孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「困って」苦しむ悩むのは自意識過剰・執着・自我・エゴによる自分勝手なものです。

2010年09月13日 | Weblog
人間は意識で生きていますから、その意識が原因で様々な結果・形が現れています。
しかも人間は良い悪いで判断した自分の思いを優先する自分さえ良ければの個人意識を皆が持っていますから、自分の都合が良いことは取り入れても都合が悪いことは否定反発排除したがります。

また自分の良いところを人様に見せたがりそれを認めてもらいたい思いを持っていますから、それが好きな人だったり信頼尊敬からあこがれている人だったりすると、なお更に自分を良く見せよう良く思われようと外見を整えたり気配りしたり親切心を出して見せたりして、それらの人に好かれようと頑張り努力することにもなり、その結果から互いが満足し合える関係になれば身近な人としてお付き合いのご縁が始まります。

それが恋人関係だったり師弟関係だったり職場関係や交流関係に見られますが、ところが両者互いが満足し合えなくなればその関係に支障が出てきたりして長く続かなくなります。 それが夫婦家族や親子親戚関係でも同じです。
しかし良く思われよう良く見られようと努力しているうちの「満足し合える」関係が維持できている内は何とか長続きするが、その思いも人様々ですから必ずしも絶対的に満足し合える関係ではありませんから、その関係も不確かなものになっています。

その不確かな関係・不完全な関係・不調和の中で暮らしているのが私たち個人意識の人間です。
それを知ってか知らずか、いずれにしても今の自分に「都合が良い人」なら何とかして好かれよう気に入られよう認めてもらおうと努力・協力することは怠りません。

それが特に身近な恋人や夫婦や親子関係であれば互いが満足し合える関係を保つために努力を惜しみません。
だからそれが衣食住や財であったり趣味嗜好娯楽であってもその満足を叶えようと頑張り続けます(私もそうでした)、ところがそれら自己満足は切がありません。
それでもその満足を与える事が愛情になっていますから、様々なことで気に入られるようにと次から次と何とかしながらも完璧なまでにその愛情を注ぐ人も居ます。

だからその満足し合える関係を壊そうと邪魔するものがあるとそれらと闘って守るための見えない壁も必要になります。
それが常識だったり伝統風習や道徳と言うような見栄や世間体の形・壁で否定反発排除することになるが、それが結局は自らを束縛制限しているのです。

それが自己満足し合える恋心・愛情であり、しかもその恋心・愛情によって自らの自由を失っているというわけです。
しかもその恋心や愛情とやらで関係・形が次第に変化拡大(恋人・夫婦・親子・家族)してきたはずなのに、ちょっとした不調和・不信感から裏が出る裏切り切捨てがあるのも不完全な人間関係だからです。

ところで「苦楽を共にして」「共に協力し合う」ことも大切ですが、それによって互いの自由を束縛制限支配するようになればそれは不完全な協力関係ですから不調和(不足・悩み・苦・不信感)が出てきて長続きしません。
だから此れまでの努力が報われずに水の泡となって消えることに気付きますが、しかしこれまでがんばり続けていただけに・・・そんな結果になれば見栄・世間体・プライドからも、また優劣の劣や損得の損や負け犬に思えることからも、その言い訳・正当化や妥協したりしながらも、また裏心・偽りを隠してまでも、また不調和であることを誤魔化してでも、また自分の都合や依存心からも、共に歯車が噛合わなくても、また自力の少ない自分の為にも協力し合いながら共に生きることを望む場合もあります。 

そんな不完全な協力関係をいくら強固に築き上げていても、その形関係やその意識関係の崩壊がいつの日か必ず来るのです。
そこで<アリガタイ>「お陰様」「お互い様」の調和のある完全な協力関係で皆が共に生きる実践を求められているのです。

また生きている事が<アリガタイ>ことだと知れば本当に困る(苦悩)こと、「真に困る」ことには絶対なりません。
それが例え死に目に遭う様なことであっても・・・(死ぬ時が来たら死ぬだけのことですから)(生まれたからには死ぬのは当然のことですから)(死ぬのが早いか遅いかだけのことであって)・・・特別何ら困ったことではなくなるのです。
・・・その死さえも困ったことでなくなれば・・・<困ったと思うものの全が困ったことではなくなり>・・・己の不平不満・不安心配恐れの自意識過剰の自我・執着や欲得損得の過ぎた欲やの自分勝手な思惑や都合やエゴで悩み困っているのだが、それら自分の裏を隠すために言い訳・正当化・理由付けしていることに自らが気付きます。

だから私としては・・・不完全な己の判断・思いから人様の事に口出し手出しすることが親切心からであっても、その殆どが(互いの思いの歯車が噛合わずに)余計なお世話やお邪魔虫や無駄なことにもなりますから、気心が知れた人や身近な家族親戚関係の人であっても何かと思い止まるようになりました。
だから申し出があったときや何らかの必然・ご縁があったときにしています。

ところがその申し出やご縁の多くが、その人の自力を使わずにして(自分の勝手な都合や生産性の低いことや面倒くさいことから逃げたくて)他力を使いたがる人が多いのも事実です。
それでも私が暇で退屈しているときが多いだけに、その申し出が苦とはならずに出来る限りのお手伝いをしていますから、それが人の為にもなり自分の為にもなっていることからして、わりと気軽な気分で役割を果たすことが出来ています。

またその為にも、まず自分が困ったことにならないように常日頃から自力を多く付け、その自力を多く行使するためにも・・・不完全な人間関係に巻き込まれて無駄な時間や意識エネルギーを浪費する事が無いように注意して、どうでもいいような余計な重荷を背負わないように身軽に振舞い・・・その心身ともに軽やかに自由勝手・呑気・気ままに暮らすことで何ら「困った」ことにならないから、それが私には好都合なのです。


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