yaaさんの宮都研究

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高橋さんとの思い出-3  木簡研究への道の条

2006-12-10 01:49:18 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 私は長岡京研究を振り返る時いつも、中山修一先生が長岡京研究の創始者だとすれば、浪貝毅さんがその継承者、そして高橋美久二さんが発展者だと位置づけている。この三人の偉大な研究者なくして今日の長岡京研究はあり得なかった。

 中でも今日の科学的研究の基礎を築いたのは紛れもなく高橋美久二さんだと確信している。

 私が強く思う高橋さんの最も大きな功績は、誰にもまねのできない全体像を確実に描いた上での構想力だ。戦略があるというとどこか堅苦しいが、研究者には数少ない正確な洞察力に基づく戦略と戦術の明確な方だったと思う。その俎上に乗せていただいたのが長岡京だった。

 まず、長岡京全体の調査を全て再点検され、年代順に並べられて、調査次数を決定され、以後全ての調査を担当機関の別なく宮・左京・右京に分けて整理する方法を提示されたのである。さらに大字・小字を記号化され、調査地点が何処かをある程度の精度で理解しやすくされたのである。高橋さんの明晰さは、単なる記号化でも、順番の整理でもない。その根底に学問のわかりやすさ、整理のしやすさが横たわっているのである。ここが並の人間にはできない、高橋さんにしかできない能力なのである。だから、その高橋さんが逝ってしまわれた損失の大きさが私には身にしみるのである。
 今日長岡京の発掘調査が何回かを直ぐ示すことができるのは、まさに高橋さんのこの構想があったからである。

 
(長岡京左京13次調査出土木簡はその後このように真空凍結乾燥処理されて永遠にその美しい姿を残すことになった。その一本一本に思い出がこもる。)

 私にとって、生涯忘れられないのが、高橋さんと共に整理した長岡京左京第13次(7ANESH地区:7は平安時代、Aは宮都・官衙、Nは長岡京(Nagaokakyou)のN、Eは大字鶏冠井町、SHは小字沢の東(SawanoHigashi)を記号化した高橋さんの業績の一例である)発掘調査から出土した木簡であった。京都大学の岸俊男先生、奈良国立文化財研究所の狩野さん、横田さん、加藤優さん、今泉さんをお呼びになって、あっという間に木簡の整理をなさったのも実は高橋さんのお陰だった。木簡が出たと聞くや直ぐに現場にやってこられ、直ちに清水で洗って、釈読の準備をされ、私に木簡を容れる薄い容器を手配するように命じられた。上司と掛け合って、50ほどのバットを買い入れると、次は「布団」作りだ。木簡が傷つかないようにガーゼを何重にも重ねて縫うのである。

 連日真夏の狭いプレハブで、奈文研の方々が毎日木簡を読まれる。外では上がってきたばかりの木簡を高橋さんが洗われる。私は開発業者と連日遺跡調査期間の延長と木簡出土遺構の確保について協議を重ねる。最後には府会議員にまで呼び出され、「調査期間の延長が業者の倒産にもなりかねない」と調査の収束を求められたが、皆さんの真剣な目を見ていると自ずと協議にも力が入った。

 そんな成果を高橋さんは私と一緒に「木簡研究集会」で報告せよと仰る。恐れを知らない私はおそらく錚々たるメンバーの先生方がいらっしゃったのだろうが、臆することなく調査状況を報告することになる。さらに、発表内容を『月間文化財』に書けと仰る。この雑誌の重みなど全く知らない私はこれまた持ち前の図々しさで、拙い文章を高橋さんと連名で記すことになる。これがきっかけで、今なら厳しい審査でないとはいることの出来ない木簡学会に潜り込むことになったのである。

 その後同じ開発業者が隣接地を次々と開発し、左京第22・51次と発掘調査が続き、第51次調査から強力な助っ人・清水みきさんを得て、長岡京の木簡研究は一挙に花開くことになる。後に知ることになったのだが、清水さんが木簡研究に携わるきっかけもまた、高橋美久二さんの一言「今向日市で木簡が出てるから明日からそちらの現場に行きなさい」があったからだという。高橋さんと清水さん、この二人の研究者がいなかったら、長岡京の研究は現在の水準に達していなかったに違いない。今年の木簡学会に高橋さんの姿を見ることが出来なかった。討論の司会を任された私は、始める前に、密かにご冥福をお祈りした。「有り難うございました」と。

 その後、この左京第13・22・51次発掘調査出土木簡は今泉隆雄さんの研究と清水さんの陰の力で『長岡京木簡一』として刊行されることになった。しかし、高橋さんはその刊行を裏で支えていただくことはあっても、決して表に出て、原稿をお書きになることも、指図をなさることもなく見守ってくださった。今頃になって気付いたのだが、そこにこそ高橋さんの偉大さがあったのだと思う。業績を独り占めにせず、分かち合い、後輩を育てるために人知れず支え、自信を付けさせる。一流の研究者が陥りがちな独善とは無縁の方であったことを今強く思い知らされるのである。

 残念ながらその木簡が長岡京から発見されなくなって久しい。これは決して偶然ではない。長岡京研究に対する姿勢が違うからだと思う。研究とは無縁の「発掘調査技師」が調査に当たりはじめて、木簡は世に出なくなったのだと思う。同じことを生前、昨年の木簡学会の折り、高橋さんが仰っていいた。「どうして一番木簡が読める人に木簡を読ませないんだ!こんなことをしていたら長岡京の研究が駄目になる!」と語気を強く。研究は、権力や出世欲、名誉欲とは無縁であることを示された方だっただけに、この言葉の重みは計り知れない。

 高橋さんを失った意味を、その重大さを、あらためて思い知らされるのである。

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