孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

豊かな「感情体」で生きることよりも、自力自信の豊かな「精神体」で生きることが重要になります。

2012年02月26日 | Weblog
完全真理を学び知った私達はこの世の形やその人間関係が不完全である事に気付きました。
そしてその原因意識である「良い悪い」で判断する事を無くする実践を試みましたが、それが絶対的に無理だとわかりました。
そこで判断して思ったことに「執着」しないことを実践する自己縮小・素朴・過不足のない普通に生きる実践をすることになりました。

ところが既に自己拡大をしてきた過去・しがらみがありますからそう簡単ではありません。
それに感情が豊かでその優しさ思いやりの人情・愛情を出している人も大勢いますから、困っている人を見て(ほっとけずに)手を差し出すことが当たり前に思っている人もいますが、それが執着とは気付かずにそれが善行・恩返し・孝行になると思っていますから、その自分の思いを成す事に(特別な)生き甲斐を感じたりして一生懸命頑張ることにもなっています。

しかしそれは良い悪いで判断している不完全意識の者が同じ不完全意識の者を救い助けても同じ不完全な結果しか出てこない事・事実に気付いていないからです。

また困っていること自体が神仏や人様の他力・お蔭で解決することは絶対にありませんが、それでも、その優しさ思いやりの親切に感動したりすることにでもなれば、その感動を胸に入れてその類似・物真似に挑む人もいるでしょうが、しかし、それも自分の思いですから、その思いを成そうとすることは(自分の都合が含まれた)自己拡大になります。
だからその時々の途中結果に自己満足したり不平不満になったりする繰り返しが続くだけで完全解決には絶対に到りません。

それでも、その繰り返しが続くその矛盾を味わうことが、いつしか完全意識を説く完全真理に活かされるときが来れば、それが無駄にはなりません。

だから病気になって健康の有難さを知るように、また死にかけて生きていることの有難さを知るように、また苦楽を味わい知ってその苦楽のない生き方に満足するように、また人様の成す優しさ思いやりにも裏心があることも知り、それら不完全を味わい知ったからこそ宇宙・神・愛の完全を学び知り気付くように、その不完全と完全の両方を味わい学び知ることが人間の役割と使命だと気付けば、そこで自己拡大が止まり自己縮小の実践が進むことにもなるのです。

そして「困った」と思うことが自分の執着だと気付き、その執着をなくして忘れることができれば、その困ったことから開放されて、その問題が自らの中で解決できたことになるのです。
だから「困った」困ったと連発している人を気軽に救い助けることよりも、またそれら人様のことに気を病むよりも、先ずは自分の意識を改革することが先決なのですが、それでも、それら困っている人が自ら解決できるように完全真理の真理を教える(アドバイスして)ことは出来ますから・・・未熟な者同士で共に歩む事を促すほうが親切とも言えますから・・・そこで(親切心から)(巷の信仰宗教の布教勧誘のように)完全真理の布教活動をすることにもなります。

しかしそれも無理押し・押し付けすることではありませんから(不完全意識の者同士だから深く関わることなく)、やはりその人達の自由意識に任せてほっとく事になります。
そこで「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁のお仕組み任せ・自然体の成り行き任せになるのです。

また身近な人達や自らが有事に遭遇して被害者・被疑者・被災者になっても、それに執着すればするほどに自分が困った事になるだけで何ら解決には結び付きませんし、その自分の思いに反して(その思い入れが)人様に迷惑をかけていることも十分ありますから、そんな済んでしまった過去のどうしようもない事に気を病む事無く、早く忘れ去ることが出来るだけの精神力・自力・自信も必要になるのですが、それにはやはり完全真理の深い理解とその実践が無ければ無理なようです。

だから前もって思い考え予測することよりも、すなわち先々に執着して前もって(苦と楽に)気をもむ事よりも、また過去の事に執着して気をもむ事よりも、その時その時の出たとこ勝負の「今を生きる」のが肝要になるのですが、それが自分の意識が原因で仕組まれ起こる必然ご縁の成り行き任せに生きることになります。

そのためにも、何事にも<否定反発>しないで「知りたがる」「やりたがる」実践力も必要なのですが、それが見掛け先入観・潜在意識や価値観やで勝手に判断して「食わず嫌い」のままに終われば、如何に優れた学識知識教養があっても、まだ未知の事を味わい知らない無知な人や自力自信・精神力の少ない人になるとも書いているわけです。

また私が感情の薄い非情とも薄情ともとれる(感情不要論ともとれる)事例や生産性の低い内容を多く書いているのも、不完全なこの世の形の中やその不完全意識の者同士では「どうしようもない」事・事実に早く気付いて納得確信になることを願っているからです。
そして(世間で喜ばれる)豊かな「感情体」で生きることよりも、(この世でもあの世でも役立つ)自力自信の豊かな「精神体」(意識体)で生きることからして、その「意識・命の世界」の完全真理・完全意識により早く近づけると(私は)思っているからです。