孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

田舎暮らしで、価値観・自己満足ではない、足りるを知る満足を味わっています。

2009年10月09日 | Weblog
田舎暮らしといえば・・・快適便利な街中の暮らしぶりを田舎に持ち込んでいる人も居ますし、創作活動を静かな田舎でやっている人も居るし、自給自足のような暮らしをしている人も居るし,無農薬の自然栽培をしている人や昔の暮らし・知恵を実践している人と、いろんな場合があるとは思いますが、生活様式や住む場所を変えてみただけの人が多いと思います。

私の場合はそれらに当たらないと思っています・・・確かな収入源は国民年金の月5万円ですが・・・ 
真理で言われる生老病死を気にしないで、喜怒哀楽や比較競争を無くして、守り闘わない実践を意識しておりますし、自己満足で現実から逃避する趣味嗜好娯楽は必要なくなっているし、大元の原因を知っているから世間の話題や問題にこだわることもないし、同じように世間的な慣例風習や道徳や常識に束縛制限されたくないから、当然ながら必要最低限のお付き合いにもなりますし、来るものは拒まず去るものは追わずの自然体で接することにもなり、ご縁お仕組みの必然で人と接することにもなり、その多くは私と同じ完全真理意に目覚めた仲間の人や真理を知りたがる人やブログの仲間になります。

見栄や世間体やしがらみを持っていないし、特に定まった仕事や作業も無くて・・・時々ご近所のお手伝いやアルバイトが有ったりしますが・・・季節ごとの草刈と犬や鶏に餌を与えるくらいですから・・・一般的な生活様式や慣例に束縛制限されることが無い代わりに・・・暇で退屈することになりますが・・・それだけに「完全真理」の実践を意識していることが多いので・・・そのことをブログに書き込む時間は十分にあります。

また・・・過去の世間体や見栄やしがらみ・自縛から開放されただけに今更見栄や世間体を気にすることもなく、当然ながら世間の常識・風習・伝統・道徳の不完全を悟り知っていますから、そのことについて気にしたり迷い悩むこともありません。 そして世間的な冠婚葬祭・お祝いやお見舞いごとに関わることを遠慮していることを予め説明して理解していただいております。

そして質素倹約を「目指している」のではなくて・・・使えるものを無駄にしたくない、また新品でなくても無料で頂いた中古・リサイクル品でも十分だと納得して使っているし、それらを汚れて不潔・古臭い・かっこ悪い・不便に思うこともなく、いま有るものや使われなくて放置されているものなどを創意工夫して使う面白さや自分で修理修繕して使える限り使い続ける面白さを知ったのです。

だから・・・落ち目が原因で稼ぎがなくて貧乏をしているのではなくて・・・「月5万円の年金で生きるのに困らないから」・・・仕事で稼ぐ必要がなくなったのです。

また食事時に関係なく「空腹」になってから食べますから何を食べても美味しく味わっていますし、保存の利く塩サンマや塩さばを焼いて食べるのが何度続いても「美味し」ものになりますから、他の値段の高い食材を選んで食べなくても十分満足していますから、いつもの買出しで買うものが概ね決っています。 そして必要なものの中で売れ残りの値引き商品があればそれを喜んで買っていますし、果物も安いバナナやミカンを美味しく頂いていますから、他の季節の果物を欲しがって食べることはありません。

だからこそ・・・時折り季節の果物や、盛り合わせの刺身や寿司や、手作りの寿司ご飯や赤飯やお餅などを親切に頂いたときは、人様から頂いた喜びと、それが食べられる喜びと、いつもとは違う味を美味しく味わえる楽しさがありますから、まだ食べてもいないうちから何だか豊かな気持ちにさせてくれます。

だから・・・過去の贅沢三昧・快適便利な生活を追い求めていたことが・・・すべて自己満足だったことが分かったのです。
そんなことから・・・暇で退屈しているのに山の中で何とか暮らしていけるし、幸せとか充実しているとかではない・・・過不足のない調和のある暮らしに満足しているようです。

その田舎暮らしで味わい知ったことにあるのが・・・ 車は車の価値があれば十分ですから、新品で輝いていなくても中古や凸凹やサビ付いていても、車の価値・役割に「差」は無く同じなのです。 それを良い悪い・優劣・損得の値打ち・価値観で評価判断しているのは見栄や世間体・プライドを満たす自己満足になるのです。
だから・・・生活様式全般(衣食住や必需品や付帯する諸々)を含めて、それらを良い悪いの価値観で判断しなければ自己満足の贅沢も無くなるのです。

だから思惑期待を叶えてくれる、無理して得る自己満足よりも・・・ いま有るものに満足を知る、無理なく得たり与えられたものに満足する、過ぎた特別を望み求めない・・・ けち臭い質素倹約でもない、不足不満でもない、足りる満足を知ることで・・・ 他の人はどうであれそれをいちいち気にせずにいれば、自分の生き方に安らぎ安心と自信めいたものが味わえることから・・・生活様式・状態に関係なく・・・生きていることが何となく楽しい事になるのです。

そして・・・生きることに必要が無い特別なものは捨てたことだし・・・意識的には衣食住や健康や寿命さえも、それを「失う」ことに不安も恐れも消えかけていますから・・・失うことから守り闘うことになる未練執着も消えかけていますから・・・ 過去未来に拘らないで、束縛制限の無い自由を誰気兼ねなく楽しんでいられるのです。

だから何かと・・・良い悪いの喜怒哀楽・生老病死を押し付けられ、先入観で決め付けられ、束縛制限支配され、比較競争の勝ち負け・優劣・損得の差で見られ、表面とは違う裏心では否定反発・不信感で見られ、矛盾することをいい加減な妥協や言い訳正当化で誤魔化されたりしているから、生きることだけでストレス・気兼ね・気疲れになる、そんな矛盾・不完全なこの世の仕組みや人間関係や生活を大事に守り闘わないで、また見栄・世間体・プライド・しがらみ・理想や欲望などの背負った荷物を置いて身軽になれば・・・その分だけ世間の他力や金銭物質に頼らないですむことから・・・やる気・自信・自力があれば・・・不自由しない自由とその独自の生き方を味わい楽しめるようです。

★参考★
大勢の人が身近にいても・・・人それぞれの意識は・・・私が優先の自己中心・個人意識ですから・・・人それぞれが別なことを意識して生きています(しかも個人意識の不完全意識ですから、愛の完全意識からは離れています) ・・・だから皆と一緒にいても互いの意識は別々に離れています。
しかも・・・人は「意識で生きて」いますから、それぞれの意識が離れた関係なら・・・皆と一緒にいても孤独関係になります。
・・・生まれる時も、生きている時も、死ぬ時も、人間は孤独なのです。

だから不完全な関係(自分さえ良ければ)自己中心の関係であっても・・・人が寄り集まったり肌を寄せ合ったりしていなければ<生きた心地>がしないのです。
その生きた心地の「心地」は=(生きている実在・存在ではなく)=「存在感」になります。
・・・だから実在で「生きている」のではなく、生きている感じの「つもり」ですから・・・生きていることの価値は実在しなくなります・・・だから代わりに存在感の価値観を示しては自己満足し、その存在感・価値観を人様に知って認めて欲しくて自己主張し、更にその存在感・価値観を高めるために己を顕示したり誇示しているのです。

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