孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

結果は同じ一つなのに、不満な人とその結果に満足な人との二つの結果が出るのがこの世です。

2012年02月06日 | Weblog
この世に偶然はなくて、すべてが意識が原因の必然ご縁のお仕組みで起きている事を書いていますが、その人間の意識は一つしかありませんから同時に複数の事を意識することは出来ません。
だから意識する事をあれこれと切り替えながら、その意識する事を違えています。
また一つの事に集中していても、雑念の如くに別な事が意識をよぎると、その事に意識が使われます。

ところで衣服のバーゲンを意識しているときに、それがチラシとして既に仕組まれていて、そのチラシに気付くことがあれば、それが偶然ではなくして意識していたからこそ気付けた必然ご縁になるわけです。
しかし前々から意識していた家電商品のバーゲンが仕組まれていても、それに気付かずに見落としていれば、その意識力が原因でその必然・チャンスにご縁がなかった事になりますし、また衣服のバーゲンを意識している人に家財道具のバーゲン情報を教えても概ね余計なことで無駄になります。

その事例として、先日10数年以上も前にネットビジネスと摩訶不思議にご縁があった人から電話が掛かってきましたが、その目的は摩訶不思議ではなくてネットビジネスの勧誘でしたので、私は精神世界一筋で過疎地で暮らしていることを説明して、そのご縁であれば聞く耳はあるが、それ以外にはまったく関心がない事を説明してそこで終わりました。
すなわち過去の意識が原因の今回の仕組み(情報)に、私の必要性・必然が無かったためにそのご縁がそこで終わるのです。

そのネットビジネスの事例を完全真理に置き換えてみるとよく判るのですが、過去に摩訶不思議や想念の世界でご縁があった人に私が電話で完全真理を熱心に勧誘しても、その相手が必要としていなければ(聞く耳もなく)断わられるのは当然ですから、結果的には余計な事を無理にして無駄になった事になるわけです。

だから完全真理にしても摩訶不思議なファバラ製品にしても、私方から出向いてまでも(執着・繰り返し)勧誘宣伝することは(数年前に卒業していますから)ありません。
それに準じているのが、私の思いに人様を巻き込まないこと、すなわち良かれと勝手に思って提言・売り込み・無理押ししないままにして「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁の成り行きに任せにしていることです。
そしてそれが気楽で楽ちんだと実感を込めて書いているわけです。

しかし世間一般では、自分が良かれと思った事(親切・善意・善行)に何かと人様(身近な人を含めて)を引き込み巻き込もうとしていることが多いのですが、その必然ご縁の内容が如何なることであっても、すべてが余計なことで無駄になることです。
それは人それぞれに意識が違っていていますから、その思いもそれぞれに違ったものを持っていることからして、その不調和の(交じり合わない)意識が原因だからその結果が出るのです。

ところで自分が納得して十分に思っているつもりでいても、しかしそれでも、それとは違う異種を宣伝勧誘されて惑わされる事になるのもあるのですが、それは自分に自信がないその意識が原因で起きた必然ご縁になります。
だから宗教思想から完全真理に来る人も居れば、その反対もありえるのです。

だから見える世界のバーゲンセールでも、また見えない世界・精神世界のことであっても、すなわちこの世の結果であっても、またあの世へ逝ったときのその結果であっても、その人の意識が原因の必然ご縁の仕組みの結果がでるだけです。

だから(意識している事に仕組みが起こることですから)、その意識をわざわざ行為行動表現の形にしなくても、すなわち余計なことや無理なことに頑張り通したその結果であっても、また食って寝て糞をしているだけの結果であっても、その原因意識は同じ不完全ですから、どちらにしても似たような(不完全な)結果になります。
だからどうせなら無理をしないで楽ちんに生きているほうが苦労しないで済むというものです。
しかしそれが嫌で精出し苦労をしたがるのも(人それぞれに)自由です。

この世では行為行動表現を意識して出して、その結果を出して「見せ」なければならないように思っている人が多いのは事実です。
・・・過去の私がそうでしたから、皆様も同じだと勝手に思って書いていますが・・・
その好意行動表現を意識して出さない「自然体」の必然ご縁の成り行き任せの結果となれば、その結果を人様に自慢して見せるような形の結果というよりも、出して見せることが出来ない精神面での結果が多いだけに、それを言葉にして書いたり話したりは出来るが、しかし自分の意識の中にあるものを十分に伝えることは無理です。

また人様に「見せ付ける」ようなことに頑張り努力無理しても、その一時の自己満足を味わえることがあっても、その結果は不完全ですから、いずれ自分の思惑と違った結果になるのがこの世です。
すなわち、わざわざ「形」にして見せたがるということは、自分の意識の中にある本物ではなくて(原因ではなくて)、偽り装飾・思惑・欲がらみですから、その偽善・思惑・欲がらみのその意識が原因のその不完全な結果しか出てきませんから、時間と共に変化して自分の思惑通りの結果とは違った形(世間で言う裏切り)にもなるのです。

そして頑張り通して苦労している人も、食って寝て糞をしているだけの人も、その不完全意識は同じです。
しかし喜怒哀楽を意識して暮らす人と、その苦楽を意識しないで暮らしている人とは、その不完全意識は同じでも、その生活の有様がぜんぜん違ってきます。

また喜怒哀楽に意識が縛られている人と(執着している人と)、その苦楽に意識を使っていない人とでは、その意識の使い方・あり方が違っていますから、精神面や肉体面で忙しい思いをしている人と心身ともに余裕のある人とに分かれます。
そして忙しい思いをしている人には、人生行路の赤や黄や青の信号が意識の世界で仕組まれていても、それに気付かずにやりすごすことが多くなりますが、余裕がある人はその都度その仕組みに気付くことが多くなります。

しかも同じ仕組みの原因と結果であっても、その人の意識の持ち方次第で、その結果も違って受け取ります。
だから、ある人は少ないと思うかもしれませんが、それで十分だと感謝になる人もいます。
だから結果が地獄に思える人には地獄になりますが、天国だと思える人には天国になります。

すなわち結果は同じ一つなのに、その結果に不満な人とその結果に満足な人との二つの結果が出るのです。
だから同じ不完全意識の同じ結果であっても、自己縮小している人ほど「アリガタイ」が多くなるわけです。
だから「あなたなら、どうしますか」とブログを書いているのです。