yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-4  平凡社刊『地名辞典』の条

2006-12-10 16:16:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 原稿を書くことがいかに研究者にとって大事なことかを高橋さんは一番よく知っておられたと思う。文献史学では当たり前でも、考古学では必ずしもそうではなかった。その悪い風潮が最近ようやく改善され、次々と若い研究者の著作が刊行されるようになったが、私はその重要性を最も意識されていたのは考古学者では高橋さんだったと思う。

 そんな高橋さんの御配慮とはみじんも思わず、私は平凡社の地名辞典の一つ(確か第1回配本だったと思う)『京都府の地名』の数項目を担当させていただくことになった。長岡京のことなら少しは理解しつつあったが、向日丘陵上の古墳のことなど全く勉強すらしていない。確か年末頃が締め切りだったと思う。あちこちの資料を寄せ集めて自宅の一室に籠もって必死に原稿を書いていた。

 その時「事件」が起こった。
 徹夜覚悟で小さな座り机に向かって資料をそこら中に散乱させて原稿を書いていたのだが、ふと眠くなって、横になったらしい。どれくらい時間が経ったであろうか、ふと気付くと目の前が真っ暗だった。妻が気を利かして電気を消したのだろうか?朦朧とした意識の中で何となくそんなことを思いながら起きあがろうとすると、どうも雰囲気が違う。暗さが違うのである。真っ黒なのである。
「ウン?!!」
大慌てで直ぐ横の障子を開け、妻をたたき起こした。
ストーブが不完全燃焼して部屋中に煤を充満させていたのだ。もうほとんど寝ていた私の顔当たりまで煤は降りてきていた。幸いなことに障子で隔てられた向こう側は全く異常なく、私の使っていた部屋と(後で判ったのだが)階段で繋がっていた二階の部屋が真っ黒けだったのである。もちろん私の鼻の中は真っ黒け、さらに二階に置いてあった、下の妹の婚礼用家具が煤で真っ黒になってしまったのだ。おそらくもう1時間遅かったら死んでいたことだろう。後から思うとぞっとした。

 そんな「事件」も今となっては高橋さんが下さった貴重な経験と懐かしく思えると共に、きっと高橋さんが与えてくださった試練だったのだと思えてくる。あの時原稿を書かせてくださらなかったら私はどこにでもいる「発掘調査技師」の一人に過ぎなかった。あるいは新人の「発掘調査技師ストーブの不完全燃焼で事故死」で終わっていたに違いない。

 その後も次々と原稿を書くようにと指示があり、拙い文章を書きためることになった。お陰で文章を書くことが苦にならなくなり、年度末にあの黒い向日市の報告書を作ることはいつしか楽しみにもなった。

 実はこの報告書にもいろいろな思い出がある。
 私が作った最初の報告書は『向日市埋蔵文化財調査報告書第3集』だった。実際は、向日市教育委員会として刊行された記念すべき第1集だったのだが、私には何となく気の引ける思いがあった。いろいろ調べていく内に浪貝毅さんが作成された2冊の薄い原因者負担の報告書のあることが判った。高橋さんとも相談し、これを第1・2集とし、向日市教育委員会が初めてお金を出して作った報告書を第3集としたのである。もちろんその最初に載ったのが私の初めての長岡京の調査「長岡宮跡第68次(7AN10B地区)発掘調査報告」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第3集-(1979)』 向日市教育委員会・長岡京跡発掘調査研究所 1979年 京都)だった。そして続いて刊行したのが(諸般の事情で第3集の方が新しい年号になっているが)、例の木簡の発掘調査成果をまとめた第4集「長岡京跡左京第13次(7ANESH地区)発掘調査報告」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第4集-(1978)』 向日市教育委員会 1978年 京都)だった。
 もちろん報告書は高橋さんの厳しいご指導のもとできたのだった。遺物整理、土器・木器実測、トレース、写真撮影、レイアウト、原稿、目次等々全て高橋さんによる手に手を取ってのご指導であった。西国街道沿いの旧農協施設を改造した教育委員会の裏の狭い場所で、実に懇切丁寧にご指導下さった。その時実測に、トレースに遺物整理に携わった人間が長く乙訓の文化財を支えることになる。ここにも高橋さんの鋭い構想があったと思う。

 第7集から報告書の色を高橋さんに内緒で真っ黒にした。実はこの報告書が清水さんのデビュー作でもあった。20 「長岡京跡左京第51次(7ANESH-4地区)~左京二条二坊六町~発掘調査概要」(『向日市埋蔵文化財調査報告書-第7集-(1981)』向日市教育委員会 1981年 京都)高橋さんに指示されて向日市で出土したばかりの第51次調査の木簡を釈読するだけではなく、「発掘調査技師」の日本語にならない文章に厳しい朱を入れ続けてくださった。Y印刷のGさんが、まだコンピューターのない時代の写植の最終校正にまで大幅な朱が入り、悲鳴を上げられていたことを鮮明に覚えている。向日市の報告書がやっと世間並みになった瞬間でもあった。

 京都府庁に完成品を持っていった時の高橋さんの反応は微妙だった。
「ヒエッ、アナーキーやな・・・」きっと高橋さんの脳裏に広島大学の知人達から得ていた私の情報が頭をよぎったに違いない。でもそれを咎めるでもなく、中味を点検して、いろいろとアドアイスだけをいただいた。ちょっぴり独り立ちしたかなと思えた瞬間だった。もちろん所詮、高橋さんの掌中で踊っていたに過ぎないのだが・・・。

 いつしか向日市の報告書の色も変えられてしまったが、高橋さんの「心」を受け継ぐ報告書は、私の研究室の報告書『三重大学文化財調査研究報告書』の真っ黒な表紙(現在まで4集を刊行した)として刊行している。間もなく、高橋さんに最後までご心配いただいた鈴鹿関の報告書が姿を現す。

 いつまでもいつまでも「心」を継承していきたい。

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