昨年末、2014年12月22日は、冬至でした。
現代では余り注目されることのない冬至。本来冬至を祝う儀式であったはずのクリスマスがキリストの生誕日にすり替えられ、日本では特に、冬至など意識せずに大はしゃぎしています。そんな冬至は世界中でかつては暦の始まりとしてとても大切にされてきた日でした。では、日本で初めて冬至を意識したのはいつのことなのでしょう。
残念ながら日本列島には暦と関連する遺跡は確認できませんので、文献史料から探らざるを得ません。『日本書紀』以降の六国史他の文字しっりょうから冬至という記載を探すと一番古い記載は斉明天皇五年(659)の「十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。」であることが判ります。
これは、この年の七月三日、難波の三津港から経った遣唐使が中国の都(この時は東都・洛陽)で体験した冬至の会の記録でした。詳しいことは不明ですが、記録上はこれが初めてですから、ヤマトの王権は初めて冬至を祝うこと(あるいは冬至の祝い方)を知ったのではないでしょうか。但し、おそらく遣唐使からの報告があったにも関わらず、その後も冬至を奉祭した形跡はありません。次に史料に出てくるのは聖武天皇の初期、即位の二年後、神亀二年(725)「天皇御大安殿。受冬至賀辞。」のことでした。
ところで2014年12月22日は冬至であると共に、旧暦の11月朔日だということでした。もしそれでいいとなると、昨年の冬至は、「朔旦冬至」であったことになります。現在、旧暦は国立天文台が明治5年12月2日まで使用された「天保暦」の暦法に従って引き続き作成しているようで、これによって12月22日が旧暦の11月1日と判るわけです。
朔旦冬至とは、旧暦(中国から伝わった太陰太陽暦)で、11月1日(朔日)が、冬至と重なる日を指します。唐代の暦では冬至の入る月が11月と決められており、冬至の二ヶ月後(正月)が年の初めとされていました。その冬至が11月1日(朔日)に当たるのが、朔旦冬至で、(およそ)19年に一回巡って来る珍しい日に当たります。
このため中国では古くからこの珍しい日を奉祭してきたのです。
六国史には様々な祝賀儀式(奉賀、賜禄、賞賜)が行われたことが知られます。しかし、先に見たように冬至のお祝いは聖武朝に何とか定着するようですが、朔旦冬至は実行されなかったようです。その証拠に、計算上は斉明五年の遣唐使が帰ってから、670,689,708,727,746,765年と6回の朔旦冬至があったはずですが、記録上は一度も記されていません。おそらく奈良時代の王権は朔旦冬至を祝うことをほとんど意識していなかったようなのです。
この珍しい暦の巡り合わせに初めて着目したのが桓武天皇です。
桓武天皇は暦の制度、造暦の作法について相当詳しかったようで、事ある毎に中国で採用されていた暦の変換点を巧みに利用したことが知られています(清水みき「桓武朝における遷都の論理」思文閣出版門脇禎二編『日本古代国家の展開』上巻1995年)。
桓武天皇は父光仁天皇の譲位を受けて、天応元年(781)4月3日に即位します。光仁天皇はその年の12月23日に亡くなります。数年前から度々病気が伝えられていた光仁天皇ですので、譲位が決められたのだと思われます。この譲位の年を巡って巧妙な操作の行われたことが先の清水先生の論考によって明らかにされました。
『続日本紀』を見ますと、天応元年という年は辛酉の年です。中国古来から讖緯(しんい)思想(辛酉の年には世の中が大転換するという思想)に適う年です。その上、『続日本紀』によると、暦では正月朔日が辛酉の日なのです。辛酉の年の正月朔日が辛酉の日という希有な日に桓武天皇は即位することになったのです。出自に課題を抱えていた(母方の祖父が渡来系、祖母が身分の低い土師氏であったこと)桓武天皇にとって暦法上、これほどいい日はありませんでした。
「吾こそは天の命によって撰ばれた天皇である!!」と高らかに宣言したかったのではないでしょうか。
しかしそこには巧妙なからくりがありました。
実は正当な暦法によれば天応元年正月朔日は「辛酉」の一つ手前の「庚申」の日でした。つまり正式には宝亀12年12月29日己未→天応元年正月朔日庚申→2日辛酉だったのです。当時の暦では大の月が30日、小の月が29日で作成されていました。これでは一年365日に足りませんので、凡そ二年半に一度閏月というのを入れて季節感を調整していたのです。もちろん基本的には中国の暦を利用して陰陽寮の暦博士がそれを下に作成していたのです。今のように大小の月が決まっていませんでしたので、その配置には技術がいったようです。その議論の過程が『日本三代実録』巻四貞観二年(860)閏十月廿三日己巳条に遺されています。実はこの年も朔旦冬至だったのですが、暦博士によれば冬至の日が11月2日になるというのです。そこで議論が始まり、中国の事例まで出して、「大大大小小小」はダメだが、「大大大小小」は事例があるから問題ないとなったのです。そこで前月の(閏)10月賀正の月であったのを大の月にして1日繰り上げて朔日が冬至になるように操作したというのです。
この同じ論法を使って桓武天皇は天応元年正月を前月に1日回して小の月にし辛酉の日を朔日にしてしまったのでした。桓武天皇の治世はこの最初の年を除いて「延暦」でした。「天応(天にかなう)」という元号は父光仁天皇の在世中の元号です。年末に天皇が亡くなりますから元号を変えないと行けません。そこで「暦を延長する」という意味から「延暦」が撰ばれたのだと清水先生は指摘します。
桓武天皇は暦にとても詳しかったのです。その知識を利用したのが朔旦冬至でした。天皇は長岡京へ遷都する月を朔旦冬至の日に撰んだのでした。以後、近世に至るまで歴代の王権はほぼ正確に朔旦冬至を祝ってきたことが知られています。
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現代では余り注目されることのない冬至。本来冬至を祝う儀式であったはずのクリスマスがキリストの生誕日にすり替えられ、日本では特に、冬至など意識せずに大はしゃぎしています。そんな冬至は世界中でかつては暦の始まりとしてとても大切にされてきた日でした。では、日本で初めて冬至を意識したのはいつのことなのでしょう。
残念ながら日本列島には暦と関連する遺跡は確認できませんので、文献史料から探らざるを得ません。『日本書紀』以降の六国史他の文字しっりょうから冬至という記載を探すと一番古い記載は斉明天皇五年(659)の「十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。」であることが判ります。
これは、この年の七月三日、難波の三津港から経った遣唐使が中国の都(この時は東都・洛陽)で体験した冬至の会の記録でした。詳しいことは不明ですが、記録上はこれが初めてですから、ヤマトの王権は初めて冬至を祝うこと(あるいは冬至の祝い方)を知ったのではないでしょうか。但し、おそらく遣唐使からの報告があったにも関わらず、その後も冬至を奉祭した形跡はありません。次に史料に出てくるのは聖武天皇の初期、即位の二年後、神亀二年(725)「天皇御大安殿。受冬至賀辞。」のことでした。
ところで2014年12月22日は冬至であると共に、旧暦の11月朔日だということでした。もしそれでいいとなると、昨年の冬至は、「朔旦冬至」であったことになります。現在、旧暦は国立天文台が明治5年12月2日まで使用された「天保暦」の暦法に従って引き続き作成しているようで、これによって12月22日が旧暦の11月1日と判るわけです。
朔旦冬至とは、旧暦(中国から伝わった太陰太陽暦)で、11月1日(朔日)が、冬至と重なる日を指します。唐代の暦では冬至の入る月が11月と決められており、冬至の二ヶ月後(正月)が年の初めとされていました。その冬至が11月1日(朔日)に当たるのが、朔旦冬至で、(およそ)19年に一回巡って来る珍しい日に当たります。
このため中国では古くからこの珍しい日を奉祭してきたのです。
六国史には様々な祝賀儀式(奉賀、賜禄、賞賜)が行われたことが知られます。しかし、先に見たように冬至のお祝いは聖武朝に何とか定着するようですが、朔旦冬至は実行されなかったようです。その証拠に、計算上は斉明五年の遣唐使が帰ってから、670,689,708,727,746,765年と6回の朔旦冬至があったはずですが、記録上は一度も記されていません。おそらく奈良時代の王権は朔旦冬至を祝うことをほとんど意識していなかったようなのです。
この珍しい暦の巡り合わせに初めて着目したのが桓武天皇です。
桓武天皇は暦の制度、造暦の作法について相当詳しかったようで、事ある毎に中国で採用されていた暦の変換点を巧みに利用したことが知られています(清水みき「桓武朝における遷都の論理」思文閣出版門脇禎二編『日本古代国家の展開』上巻1995年)。
桓武天皇は父光仁天皇の譲位を受けて、天応元年(781)4月3日に即位します。光仁天皇はその年の12月23日に亡くなります。数年前から度々病気が伝えられていた光仁天皇ですので、譲位が決められたのだと思われます。この譲位の年を巡って巧妙な操作の行われたことが先の清水先生の論考によって明らかにされました。
『続日本紀』を見ますと、天応元年という年は辛酉の年です。中国古来から讖緯(しんい)思想(辛酉の年には世の中が大転換するという思想)に適う年です。その上、『続日本紀』によると、暦では正月朔日が辛酉の日なのです。辛酉の年の正月朔日が辛酉の日という希有な日に桓武天皇は即位することになったのです。出自に課題を抱えていた(母方の祖父が渡来系、祖母が身分の低い土師氏であったこと)桓武天皇にとって暦法上、これほどいい日はありませんでした。
「吾こそは天の命によって撰ばれた天皇である!!」と高らかに宣言したかったのではないでしょうか。
しかしそこには巧妙なからくりがありました。
実は正当な暦法によれば天応元年正月朔日は「辛酉」の一つ手前の「庚申」の日でした。つまり正式には宝亀12年12月29日己未→天応元年正月朔日庚申→2日辛酉だったのです。当時の暦では大の月が30日、小の月が29日で作成されていました。これでは一年365日に足りませんので、凡そ二年半に一度閏月というのを入れて季節感を調整していたのです。もちろん基本的には中国の暦を利用して陰陽寮の暦博士がそれを下に作成していたのです。今のように大小の月が決まっていませんでしたので、その配置には技術がいったようです。その議論の過程が『日本三代実録』巻四貞観二年(860)閏十月廿三日己巳条に遺されています。実はこの年も朔旦冬至だったのですが、暦博士によれば冬至の日が11月2日になるというのです。そこで議論が始まり、中国の事例まで出して、「大大大小小小」はダメだが、「大大大小小」は事例があるから問題ないとなったのです。そこで前月の(閏)10月賀正の月であったのを大の月にして1日繰り上げて朔日が冬至になるように操作したというのです。
この同じ論法を使って桓武天皇は天応元年正月を前月に1日回して小の月にし辛酉の日を朔日にしてしまったのでした。桓武天皇の治世はこの最初の年を除いて「延暦」でした。「天応(天にかなう)」という元号は父光仁天皇の在世中の元号です。年末に天皇が亡くなりますから元号を変えないと行けません。そこで「暦を延長する」という意味から「延暦」が撰ばれたのだと清水先生は指摘します。
桓武天皇は暦にとても詳しかったのです。その知識を利用したのが朔旦冬至でした。天皇は長岡京へ遷都する月を朔旦冬至の日に撰んだのでした。以後、近世に至るまで歴代の王権はほぼ正確に朔旦冬至を祝ってきたことが知られています。
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