この世はすべて必然で成り立っています。
だから精神世界を学ぶ形も必然からしてあります。
また趣味嗜好娯楽を必要とする人のためにその形があります。
しかしそれらは必要・必然とする者に限られます。
また欲しがっている物のバーゲンに縁があるのも、目の前にあるその縁を見逃すのも、その時の意識が原因からして仕組まれたご縁と必然の関係になります。
また精神世界に係わるために仏門に下ったり、または恋人や夫婦関係に支障が出たのも、その意識が原因の必然の結果でありそのご縁があったといことになります。
だから精神世界を学ぶ必要がある人にその精神世界を学ぶ形が色々とありますが、その精神世界を必要としていない人にはその形が必然ではなくして無用になります。
しかし触らぬ神にタタリなしの人が何か困ったときに神様仏様を求めることになりそれがいつしか神も仏もあるものかに様変わりするのも自分の都合からです。
だから自分の都合・欲から求めた必然の形にはその裏の不都合が隠れています。
しかし自分の意識が原因からして仕組まれた(予測外・偶発的)ご縁から始まるのは必然性があってのことですが、そのご縁が(良かれ悪しかれ)必然から起きたことと気付かなかったりまた否定反発排除することになればそのご縁必然が無縁無用になります。
そのご縁必然を意識している私だけに、ふと何かに気付いたことも必然ご縁として無視否定反発しないままにそれに従います。
またご縁が続いている限りいつしかその縁から別なご縁に巡り会えてまた更なるご縁につながっていくことにもなりますから、
だから最初の些細なご縁からしてつながり続けて(捜し求めたわけでもないのに)自分の人生に変化をもたらすご縁にもつながっていくのです。
だから捜し求めなくてもその意識が原因から仕組まれる必然ご縁からして向こうからご縁あってやってきます。
だから(欲張らなくても)しぜんに与えられ恵まれるまで慌てず騒がず静かにして「待つ」ことが精神世界で言われているわけでもあります。
だからこそ成り行き任せの来るものは拒まず去るものは追わずの自然体の心構えで今までやってこれました。
そして妻と離れ離れになって暮らすようになったのも必然ご縁の成り行きなのですが、
その妻が私を必然(必要)とすることよりも、その妻の思い(自由意志)が優先された、そのご縁と必然からして別居になっただけのことです。
すなわち妻と一緒に過疎地で暮らすことを提案したが否定反発されたことからして致し方なく別居となりましたが、それも必然ご縁だからして、その妻を無理に従わさせることなくほっといていますが、
それが現在も続いているだけのことです。
そのお陰で私も妻から束縛制限されることの無い自由になれたのです。
だから前もって私が自由を求めたたり、
また自己縮小の必然からして過疎地暮らしになったのではありませんで、
すべてが必然ご縁の成り行きです。
そして結果的にしがらみから離れたその自由からして精神的な負担が無くなって心身ともに軽やかになり、その一年後に完全真理にご縁必然があったことからしてそれが自己縮小に当てはまり、
欲を出して生きることよりもその欲を出さない生き方のほうが精神世界に似合っていることが判っただけに、それが大いに自信にもなったわけであり、こうしてブログを書き続けることにもなったわけです。
だから「自由」を書き、「否定反発」しないこと、
そして他力依存よりも「自力」とその「自信」を主に書いています。
その否定反発しないことが「成り行き任せ」であり、
その他力依存が消えてそれが自力と自信の「食って寝て糞をする」だけのその欲も無理も執着もない謙虚で素朴な生き方に通じているのです。
だから前頭に書いたように一般世間が必然としていることの多くがいつの間にやら私には必然性が薄くなり、それが結果的には世間離れした生活になっているだけです。
そして無理をしていないからそれが無駄なことや余計なことにもならないから、結果的には精神的にも肉体的にも楽チンで物質エネルギー的にも省エネの生き方になっているわけです。
そんな私の自叙伝風の書き込みが精神世界の学びにつながっているのですから、
しかも完全真理が基本だけに矛盾も妥協も言い訳正当化もまた誇張も装飾演出も無く、その真理にも道理にも沿った書き込みになっていると思っています。
しかし耕栄さんの完全真理や私のブログの内容からしても、その実際の実践が無ければその価値・真価・真実事実が見い出せないのに、
その実践がどうやら一般的には相当無理な気がしていますから、
どうやら無用の長物にもなりそうなその気配が(仲間の此れまでの経緯からしても)感じられますので、
そうなるとこのブログの書き込みを続けても結局は無駄になりそうなのですが、
それでも書き続けているのは
不完全で矛盾のある信仰宗教や邪な意識の霊能者や超能力者に惑わされる人が出ないようにと、
また他力依存やその思惑期待からして離れないでいる信者意識の人にもその過ちに気付ける様にと、
また不平不満から始まる様々なマイナス感情が出てくるのは、人様が原因ではなくして己の意識に原因があること(すべては己の意識が原因であること)(意識が原因の世界であること)を自覚納得できる人が増えることを願って書いています。
だから精神世界を学ぶ形も必然からしてあります。
また趣味嗜好娯楽を必要とする人のためにその形があります。
しかしそれらは必要・必然とする者に限られます。
また欲しがっている物のバーゲンに縁があるのも、目の前にあるその縁を見逃すのも、その時の意識が原因からして仕組まれたご縁と必然の関係になります。
また精神世界に係わるために仏門に下ったり、または恋人や夫婦関係に支障が出たのも、その意識が原因の必然の結果でありそのご縁があったといことになります。
だから精神世界を学ぶ必要がある人にその精神世界を学ぶ形が色々とありますが、その精神世界を必要としていない人にはその形が必然ではなくして無用になります。
しかし触らぬ神にタタリなしの人が何か困ったときに神様仏様を求めることになりそれがいつしか神も仏もあるものかに様変わりするのも自分の都合からです。
だから自分の都合・欲から求めた必然の形にはその裏の不都合が隠れています。
しかし自分の意識が原因からして仕組まれた(予測外・偶発的)ご縁から始まるのは必然性があってのことですが、そのご縁が(良かれ悪しかれ)必然から起きたことと気付かなかったりまた否定反発排除することになればそのご縁必然が無縁無用になります。
そのご縁必然を意識している私だけに、ふと何かに気付いたことも必然ご縁として無視否定反発しないままにそれに従います。
またご縁が続いている限りいつしかその縁から別なご縁に巡り会えてまた更なるご縁につながっていくことにもなりますから、
だから最初の些細なご縁からしてつながり続けて(捜し求めたわけでもないのに)自分の人生に変化をもたらすご縁にもつながっていくのです。
だから捜し求めなくてもその意識が原因から仕組まれる必然ご縁からして向こうからご縁あってやってきます。
だから(欲張らなくても)しぜんに与えられ恵まれるまで慌てず騒がず静かにして「待つ」ことが精神世界で言われているわけでもあります。
だからこそ成り行き任せの来るものは拒まず去るものは追わずの自然体の心構えで今までやってこれました。
そして妻と離れ離れになって暮らすようになったのも必然ご縁の成り行きなのですが、
その妻が私を必然(必要)とすることよりも、その妻の思い(自由意志)が優先された、そのご縁と必然からして別居になっただけのことです。
すなわち妻と一緒に過疎地で暮らすことを提案したが否定反発されたことからして致し方なく別居となりましたが、それも必然ご縁だからして、その妻を無理に従わさせることなくほっといていますが、
それが現在も続いているだけのことです。
そのお陰で私も妻から束縛制限されることの無い自由になれたのです。
だから前もって私が自由を求めたたり、
また自己縮小の必然からして過疎地暮らしになったのではありませんで、
すべてが必然ご縁の成り行きです。
そして結果的にしがらみから離れたその自由からして精神的な負担が無くなって心身ともに軽やかになり、その一年後に完全真理にご縁必然があったことからしてそれが自己縮小に当てはまり、
欲を出して生きることよりもその欲を出さない生き方のほうが精神世界に似合っていることが判っただけに、それが大いに自信にもなったわけであり、こうしてブログを書き続けることにもなったわけです。
だから「自由」を書き、「否定反発」しないこと、
そして他力依存よりも「自力」とその「自信」を主に書いています。
その否定反発しないことが「成り行き任せ」であり、
その他力依存が消えてそれが自力と自信の「食って寝て糞をする」だけのその欲も無理も執着もない謙虚で素朴な生き方に通じているのです。
だから前頭に書いたように一般世間が必然としていることの多くがいつの間にやら私には必然性が薄くなり、それが結果的には世間離れした生活になっているだけです。
そして無理をしていないからそれが無駄なことや余計なことにもならないから、結果的には精神的にも肉体的にも楽チンで物質エネルギー的にも省エネの生き方になっているわけです。
そんな私の自叙伝風の書き込みが精神世界の学びにつながっているのですから、
しかも完全真理が基本だけに矛盾も妥協も言い訳正当化もまた誇張も装飾演出も無く、その真理にも道理にも沿った書き込みになっていると思っています。
しかし耕栄さんの完全真理や私のブログの内容からしても、その実際の実践が無ければその価値・真価・真実事実が見い出せないのに、
その実践がどうやら一般的には相当無理な気がしていますから、
どうやら無用の長物にもなりそうなその気配が(仲間の此れまでの経緯からしても)感じられますので、
そうなるとこのブログの書き込みを続けても結局は無駄になりそうなのですが、
それでも書き続けているのは
不完全で矛盾のある信仰宗教や邪な意識の霊能者や超能力者に惑わされる人が出ないようにと、
また他力依存やその思惑期待からして離れないでいる信者意識の人にもその過ちに気付ける様にと、
また不平不満から始まる様々なマイナス感情が出てくるのは、人様が原因ではなくして己の意識に原因があること(すべては己の意識が原因であること)(意識が原因の世界であること)を自覚納得できる人が増えることを願って書いています。