yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

なぜこんなに悲しいことばかり

2014-02-04 16:15:34 | yaasan随想
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今朝友人からのメールで知りました。年末の今泉さんに続いてあまりに残酷です。
今、通夜に向かっています。

山中章


山中 章
1時間前
西畑が昨夜亡くなりました。わずか四ヶ月の闘病生活でした。ついこないだ、広島からの帰り、相生を通った時、見舞いによればよかったと、思ったばかりでした。後悔先に立たずです。

年末に見舞った時、これから抗がん剤治療で、少しよくして、あと五年は頑張るんや!と言ってたのに。結局それもできなかったようです。

もう一度見舞うか、迷いました。体力を使うから、手紙にしよう!と、今朝から書き始めたところでした。

彼は、私の一つ年下の後輩です。それも、彼は国史、私は考古。普通なら接点はないのですが、広島大学ではその頃、教養にはクラスがあって、二年間いろいろな接点が設けられていました。なぜか、考古は国史とセットでした。定員が五人なので、どこかと一緒にしないといけなかったのでしょう。

だからと言って後輩との接点は普通ありません。1970年といえばまだ少し大学闘争の火が残っていました。まだ少し元気が残っていた私は、後輩たちを誘って講演会に行きました。そんな中に彼はいました。でも、彼を後輩だとは誰も思いませんでした。珍しく院生がきた!と思いました。すでに今と変わらぬ風貌を彼はしていました。ただし彼も、私と同じく二浪していましたので、他のものより老けているのは仕方ありません。年末に会った彼は、そのときのままでした。

その後の彼は、高校の先生になりました。ちょうど一年前に出した著作のあとがきによると、子供達に親しまれた先生だったようです。そして、とても素敵な同僚と出会ったようです。

著作『近世入浜塩業の研究』のあとがきによると、たくさんの仲間と研究会をし、著作の基礎を作っていたそうです。五年ほど前に、京都で会った時、その構想を熱心に語ってくれました。

広大を石をもて追われた仲間や、お前もちゃんと本を出せ!と、わけのわからない激励?をしたものです。その時一緒だった天理大学教授の谷山さんがずっと出版に向けて援助したと聞きます。その甲斐あってちょうど一年前、著作は完成しました。

近世史など全くわからない私には、その研究史的な評価はできません。でも、字間にほとばしる才気は読むものに鬼気迫る迫力がありました。

そして、私と同じく、広大で学位を取りました。今年の一月末のことです。

学位授与式には出られなかったそうです。ても、嬉しかったに違いありません。

心からおめでとう!と言いたいです。せっかく仲間が増えたのに、私の後輩のくせに、先に逝ってしまいました。悲しいです。悔しいです。

ま、先に逝ったのだから、地上で飲めなかった酒を練習しとけ!私も、そんなに待たせんから!あの世で大宴会しようぜ。
おっさん、さらば

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