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1 何年ぶりだろう、10年以上来ていなかった恭仁宮(山背国分寺)へ行った。木津川市の芝野さんの案内で意外なことを沢山教えてもらった。
2 意外と綺麗になっていて驚いた。これなら訪れる人も気分よく見学できそうだ。それにしても絶好の観光シーズンだった11月23日の休みの日なのだが、だーれもいなかった。もったいない!!どうして日本人は「○○旅行」などと書いた旗を持って案内される?旅が好きなんだろう?あんなブロイラーみたいに社寺を見て回って楽しいのかしら?不思議な民族!!
ここは恭仁宮大極殿の基壇がそのまま残る場所。かつては村役場が建っていて、その西隣が山背国分寺という宗教法人だったんだって。その名残がこの祠だそうな。
最近文科省がやたらと観光学なるものを大学に押しつけてきているらしい。その流れに乗って、和歌山大学には来年から観光学部ができるという。和が大学のようになかなか変えられないのに比べればとてもいいことだとはおもうのだが、果たして学生に何を教えるのだろうか。だって、母体が経済学分ですよね。まさか「○○旅行」の参加者を増やす方法を教えるんじゃないでしょうね。
僕は世界遺産学科の設立を提唱しているんだけれどだーれも乗ってきてくれない。
誰が何を教えるのか?とか、世界遺産なんて三重県には熊野古道しかないとか・・・。だって、僕なんて、世界遺産の奈良や京都の遺跡を一杯研究しているし、来年にはヴェトナム政府が必死で登録を願っているハノイのタンロン宮殿跡の調査をするし、素材なんてごろごろしてるんだけどね。
三重大はやりそうにないから家の息子が勤めている京都文教大学で設立したら!なんて、昨晩息子に吹聴しておいた。京都や宇治なら一杯素材はあるし、学生だってそんなのに惹かれてくるんじゃないかな。もしできたらそっちへ移ろうかしら(できたら誘ってね)。
世界遺産学科でやること。
① 世界遺産の発掘調査・研究
② 世界遺産の保護・保存の方法論の確立
③ 世界遺産活用アイデアの開発
ウーン、楽しそうだなー。
3 これがその大極殿の礎石だよ。平城宮中央区大極殿から持ってきたものだということが『続日本紀』に書いてある。今から25年程前に京都府教育委員会が発掘調査をし、その基壇の規模などが一致することが判ったんだ。今平城宮で建設している大極殿はこれ。つまりあの大極殿は741年には解体されて恭仁宮へ移建されてしまい、その後、山背国分寺の金堂になったという数奇な運命を辿る建物なんです。それにしても巨大な礎石ですね。
4 当然この建物の周りは凝灰岩という二上山から切り取ってきた石で化粧されていたんです。その石を使ったのかも知れないという墓碑がひっそりと建っていた。
5 実は当日はこの大極殿の周りを囲っていた廊下(築地回廊という特殊な回廊)の跡を発掘調査中だったんです。残念ながらシートで覆われていたのですが、芝野さんの案内でとてもよく理解できました。それにしても築地の跡がないのは不思議でしたね。本当に削られてなくなってしまったのかしら。
瓦窯の跡も出ているとか。いつの時代のものかはこれから検討するらしい。早く判ればいいのに・・・。
6 私はここで奈文研で開かれていた「木簡研究の最前線」というシンポジウムで簡単な報告をするため出かけた。研究者達はこの後恭仁宮内裏を見学し、甕原離宮や和束にある安積親王墓を見て回ったとか。羨ましい!!特に安積親王墓は行きたかったな。
7 なんてったて、安積親王は私の考えでは最も有力な聖武天皇の後継者だったんですもの。ある日突然足の病気が悪化(脚気か)して亡くなったという可愛そうな皇子なんです。私は藤原氏に殺されたと思っています。その首謀者は光明皇后ではないかと踏んでいます。なぜか。彼が天皇になれば、折角無理をしてまで皇后にならせ、藤原氏の血を引く天皇を作ろうとしたのに、それができなくなるからです。
聖武はそんな藤原氏から逃れるように恭仁京を作り、難波京に遷都するのです。しかし、安積親王の死によって、聖武の夢は消えてしまいます。
745年、僅か5年間の「彷徨」が幕を閉じるには深いわけがあったのです。
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1 何年ぶりだろう、10年以上来ていなかった恭仁宮(山背国分寺)へ行った。木津川市の芝野さんの案内で意外なことを沢山教えてもらった。
2 意外と綺麗になっていて驚いた。これなら訪れる人も気分よく見学できそうだ。それにしても絶好の観光シーズンだった11月23日の休みの日なのだが、だーれもいなかった。もったいない!!どうして日本人は「○○旅行」などと書いた旗を持って案内される?旅が好きなんだろう?あんなブロイラーみたいに社寺を見て回って楽しいのかしら?不思議な民族!!
ここは恭仁宮大極殿の基壇がそのまま残る場所。かつては村役場が建っていて、その西隣が山背国分寺という宗教法人だったんだって。その名残がこの祠だそうな。
最近文科省がやたらと観光学なるものを大学に押しつけてきているらしい。その流れに乗って、和歌山大学には来年から観光学部ができるという。和が大学のようになかなか変えられないのに比べればとてもいいことだとはおもうのだが、果たして学生に何を教えるのだろうか。だって、母体が経済学分ですよね。まさか「○○旅行」の参加者を増やす方法を教えるんじゃないでしょうね。
僕は世界遺産学科の設立を提唱しているんだけれどだーれも乗ってきてくれない。
誰が何を教えるのか?とか、世界遺産なんて三重県には熊野古道しかないとか・・・。だって、僕なんて、世界遺産の奈良や京都の遺跡を一杯研究しているし、来年にはヴェトナム政府が必死で登録を願っているハノイのタンロン宮殿跡の調査をするし、素材なんてごろごろしてるんだけどね。
三重大はやりそうにないから家の息子が勤めている京都文教大学で設立したら!なんて、昨晩息子に吹聴しておいた。京都や宇治なら一杯素材はあるし、学生だってそんなのに惹かれてくるんじゃないかな。もしできたらそっちへ移ろうかしら(できたら誘ってね)。
世界遺産学科でやること。
① 世界遺産の発掘調査・研究
② 世界遺産の保護・保存の方法論の確立
③ 世界遺産活用アイデアの開発
ウーン、楽しそうだなー。
3 これがその大極殿の礎石だよ。平城宮中央区大極殿から持ってきたものだということが『続日本紀』に書いてある。今から25年程前に京都府教育委員会が発掘調査をし、その基壇の規模などが一致することが判ったんだ。今平城宮で建設している大極殿はこれ。つまりあの大極殿は741年には解体されて恭仁宮へ移建されてしまい、その後、山背国分寺の金堂になったという数奇な運命を辿る建物なんです。それにしても巨大な礎石ですね。
4 当然この建物の周りは凝灰岩という二上山から切り取ってきた石で化粧されていたんです。その石を使ったのかも知れないという墓碑がひっそりと建っていた。
5 実は当日はこの大極殿の周りを囲っていた廊下(築地回廊という特殊な回廊)の跡を発掘調査中だったんです。残念ながらシートで覆われていたのですが、芝野さんの案内でとてもよく理解できました。それにしても築地の跡がないのは不思議でしたね。本当に削られてなくなってしまったのかしら。
瓦窯の跡も出ているとか。いつの時代のものかはこれから検討するらしい。早く判ればいいのに・・・。
6 私はここで奈文研で開かれていた「木簡研究の最前線」というシンポジウムで簡単な報告をするため出かけた。研究者達はこの後恭仁宮内裏を見学し、甕原離宮や和束にある安積親王墓を見て回ったとか。羨ましい!!特に安積親王墓は行きたかったな。
7 なんてったて、安積親王は私の考えでは最も有力な聖武天皇の後継者だったんですもの。ある日突然足の病気が悪化(脚気か)して亡くなったという可愛そうな皇子なんです。私は藤原氏に殺されたと思っています。その首謀者は光明皇后ではないかと踏んでいます。なぜか。彼が天皇になれば、折角無理をしてまで皇后にならせ、藤原氏の血を引く天皇を作ろうとしたのに、それができなくなるからです。
聖武はそんな藤原氏から逃れるように恭仁京を作り、難波京に遷都するのです。しかし、安積親王の死によって、聖武の夢は消えてしまいます。
745年、僅か5年間の「彷徨」が幕を閉じるには深いわけがあったのです。
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