yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

母・山中夏美への追悼文

2008-03-09 10:58:35 | yaasan随想
 旧姓大橋夏美は1924年、完成間近の甲子園球場と同じ大正13年、甲子の年に広島県呉市に生まれました。父は小学校の校長先生でとても厳格で、厳しい人でした(私が小学校の頃勉強を見てもらっていたのですが、直ぐに怒鳴る怖い怖いおじいさんでした)。母もまた気丈で優しい人だと聞きますが、戦時中に満員列車から落ちたのが原因で、夏美が女学校の頃に亡くなったと聞きます。呉高等女学校の頃の写真が残っていますが、洋風の顔つきは、今風のとても綺麗な顔立ちをしています(残念ながら私にはそんないいところはどこも受け継がれませんでした)。高等女学校の頃は彼女の絶頂期だったのでしょう、その頃の友人とは亡くなる直前まであちこちへ旅に出かけていました。
 戦後、一家が京都に移住したことが彼女の運命を変えてしまいます。なれそめは知りませんが、恐らく誰かの紹介でお見合いでもしたのてしょう(父も父の姉もヒロシマとは縁が深かったのです)。傾き掛けた友禅屋の次男坊だった父・昌次郎と結婚します。1男2女をもうけて順風満帆だったはずの人生ですが、しばらくすると父のお人好し?がたたって共同事業などに失敗したことが原因で家計は傾き、それを支えるためでしょうか、丁度私が幼稚園に行く頃から資格を持っていた幼稚園の先生をするようになります。
 今も本籍としておいてある壬生高樋町の家から毎日、上の妹と手を繋ぎながら中新道を北上して神泉苑幼稚園に通ったことを鮮明に覚えています。幼稚園では西向日町にお住まいだった同僚の橋本先生に頼んで私に字を習わすなど、英才教育??に燃えていました(その甲斐なく私は凡人にしか育ちませんでした)。幼稚園では教員の立場を利用して?!私をいつも学芸会や音楽会の主役に抜擢し、とても得意げでした。職員旅行に長崎まで一緒に連れて行ってもらったこと、先生方と琵琶湖に泳ぎに行ったこと、幼稚園帰りに教え子の店を買い物して回りニコニコ堂?で蛸せんべいを買ってもらったことなど楽しい思い出がいっぱい詰まった幼稚園児代でした。母もはつらつとしていました。
 その後職を転々とする父の家計を補うため、いろいろな内職をするようになります。今でもよく判らないのが小さな自動車会社の店先で冷や素麺とかき氷の店をやっていたことです。山科に転居する頃には私も内職の手伝いをよくやらされました。その頃はやり出したブラザーの毛糸編み機でセーターなどを編むアルバイトが得意でした。家事の合間にやるもので、「あと4回往復しときなさい!」等とよくやらされました。任天堂の百人一首の裏紙貼りの内職は一箱(100枚)が確か1円だったと思います。ビーズ編みの袋作りも母の得意技で、これは結構分のいい内職だと言っていました。そんな母の支えで2浪もして大学に行ったのに「不良」だった私は学校も行かず「走り回って」いました。大学時代の友人は京都に憧れて度々私の家に泊まりに来ましたが、彼らの世話(と言っても大したことはしませんが)をするのも彼女の仕事でした。そんな母を襲った最大の苦難は父の死でした。まだ49歳。ようやく仕事も落ち着き、会社の要職にまでいた一家の大黒柱を失い、再び彼女が家計を支えなければならなくなりました。二人の大学生とまだ当時小学生だった下の妹二人の養育が彼女の大事な任務となりました。
 伯母の経営するお好み焼き屋さんでの深夜労働が主でしたが、ちょっとした体調不良を訴えたのが誤診され、必要もない手術をされて以後彼女を薬漬けにし、体調の維持を難しくします(恐らくそれが死因でしょう)。しかしそんなことはおくびにも出さず、平気な顔をして働き続けました。「不良」の私を無事卒業させ、二人の妹も学校を出させて就職させ、孫ができた60歳頃になるとようやく仕事から解放されました。 その頃からはまったのが中国旅行でした。年金をこつこつ貯めて、時には年に二三度、少なくとも毎年のようにあちこちに行っていました。
 敦厚も、龍門も、長安も、南京も、そしてカンボジアのアンコールワットも私より早く、いえ、私は敦厚もアンコールワットも行ったことがありません、彼女は訪れ、自慢げに写真を見せてくれました。ある時には一緒に行った若者と友達になり、帰国後も遊びに行ったり、電話があったり、私には受け継がれていない生来の明るさであちこちに友人の輪を作っていきました。そのうち引率、案内の先生とも「お友達」になり、私の「秘密」をべらべら話すようになり、帝塚山学院大学にいらっしゃったN先生などは、
「山中君な、お母さんから全部聞いたで!(笑)、・・・」
と脅される??(笑)羽目に。
 そんな彼女を再び襲ったのが上の妹(長女・菊子)の死でした。父と同じ49歳での死でした。30年勤めた幼稚園を退職し、これから夫婦で遊び回るんだ!と言っていた矢先、胃に癌が発見されたのが手遅れで、1年足らずの闘病でなくなったのです。最も頼りにしていた娘の死は彼女の希望をさらに小さくしたのでしょう。80歳が近づく頃になると外国へは出かけなくなり、「かんぽの宿」巡りが趣味?となりました。伯母や女学校の友人、元近所の友人などと度々彦根の簡保に行っていました。
「簡保で何してるんや」と聞いても、
「ウーン、別に・・・」
となにやら要領の得ない返事をするのみ、ただ泊まって食事をするだけのようですが、それが彼女の心の安らぎになったのでしょう。とにかくよく行っていました。
そんな彼女も、骨粗鬆症とかで、足腰が弱ってくるとさすがにその楽しみにも行けなくなり、特に昨年その有数の仲間だった伯母が亡くなると、病院がよいだけが「楽しみ」となりました。下血や吐血を繰り返していましたが、そのため食事が細くなり、結局これが体力の消耗を早めたのでしょう。昨年10月22日に吐血し、病院に入った頃は普通だったのですが、1週間後に発熱したのがきっかけで、病院のベッドで点滴付けになってしまい、話しかけても、夢でも見てたのか、
「アー、今な、阪急の階段を上がってきたんや・・・」などと
夢と現実が判らなくなってきていました。点滴だけでは体力が付かないということで今年に入り胃に穴を開けて食事らしいものをさせようとしたのですが、結局それも功を奏さなかったのでしょうね、わたしがヴェトナムに発ってしばらくした先週頃から急に発熱をし、血圧が下がり、余りよくないという連絡があり、いつ何時・・・、という覚悟はできていたのですが、3月6日、13:33息を引き取ったという電話が入ったのでした。83歳と7ヶ月、長いようですが、苦労の多かった分を差し引くと、楽しかった時間は限りなく短かったのではないかと思います。まさに私達のために捧げた人生でした。彼女なくして私の今はあり得ませんでした。並の言葉しか発せませんが、感謝!以外の何ものでもありません。信じてもいないあの世ですが、せめて彼女にだけはそれがあって、本当に極楽で楽しく過ごしてもらえればと思います。
 有り難う!お母さん。
 
母に感謝を込めて

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2 コメント

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Unknown (R21)
2008-03-13 15:53:18
Shiozyさんのブログで訃報を知りました。
母親というのは、とてもとても大きな存在だと思います。何故、こんなにも子どもや家族のために全てをなげうつことができるのだろう、と。
yaasanさんはじめ、子どもさんに愛されたお母様はきっと、極楽でお父様や長女さんたちと再会されて、この世のyaasanさんたちを見守ってくださっておられると思います。

ご冥福をお祈りします。
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お悔やみ申し上げます。 (E.saiku)
2008-03-14 21:39:46
Yハカセのブログで知りました。母というものは、全く…泣かせるものですね。 そして息子は、また走っていくのですね。
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