孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

衣食住に恵まれた=地上の天国=を味わいながら精神安定にして静かに暮しています。

2016年01月08日 | Weblog
このブログで些細な事を根堀り葉堀り書くのも、始まりの小さなことが次第に大きくなっている事実からして、原因は小にありとして書いています。
然るに「諸悪の根源である不平不満」の原因を詳細に書く事にもなっているのです。

ところが世間一般的には、やるからには大きなことを理想目的にして目指し頑張るのが常道みたいになっています。
しかし大きなことを考えるから、それなりに無理をすることになるし、その無理からしてうまい具合に行かないことも当然ながら多くありますから、大掛かりになるほど不満も多くなるのが事実にあります。

だから大きなことから始めようとすれば無理難題が伴うが、先ずは小手試しから始めていけばリスクも少なくて気楽にやれます。
そしてそれがうまい具合に行きだすとそれが自力自信にもなるし、それが徐々に加速して行けば当然ながら嬉しくも楽しくもなります。
ところが限界が見えだして、それ以上がどうやら無理だと判断すれば私は其処で止まることにしました。

然るに無理をせずにして始まり、それがうまい具合になって喜べるし、そして無理をしないままに終わるから、不平不満も未練後悔も執着もなく、自分では納得して終われるのです。
そして次なる目新しいことを見つけては、これまた小手試しから始めてきた、その繰り返しからして現在があります。

然るに自らがやりたいことからして始めたことが何とか順風万風に進んでも、そこで先行きに限界が見えだすと其処で止まり無理しないから、
結果的にはうまい具合に行って、うまい具合に卒業した、ことになるのです。
だから大物にはなれなかったが、目新しいことを先駆け多くを経験してきたのです。

然るにビデオ事業も現在の過疎地暮らしも小手試しがうまい具合になっただけです。
だから此れまでの私の人生で無理らしい無理はしていません。
然るに成り行き任せにもなっているのです。

ところで変化刺激にも大小の特別と普通があります。
そして概ねにして特別ばかり追いかけているから、普通の小さな変化刺激がつまらなくなっているのです。

ところが暇で退屈すようになってからは素朴謙虚な中に程よい変化刺激があることに気付き、然るにそれだけで十分にもなりました。
例えば丸太割がスコーンと快音を出してスパッと決まれば快感になります。
ところが上手くいかなければ不快になりますし、そのあとが面倒なことにもなるし、余分な力を出すことになるので疲れます。

然るに些細な事でも快感と不快の裏表を味わいます。
だから何か事を成すことが多いほど不満も満足も多くなります。

だから余計なことを無理しないで謙虚で静かに暮らしていれば(何事もなくて)それだけ矛盾を味わずに済みますから(退屈するが)苦楽のない心穏やかな普通が続きます。
※些細な事ですが…この意味・理屈・道理がしっかり伝わったでしょうか?

ちなみに薪で沸かした風呂なら皆さんも憧れるでしょうが、実際にやってみればその苦楽もついてくるのです。
特に冬場は体の芯まで温まりますから体にいいのですが、その薪割りの苦労から、寒い外での焚きくべも数回になりますから、スイッチポンとはいかないのです。
然るに素朴な風呂にも苦労がつきものですが、それでも暇な時間つぶしには好都合だから薪割りを含めて苦にもならずに出来るのです。

と言うことからして私は必然ご縁に限り動いています。
然るに余計な事・無駄な事を成しません、だから暇で退屈します。
しかしそれでも「苦労」を買って出るような(偽善になる)愚かなことはしません。

とにかく衣食住に恵まれたこの世=地上の天国=を素朴に味わいながら出来る限り精神安定にして静かに暮したいだけです。

そして精神の安定こそが精神世界が目指すところなのです。

もしそれ以外に何か目指していることがあればそれは特別な欲絡みのはずです。

だから成しえたと思えても自己満足ですから、その裏で必ず不平不満が出てくるし、それが大きいほどその苦と楽が大きく出てきますから、結果的には喜怒哀楽が伴い中途半端で納得できないままにして精神が安定することはありません。

何たって偽善者が始めたことだからその結果も矛盾偽善が出て当然になるし、その偽善の積み重ねが続くだけになります。

だから素朴謙虚にして見栄張らずに生きて行くしか他に道はないのです。

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