告を聞いたはずなのだが、不覚にも私は遺跡を勘違いしていた。この遺跡は9世紀以降の亘理郡衙跡なのだという。3~4時期の時期変遷を取り、最後に礎石建物になるという。それだけでも驚きだった。郡衙の終わりの頃じゃないか?どうして?
さらに現地で驚いたのは、随分激しい傾斜地に余りきちんと造成もせずに郡衙建物を建設していることだった。もちろん土取り跡がいっぱいあって、その土を造成に使ったのだというのだが、なぜ傾斜地を選んだのだろうと首を傾げたくなる。もちろん阿武隈川を眺める絶好の土地であることは言うまでもないが、それが9世紀以降というところがどうも・・・・。
おそらく8世紀代(或いはそれ以前)の郡衙施設はもっと他にあるのだろうが、今のところ見つかっていないという。今泉さんの話によると、亘理は当然阿武隈川を渡ると言うところから付いた郡名で、曰理(wetsuri)が亘理(watari)に転じたのだという。渡った先の名取郡には玉前剗がある。阿武隈川の水運と東山道と浜通との結節点である。剗と関の違いなど車中でもいろんな話を聞くことができたが、それはなたいずれ鈴鹿関でも掘った時にお話しすることにしよう。
政庁跡を見学した後、直ぐ南に残る正倉院を見に行った。実にたくさんの礎石が現地に残っている。だからこれが「三十三間堂」と呼ばれたのだという。納得してしまう。これらも9世紀以降のものなのだろうか。もしそうだとすると正倉が維持できなくなる頃のものである。ひょっとして正倉院は古いのかも知れないなー、等と勝手に思って帰ってきた。三軒屋遺跡と三十三間堂遺跡、東国の代表的な二つの正倉院を見てただただ感動したが、この成果を生かさなければ。先の堀方も含めて宿題ばかりが残った東国見聞だった。
(写真は正倉院の礎石)
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18日の午後お疲れの今泉さんの車でさらに南を目指した。名取川を越え、阿武隈川を越えて、石城・石背の国に入った。亘理郡の郡衙正倉院と政庁の跡である三十三間堂遺跡を見学するためだ。わざわざ私たちのためにシートをはずして見せて頂けた。有り難いことだ。この遺跡は全く初めてだったので、大変印象に残った。
教育委員会の鈴木さんがいろんな資料を用意してくれていて懇切丁寧にお話ししてくれた。これまでにも城柵官衙遺跡検討会で何度もこの遺跡の報告を聞いたはずなのだが、不覚にも私は遺跡を勘違いしていた。この遺跡は9世紀以降の亘理郡衙跡なのだという。3~4時期の時期変遷を取り、最後に礎石建物になるという。それだけでも驚きだった。郡衙の終わりの頃じゃないか?どうして?
さらに現地で驚いたのは、随分激しい傾斜地に余りきちんと造成もせずに郡衙建物を建設していることだった。もちろん土取り跡がいっぱいあって、その土を造成に使ったのだというのだが、なぜ傾斜地を選んだのだろうと首を傾げたくなる。もちろん阿武隈川を眺める絶好の土地であることは言うまでもないが、それが9世紀以降というところがどうも・・・・。
おそらく8世紀代(或いはそれ以前)の郡衙施設はもっと他にあるのだろうが、今のところ見つかっていないという。今泉さんの話によると、亘理は当然阿武隈川を渡ると言うところから付いた郡名で、曰理(wetsuri)が亘理(watari)に転じたのだという。渡った先の名取郡には玉前剗がある。阿武隈川の水運と東山道と浜通との結節点である。剗と関の違いなど車中でもいろんな話を聞くことができたが、それはなたいずれ鈴鹿関でも掘った時にお話しすることにしよう。
政庁跡を見学した後、直ぐ南に残る正倉院を見に行った。実にたくさんの礎石が現地に残っている。だからこれが「三十三間堂」と呼ばれたのだという。納得してしまう。これらも9世紀以降のものなのだろうか。もしそうだとすると正倉が維持できなくなる頃のものである。ひょっとして正倉院は古いのかも知れないなー、等と勝手に思って帰ってきた。三軒屋遺跡と三十三間堂遺跡、東国の代表的な二つの正倉院を見てただただ感動したが、この成果を生かさなければ。先の堀方も含めて宿題ばかりが残った東国見聞だった。
(写真は正倉院の礎石)
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