この世には上下左右がありますが、その中心点が基本ですから、その中心点が精神世界の真実だと思います。
然るに良いが上なら、悪いが下になり、その中間の普通の事実が真実になると思います。
ところが一般的には少しでも良くなろうと上を目指すために(気に入らない)下の悪いことを排除したがります。
また特別にも上と下があります。
だから特別上になろうとすると下の特別なことを排除しなければなりません。
然るに生きるための衣食住からはじまるすべてに言えることです。
だから時代と共にそれらが特別に進化発展してきました。
また善人になるために悪人を排除しなければなりません。
然るにイエスがサタンを滅ぼしたように、
また勝てば官軍負ければ賊軍のように
然るに正義聖戦と名目が付けられるように、
とにかく気に入らない悪を否定反発排除したがる、気に入らない悪い人を懲らしめたがることにもなっています。
なのに良い人&善人を目指す人が絶えません。
何たって世間に注目され目立つ存在でいられるからです。
ちなみにブログの世界の中にも良い人ばかりです。
然るに学識知識教養が豊富な良い人、冒険探検・体験経験・見聞の豊かな良い人、伝統風習や儀式儀礼の道に長けた良い人、善行奉仕・援助救済に関わる良い人、人の体や心を癒すことが出来る良い人
またそれら良い人が人を集めて良いことを言うと、それをわざわざ聴きに行く良い人もいます。
とにかく己が良い人になろうとすると己が気に入らない諸々を否定反発排除することになっていることにまったく気付いていないのです。
然るに私は正しいと思い違い自惚れ慢心しているのです。
ところで暮らし向きを上下に例えれば、私の暮らし向きは下に見えますが、しかし私の中では上下に関係の無い普通なのです。
すなわち暮らし向きに関係ない精神世界の中で生きていこうと実践しているからです。
だからカッコ良くも悪くもありません、普通のつもりです。
ただ一般の人から見ればカッコ悪い老人になります。
まして精神世界で生きる実践をしているとは考えも及ばないことでしょう。
然るに(私の妻のように)誰に遠慮する事無く(家族に気兼ねする事無く)好き勝手なことばかりしている我が侭な人に思っているかもしれません。
まさか欲張らない実践をしているとは考えも及ばないことでしょう。
然るに頑張りが足りないお粗末な生き方に見えることでしょう。
また世間の伝統風習(冠婚葬祭や先祖供養を含め)や道徳を良いと肯定したり悪いと否定もしない生き方(気にしないでほっとくこと)からして、世間ではへそ曲がり・変わり者に思う人が多いことでしょう。
だから上も下も右も左もなく、また肯定して(美化して)担ぎ上げることも否定して(下方に)蔑むこともない、そんな真ん中で普通に生きることを実践しているなんて思いもよらないことでしょう。
ところがしかし私が正しいとは思っていません。
何たって生まれながらに天子とサタンの善玉と悪玉を併せ持っていますから、どうしても良い悪いで判断してそれが自己満足にも不平不満にもなります。
ところが幸いにも過疎地で単身暮らしになっていることからしてこの世人間関係から開放されて自由に生きていることや楽に生きるために欲張っていないから、然るに自己満足も不平不満になることも殆ど無く、然るに無理することも我慢することも余計なことも無く、ただ食って寝て糞をしているだけのような生き様になっているだけのことです。
だからハッキリ言って過疎地で暮らしていることからして(概ねながら)精神世界で生きる実践が可能になっているだけのことです。
然るに思い込み自惚れ慢心(私は正しい)はありません。
ただ日々思い付いたこと・気付いたことを書いて投稿しているだけです。
だから投稿した文書内容が記憶に残りません、何故でしょうか?
然るに良いが上なら、悪いが下になり、その中間の普通の事実が真実になると思います。
ところが一般的には少しでも良くなろうと上を目指すために(気に入らない)下の悪いことを排除したがります。
また特別にも上と下があります。
だから特別上になろうとすると下の特別なことを排除しなければなりません。
然るに生きるための衣食住からはじまるすべてに言えることです。
だから時代と共にそれらが特別に進化発展してきました。
また善人になるために悪人を排除しなければなりません。
然るにイエスがサタンを滅ぼしたように、
また勝てば官軍負ければ賊軍のように
然るに正義聖戦と名目が付けられるように、
とにかく気に入らない悪を否定反発排除したがる、気に入らない悪い人を懲らしめたがることにもなっています。
なのに良い人&善人を目指す人が絶えません。
何たって世間に注目され目立つ存在でいられるからです。
ちなみにブログの世界の中にも良い人ばかりです。
然るに学識知識教養が豊富な良い人、冒険探検・体験経験・見聞の豊かな良い人、伝統風習や儀式儀礼の道に長けた良い人、善行奉仕・援助救済に関わる良い人、人の体や心を癒すことが出来る良い人
またそれら良い人が人を集めて良いことを言うと、それをわざわざ聴きに行く良い人もいます。
とにかく己が良い人になろうとすると己が気に入らない諸々を否定反発排除することになっていることにまったく気付いていないのです。
然るに私は正しいと思い違い自惚れ慢心しているのです。
ところで暮らし向きを上下に例えれば、私の暮らし向きは下に見えますが、しかし私の中では上下に関係の無い普通なのです。
すなわち暮らし向きに関係ない精神世界の中で生きていこうと実践しているからです。
だからカッコ良くも悪くもありません、普通のつもりです。
ただ一般の人から見ればカッコ悪い老人になります。
まして精神世界で生きる実践をしているとは考えも及ばないことでしょう。
然るに(私の妻のように)誰に遠慮する事無く(家族に気兼ねする事無く)好き勝手なことばかりしている我が侭な人に思っているかもしれません。
まさか欲張らない実践をしているとは考えも及ばないことでしょう。
然るに頑張りが足りないお粗末な生き方に見えることでしょう。
また世間の伝統風習(冠婚葬祭や先祖供養を含め)や道徳を良いと肯定したり悪いと否定もしない生き方(気にしないでほっとくこと)からして、世間ではへそ曲がり・変わり者に思う人が多いことでしょう。
だから上も下も右も左もなく、また肯定して(美化して)担ぎ上げることも否定して(下方に)蔑むこともない、そんな真ん中で普通に生きることを実践しているなんて思いもよらないことでしょう。
ところがしかし私が正しいとは思っていません。
何たって生まれながらに天子とサタンの善玉と悪玉を併せ持っていますから、どうしても良い悪いで判断してそれが自己満足にも不平不満にもなります。
ところが幸いにも過疎地で単身暮らしになっていることからしてこの世人間関係から開放されて自由に生きていることや楽に生きるために欲張っていないから、然るに自己満足も不平不満になることも殆ど無く、然るに無理することも我慢することも余計なことも無く、ただ食って寝て糞をしているだけのような生き様になっているだけのことです。
だからハッキリ言って過疎地で暮らしていることからして(概ねながら)精神世界で生きる実践が可能になっているだけのことです。
然るに思い込み自惚れ慢心(私は正しい)はありません。
ただ日々思い付いたこと・気付いたことを書いて投稿しているだけです。
だから投稿した文書内容が記憶に残りません、何故でしょうか?