yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

南京・鳳陽・開封報告-3 やっと南京城が見えてきましたの条

2009-09-19 00:16:46 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 これまで2回も来たのにとんと六朝時代建康城・明代南京城のイメージを頭に浮かべることができていなかったのですが、今日の探訪でやっと見えてきました。
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 9月16日は日本では新政権誕生の日でもあった。時々iphoneでニュースを見ながら遺跡の探訪を続けた。午前中は明代の南京城の城壁を回り、午後から各所に残る門跡を探訪した。



 この赤い星印が出発点の城壁(南京城には宮城-皇城-内城-外郭城の4つの城壁がある。その外から二番目の内城の城壁である。)北辺(故宮の北方の城壁)である。ここで南京市の楊さんに会い御案内いただいた。もちろんここも三回目なのだが、今回ようやく自分がどこをどう歩いているかきちんと認識することができた。ホント、いいかげんな記憶力である。
 
今日の御案内役は南京市の楊さんである。どちらかが楊さんでどちらかが馬さんなのだが・・・?? 前から撮るのも失礼かと思い、後ろから撮らせて頂いたらよく判らなくなってしまった。ごめんなさいね。





 この城壁は北へ延びるもので、楊さんの説は光武19年に拡張したものだという。彼によればこの拡張部といわれる地区に残る北西-南東方向の流路を根拠に本来この方向に延びていた城壁が撤去されて今の形になったのだという。
 ちなみにこの



 北に延びる城壁を北から結合部に向かって撮ったところ。



南京城の復元模型。東側にあった池を埋め立てて故宮を造営したという。風水に従ったものだ。



故宮を南から見たところ。



城壁の向こうには玄武湖が広がる。玄武湖の南辺に沿って故宮北側の城壁が東西に、西辺に沿って。北拡張部(この北側の地域には軍隊が駐留したという)の城壁が南北に設けられている。



昼食の後、故宮を歩くことにする。宮城の南端には護城河が流れている。



河に沿って南の城壁が平行して設けられ、中軸線上には正陽門が建設されていた。ていた。



ここから北に向かって御道街を歩く。





宮城の門である午門の前に置かれた外五龍橋である。



御道街小学校で遊ぶ子どもたち。私の小学校入学時の学校は朱雀第三小学校。親戚のような学校である。とても親しみを感じながらさらに御道街を北上した。この校庭の南側辺りから南にかけて社稷壇が設けられていた。





午門である。真ん中の3つの門道と両側の二つの門道の外側には本来闕が付いていたが破壊されてしまった。



中央門道の敷石。とても大きな石が見事に並べられている。両側に轍が掘り込まれている。



内五龍橋である。悲しいかなこの橋の架かる堀は全く浚渫されておらず、臭くて臭くて仕方がなかった。必要もないのに中心道路の舗装をやり直す金があるなら、もっとちゃんと掃除しろよ!南京市。



その後付いた轍。誰が、どの様にしてこの轍を刻んだのかが議論になったがよく判らなかった。



午門から御道街を見る。左手が太廟、右手が社稷壇(御道街小学校の南辺りから始まるという)。



午門の復元整備図。なぜか闕は復元されなかった。残念。



午門の上部の現状。



午門門闕の跡に残された右の門闕の門跡の方立てと軸受け。





いよいよ中枢部へと入っていきます。奉天門の跡から奉天殿を経て内部へ。



この後に後宮が展開した。


まだまだ続くのです。本当は、スライドショーをすればいいのですが、その仕方を忘れてしまったのでとにかく写真をどんどんアップしていきますが時間がかかるのでとりあえず今日はこの辺で。何とか行程の3分の1を終え、今日から安徽省鳳陽です。ここは朱元璋の出身地でもあり、明の中都が置かれたことでも知られています。明日は朝早くから市内見学です。この続きはまた明日。

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