長らくのご無沙汰です。度々長期休暇を頂き申し訳ありません。
一旦最新の注射が効き、痛みも消えて、これで快方に向かうのかな、と思ったその後、再び痛みが再発し、検査をするとCRP(C-リアクティブ・プロテイン)がせっかく0,5にまで下がっていたのが再び2,0まで上昇していたのです。
暫く様子を見ましたが改善の兆候が見られないので、注射をエンブレルからオレンシアに変えることにしました。
変えてから1ヶ月が経つのですが、なかなか痛みからは解放されません。お医者さん曰く、
「あんたのは頑固やなー」です。
いろいろ試さないと仕方ないな。しばらくはオレンシアをやって、様子を見ましょうということになりました。ただ、この頃困ることは痛みの根本が治らないもので、仕方なく痛み止めを胃薬と共に飲むのですが、その副作用で、胃が痛くなることです。これだけ痛いのは久しぶりです。なかなか一筋縄ではいかない病のようです。
さて、前置きはこのくらいにして、壬申の乱ウオークです。
今回は岐阜県揖斐郡池田町と大野町の古墳群を回りました。
壬申の乱ウオークは第32・33・34と連続して壬申の乱を大海人皇子方の勝利に導く大きな役割をした三人の地方豪族、村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手の故郷を訪ねてきました。それぞれ木曽川、長良川、揖斐川の中流域を掌握した地方の小豪族ですが、それぞれの出身地には特長有る遺跡が遺されているのです。揖斐川流域に遺された和珥部臣一族の墓域と推定されるのが願成寺西墳之越古墳群です。
111基からなる群集墳で、1基を除き6世紀後半から7世紀前半に築造された古墳群だとされます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/98/57be4fc43d4965ef4731d0550bb14b9a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/4c/e51ba7b37434a0c6a99c5444dc6903ef.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/70/5de0ece532cdd8c40fddebe953c00472.jpg)
この地域は9世紀前半承和四(847)年までは南の安八郡に含まれていたことが知られています。壬申の乱が始まる二日前の6月22日、大海人皇子は三人に対し密命を発し、安八磨郡にあった湯沐邑の「令-うながし-」多臣品治に対し郡の兵を発して「不破道」を塞ぐよう連絡させます。
『日本書紀』天武元年条
天武天皇元年(六七二)六月壬午《22日》詔村國連男依。和珥部臣君手。身毛君廣曰。今聞。近江朝庭之臣等。爲朕謀害。是以汝等三人急往美濃國。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先發當郡兵。仍經國司等差發諸軍。急塞不破道。朕今發路。
その一人が和珥部臣君手です。和珥部臣一族が根拠地としていたことを傍証する資料に揖斐川右岸中流域の郷名があります。
北から、小島郷、伊福郷、春日郷、壬生郷、池田郷、額田郷です。額田部や春日部は和珥氏の一族であり、壬生郷は壬生部、伊福郷は伊福部との関係が推定でき、皇族との深い関係を持つ地方中小豪族の存在が考えられます。壬申の乱に際し三人が向かった先が安八磨郡の湯沐邑にいた多臣品治であることは先にみたとおりですが、当時安八磨評には後の池田郡域が含まれていました。和珥氏と皇族の配下にあった在地豪族の営んだ墓域こそ願成寺西墳之越古墳群であったと考えてはどうかというのが今の有力な説なのです。
お昼ご飯を西国33番札所の谷汲山華厳寺の門前で済ませ、次に向かったのが揖斐川の左岸に展開する前期から中期の前方後円墳群で構成される国史跡野古墳群でした。
不動塚古墳を南から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/89/3ca120845ee4559467e6d05299c8ebc3.jpg)
不動塚古墳での説明
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/97/331bd02a1c19f0bd804f18cd8801b466.jpg)
登越古墳を後円部後方から望む
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/b5/08a95840afc36881a63d98f50aeee98c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/f4/40b84686f26d63731c28bd57ed319449.jpg)
野古墳群は願成寺西墳之越古墳群より150年余り古い時期に築造が開始された古墳群で、古墳時代中期に揖斐川左岸上流域一帯を支配した豪族の墓域と考えられています。登越古墳が最も大きく、全長83,3mを測り、他に、モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳などの前方後円墳が密集して築造された美濃地域でも例のない古墳群です。特に南口古墳からは中国からもたらされた鍍金七乳線彫式獣帯鏡が出土しており、ヤマト王権との深い関係が推定できます。
こうした前期・中期からのヤマト王権との深い関係が基礎となって願成寺西墳之越古墳群の形成が促されたのかも知れません。
揖斐川沿いの古墳群、とても面白いな、と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→![人気ブログランキングへ](http://image.with2.net/img/banner/banner_22.gif)
一旦最新の注射が効き、痛みも消えて、これで快方に向かうのかな、と思ったその後、再び痛みが再発し、検査をするとCRP(C-リアクティブ・プロテイン)がせっかく0,5にまで下がっていたのが再び2,0まで上昇していたのです。
暫く様子を見ましたが改善の兆候が見られないので、注射をエンブレルからオレンシアに変えることにしました。
変えてから1ヶ月が経つのですが、なかなか痛みからは解放されません。お医者さん曰く、
「あんたのは頑固やなー」です。
いろいろ試さないと仕方ないな。しばらくはオレンシアをやって、様子を見ましょうということになりました。ただ、この頃困ることは痛みの根本が治らないもので、仕方なく痛み止めを胃薬と共に飲むのですが、その副作用で、胃が痛くなることです。これだけ痛いのは久しぶりです。なかなか一筋縄ではいかない病のようです。
さて、前置きはこのくらいにして、壬申の乱ウオークです。
今回は岐阜県揖斐郡池田町と大野町の古墳群を回りました。
壬申の乱ウオークは第32・33・34と連続して壬申の乱を大海人皇子方の勝利に導く大きな役割をした三人の地方豪族、村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手の故郷を訪ねてきました。それぞれ木曽川、長良川、揖斐川の中流域を掌握した地方の小豪族ですが、それぞれの出身地には特長有る遺跡が遺されているのです。揖斐川流域に遺された和珥部臣一族の墓域と推定されるのが願成寺西墳之越古墳群です。
111基からなる群集墳で、1基を除き6世紀後半から7世紀前半に築造された古墳群だとされます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/98/57be4fc43d4965ef4731d0550bb14b9a.jpg)
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この地域は9世紀前半承和四(847)年までは南の安八郡に含まれていたことが知られています。壬申の乱が始まる二日前の6月22日、大海人皇子は三人に対し密命を発し、安八磨郡にあった湯沐邑の「令-うながし-」多臣品治に対し郡の兵を発して「不破道」を塞ぐよう連絡させます。
『日本書紀』天武元年条
天武天皇元年(六七二)六月壬午《22日》詔村國連男依。和珥部臣君手。身毛君廣曰。今聞。近江朝庭之臣等。爲朕謀害。是以汝等三人急往美濃國。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先發當郡兵。仍經國司等差發諸軍。急塞不破道。朕今發路。
その一人が和珥部臣君手です。和珥部臣一族が根拠地としていたことを傍証する資料に揖斐川右岸中流域の郷名があります。
北から、小島郷、伊福郷、春日郷、壬生郷、池田郷、額田郷です。額田部や春日部は和珥氏の一族であり、壬生郷は壬生部、伊福郷は伊福部との関係が推定でき、皇族との深い関係を持つ地方中小豪族の存在が考えられます。壬申の乱に際し三人が向かった先が安八磨郡の湯沐邑にいた多臣品治であることは先にみたとおりですが、当時安八磨評には後の池田郡域が含まれていました。和珥氏と皇族の配下にあった在地豪族の営んだ墓域こそ願成寺西墳之越古墳群であったと考えてはどうかというのが今の有力な説なのです。
お昼ご飯を西国33番札所の谷汲山華厳寺の門前で済ませ、次に向かったのが揖斐川の左岸に展開する前期から中期の前方後円墳群で構成される国史跡野古墳群でした。
不動塚古墳を南から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/89/3ca120845ee4559467e6d05299c8ebc3.jpg)
不動塚古墳での説明
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/97/331bd02a1c19f0bd804f18cd8801b466.jpg)
登越古墳を後円部後方から望む
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野古墳群は願成寺西墳之越古墳群より150年余り古い時期に築造が開始された古墳群で、古墳時代中期に揖斐川左岸上流域一帯を支配した豪族の墓域と考えられています。登越古墳が最も大きく、全長83,3mを測り、他に、モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳などの前方後円墳が密集して築造された美濃地域でも例のない古墳群です。特に南口古墳からは中国からもたらされた鍍金七乳線彫式獣帯鏡が出土しており、ヤマト王権との深い関係が推定できます。
こうした前期・中期からのヤマト王権との深い関係が基礎となって願成寺西墳之越古墳群の形成が促されたのかも知れません。
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