孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この先に超神懸り者・超最先端医科学・超政治経済家が現われ出ても無駄に終わります。

2012年12月07日 | Weblog
私たちの性格個性やその意識は持って生まれたものですからそう簡単には変革・改革・修正できません。

だから不満不足やその愚痴や小言が出る人は相変わらずですし、素朴に生きるその実践が進んでいるようでもないから、何かと否定反発しているし、言い訳正当化もしているし、目立ちたがり屋はそのままだし、私が正しいの主張も相変わらずだし、その自分を守る守り意識も十分もっているし、完全と不完全の見極めが出来ているようでもないし、奇跡を成す耕栄さんに憧れ敬いその他力・期待でもって耕栄さん信者になっているのも相変わらずだし、

またあれだけ耕栄さんを盛り立て思い慕っていたはずなのにいつの間にやらその姿が消えていたり、また耕栄さんやファバラ無しでは生きていけないように言っていた人がいきなり愛想を尽かすことになったりすれば、

だから私にすれば、完全真理に信じるか否かもないし、またアメと鞭の使い分けも無く、その思惑期待もその裏切りも無いはずなのに、「何で」そうなるのよ、となるわけです。

だからこのブログに来られている人も(失礼ながら)そう大差ないと思いますから、この世で初の終わりとなるその完全真理と言えども無用の長物で終わる人も多いことと思っています。

そう書いている私も不完全意識丸出しなのは事実です。
ただ孤独とその自由からして不平不満が出にくい状況環境になっているだけです。
そのことは何度も書いていますので省略します。


ところでこの先に
超能力でもって汚染された自然界が回復する事になっても、
また地震や津波や洪水などの自然災害を予知してくれたり、その災害規模を軽減してくれる事になっても、
また同じく日照り干ばつのときに雨を降らしてくれることがあっても、
また農産物や海産物が豊かになるようにしてくれても、

また悩みや苦しみを癒してくれることがあっても、
また不治の病や難病を治してくれることがあっても、
また死に掛けていたのに奇跡的に助けてくれても、

また能力に長けた人が集まるその最先端科学でもって新たなエネルギーが開発されたり、人間型ロボットが家庭や社会に貢献する事になったり、皆が宇宙旅行に行けるようになっても、

また最先端医学やその薬剤や移植によって治癒されたり若返ったり美形になったり人工臓器で延命されたりしても、

また貧困格差や少子化や老後問題や犯罪事件から国際問題までも改善・改革・修正できる有能な政治経済家が集まれども、
(そんな夢・希望・理想・期待を持っているかも知れませんが)
それが現実になったところで、
過去の釈迦やイエスらから始まったその宗教組織や現代医科学が貢献したかに見えますが、それ以上に悲惨な人殺し戦争のサタンの役割をも果たし、それが未だに火種に残りこの世を闇にしていることから言えば、その精神世界や宗教真理や医科学ではどうしようもなく、更にその裏が(問題が)深刻になっていくだけです。

それと同じくして私たちの不完全意識はそのままですから不満不足が出てきたり、それが原因からして不安心配や怒り嫉妬や報復制裁や破壊意識・人殺し戦争へとつながるでしょう。

だから超能力や超有能な人たちによって様々な形が変化進化することに期待することよりも、不完全な結果の繰り返しになるだけだから、
先ずは己が真の精神世界に目覚めることが先決重要なわけです。

それなのに目の前に見えるその目先のことばかりに意識を使っているから、自由平等調和どころか地球人類崩壊の危機に直面しているのです。

なのにその精神世界の知識を溜め込むことばかり熱心だったり、心のより所に信仰宗教を選んだり超能力やの他力依存になったりしているのですから、
せっかくの完全真理が絵に描いた餅や棚に飾っている餅同然になっているのです。


その矛盾も妥協も無い完全な精神世界を説く完全真理と言えども、やはり無用の長物で終わる人が多いのも、やはりその実践が欲張り無理することの無い素朴・自然体による、その自力と自信の独自独歩で歩んでいく事になるのが原因かもしれません。

不完全意識の人間が発するその美しい言葉の裏には必ず痛いトゲが隠れています。

2012年12月05日 | Weblog
私に不平不満が殆ど出ることが無くなったのは欲張らないからですが、
それも完全真理によって見えない世界・摩訶不思議の世界・精神世界の矛盾も無い妥協も無いその完全な真実事実を知ったことで十分だからです。

それも世間で言うような神探し自分探しをしていたわけでもなく、また専門的な分野の書籍やそんな講演会に参加して見聞を広めたわけでもなく、
知りたがる、やりたがる、その性格からして、新たな事を知りたがるし、それをやりたがることになり、
更に今以上のものが出て来てそれが良さそうに思うと直ぐに取り組み始め、それが以前のものよりも優れものと確信すれば、その以前のものを惜しげなく捨てて新たなことに集中する、その繰り返しが有ったからこそ、今の完全真理に到達したと思っています。

しかもその過程で学び知ったことの殆どが完全真理に結びついていますから、前もっての学習知識で知ったことではなくして、必然からして自分がやってきたその見聞・雑学・広く浅く知ったことが役立ち、
しかも此れまでの違和感として残っていた、その「何で」までが謎解きにいたり、それら多くが役立ち、それが確信納得悟りにつながっているのです。
すなわち此れまでの歩みが活かされて無駄が無かったのです。


と言うことは完全真理を学び知りその実践意識になることで此れまでの見聞、此れまでの生き方人生が無駄にはならないのです。

そして巷に数多くある精神世界の矛盾が丸見えになるだけに完全真理以外のものに心引かれることも無くなるのです。

だから信仰宗教の矛盾や神懸り奇跡の不完全さやそれらから受けるその期待感さえも間違いである事に気付いたのです。


しかも昔の魔術師の類が今で言う超能力者であり、その魔術師・超能力者に従ったことで生け贄や人身御供や人柱の形が出てきたり、先祖供養が形式化風習化されたり、神仏霊魂を奉る形が出てきたりして、それが神社仏閣や教会御殿や偶像を奉ることにもなり、また邪な霊魂となって人間に生まれ変われなかったその霊魂(動物霊)を社に奉納していたり、またお稲荷さんがいたる所にあるのです。

しかし中には感謝の気持ちからお供え供養する形がありますが、
感謝ならばそのアリガタイ心で十分なのに、それをわざわざ供養と言う形にすると言うことは、その裏心にその見返り期待やの欲が潜んでいるからです。

すなわちそれら全てが欲絡みであったことは事実なのです。

だからその見返り期待の欲が出なくなったのも完全真理を学び知ったからです。


だから不完全意識が原因のその結果も同じ不完全だと自覚納得悟っているのに、
何で欲張り無理する事になるでしょうか、

また神社仏閣や教会御殿を持つ宗教や神懸り奇跡を成す霊能者や超能力者も不完全意識を持っていることがわかったのに、
何でそれらを信じて頼ったり期待する事になるでしょうか、

また不完全意識の人間同士が絡み合っている(どうすることも出来ない)(どうしようもない)その人間関係やそのしがらみを何で大切に守りたがるのか、
それは自分の都合を考えた上での(良いとこ取りし合う)欲があってのことです。

また子育て教育指導しつけも思惑期待の欲があってのことです。
もしその思惑期待が無ければ(ほっとく)放任になると思います。

そこで更に義理や恩や人情愛情やその絆までも持ち出しているのも、
その裏にそれ相当の見返り期待の欲が潜んでいるからです。

何たって不完全意識の人間が発するその美しい言葉にはトゲ(裏)(欲)が必ずあるのです。


だからそんな欲絡みの欲ボケ人生から脱すれば、たとえどんなに貧しい生活になっても心は充実していますから、虚しくも孤独感や絶望感にもならずに平然と生きていけるようになるのです。

そして有事に強い精神ともなるのです。

そして安心安全と自力と自信に満ちた精神ともなるのです。

自己縮小の結果からして落ちこぼれ劣等生に見えても、精神世界では優等生になります。

2012年12月03日 | Weblog
人類誕生以来人間は自然界の猛威・脅威に脅かされてきましたから、人間は弱い立場にあるとして神仏霊魂に願い頼ることが何か常識のようにもなっています。

だから地震・津波・洪水、干ばつ水害や飢餓・飢饉、疫病・流行病、政変や大火の度ごとに神仏霊魂に祈願することになったり、中には人柱・生け贄・人身御供などがあった時代もありました。

その人間は弱いことからして皆で寄り集まり一致協力し団結することも必要となりました。
しかしそれが組織化されると邪な者が出しゃばり先導し実権を握りその勢力拡大や政権争いに利用されることにもなりました。
それが何故ならば、人が集まる所には必ず何らかの欲やその思惑期待が隠れているからです。

また精神力が弱いだけに邪な意識の者が扇動・先導したりしてその上に立つことが容易くなるのです。


だからこそ、
その精神的弱さの試練を自らが克服しながらも、それを自力と自信として積み重ねながらも更に神仏霊魂の祈願や魔術師や超能力者の神懸り奇跡の他力依存やその期待感を無くしていき、自らの精神と個性と自力と自信から出てくるその創意工夫の積み重ねの喜びを味わいながらも自惚れることなく更に力強く根強く生きることが人間本来の役割使命だと私は思っています。

例えば幼い頃から病弱だった子供が成人するに連れ免疫力や治癒力が備わっていつの間にやら丈夫な体になったりするようにです。
また放任的に育った子供が自立独立心や判断力や決心決断力に優れていたり、また簡単に弱音を吐かないで根性よく根強く図太くも生きられることがあるようにです。

ところが最近では若様やお姫様のように育てたことからしてひ弱なモヤシのように育って、自らして生きていくその自力自信・精神力が欠如していて多くの他力が無くしては生き辛い事にもなっている事実があります。


また自信の無さが不信感や孤独感や空虚感になったり、
また不安心配恐れになって、それが守り闘う守り意識を持つことになり、その裏返しから自己主張や堅持誇示することになり、それが私は正しいになり、不都合な悪は成敗排除してもかまわないと言う集合意識の正義感にもつながっています。

だから完全真理が説くところの自己縮小にも絶対的に自力自信・精神力が必要としています。
すなわち自己縮小からして人間に必要な精神力が高まり磨かれるのです。
そして不満不足や不安心配・恐れを持つことにならなくなるのです。


またその自力と自信の精神力からして、その立場や状況環境がどうであれ、食って寝て糞をしながら何とか生きていけるのも人間だからです。
だから地球上のいたる所で多くの人が生活しています。


ところが欲を持つことからしてその人間関係がおかしなことにもなっています。
もし欲張らずに自然体で生きていれば人間関係も自由平等調和になります。

その欲を叶えるためにも他力が絶対的に必要となりますが、
その原因に己の(自力の無さ)弱さが有り、その弱さを克服することよりも(手っ取り早く)(良いとこ取りして)その弱さをカバーするために他力を必要としているのです。

だから欲張らないためにも(欲ボケにならないためにも)精神力が必要なのです。
だから(当然ながら)自己縮小が必要になるのです。

なのに欲ボケから他力依存や他力に期待するのはその精神力の弱さにあります。

だから自力自信の精神力を磨き高めなければ人間として生きているその真価・価値を見い出すことは出来ません。

だから死んだも同然の生き方になっているとも言われるわけです。

だからそのためにも自力を多く使うことになる自己縮小が必要なのです。


なのに神懸り奇跡を信じて頼り、その先々の安心安全を期待するのも、弱い精神であり(死んだも同然の)(人間失格の)(欲ボケ精神からの)虚しさが漂うような哀れな人生になるのです。


また孤独と自由が寂しいと思うのも精神力の弱さの現われです。
また何かと否定反発したがるのも不信感が強くて精神力が弱いからです。
また不平不満が出やすいのも自分の精神力の弱さや欲ボケにあります。

だからこそ人間関係がおかしなことになるわけです。
そして比較競争の自己拡大の欲で生きることにもなっているのです。

そして多くの人が同じように欲ボケしていますから、自分までが欲ボケしていることにまったく気付かないだけです。

だからこそ宇宙・神によって生かされ生きているその人間であるためにも絶対的に自力と自信による確かな自己縮小が必要なこと、
また他力依存の自己拡大の欲ボケ集団(集合意識)から脱することになるその自己縮小が、
自信自力の精神力を高める事になることを再認識する必要があるのです。

その自己縮小の結果からしてこの世の落ちこぼれ劣等生に見えても精神世界では優等生となるのです。
そしてその自力自信の精神力からして心にゆとりが生まれ、それが一般的な有事や真坂の有事や天変地異にも動じない(貧することも病気や死も恐れない)(自然体で生きる)精神力を養い育て磨くことも出来るのです。