孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

皆が同じ真実の神ではなくて、個人が判断した「私の神」を説いているのを信じる形が信仰宗教にあります。

2011年10月05日 | Weblog
始まりなき終わりなき元からある宇宙・万物・すべては「ひとつ」ですから、(世間で言う)神も「ひとつ」です。
その「ひとつ」しかない神なのに(何故か)太古の昔から様々に違った多くの神が説かれ語られてきました。
と言うことは皆が同じひとつの神ではなくして、私が判断した私だけの「私の神」を語っていたという事になります。

だからその神同士の比較競争・差別があったり、私の神が正しいと自己主張することにもなったり、時には神同士が争い戦うことも度々ありましたし、未だに勢力争いで布教・侵攻・侵略を繰り返してもいます。
そして今も相変わらず次から次と新たな神・私の神を説く者が現れ出ています。
その原因にあるのが、ひとつの神に、人それぞれが思い考え判断したその想念(個人の意識)が加わっているからです。

だから個人意識の不完全な神と言われるわけです。
だからそれらの神を信じる人もいれば否定反発する人もいるのです。
そして「信じる」ということは、確かな<事実>(神)を知らないからです。
だから事実<本物>を知れば「信じるか否か」には絶対になりません。

しかし事実・本物を知ったかぶりしているだけの人も大勢います。
だから「自信」がありませんから、皆して寄り集まり集合化し、その皆の様子を伺うことにもなっていますし、そこででも比較競争意識を持つことにもなっています。
また「自力」が少ないだけに、その分だけ「他力」をあてにします。
だから神がかり的な人や奇跡を成して見せる人に魅せられ憧れ敬いもします。

それと同じく山田耕栄さんの説く完全真理も「ひとつ」です。
その「ひとつ」しかない完全真理を様々に判断すると不完全になるかもしれませんが、しかし真理が矛盾も妥協もない完全なだけにその判断を加えようもなく、またその判断を無理に加えようとすれば必ず矛盾や妥協が入って不完全になりますから、誰がどう言おうとも、その完全真理が矛盾も妥協も無く完全な限り(それを見極めることが出来れば)惑わされることにもなりません。

その矛盾も妥協もなく完全な真理だけに、また完全で実在する神を説いていて「信じるか否か」も無いのだから、それを疑い不信感になることは絶対にありません。
ところがおかしな事にあるのが、完全で絶対の完全真理を学び知るのが基本なのに、余計な事に意識が奪われて、例えば耕栄さんやファバラやそのスタッフや仲間内に不信感を持ったがために、その肝心要の完全真理から離れて行く(変な)人が多いのです。

人間であれば不完全意識がいつ出ても不思議ではありません。
またファバラのような奇跡的な結果を出すものでも、その「形ある」ものは不完全ですから、自分の思い通りにはなりません。
それが不信感になっても仕方が無いのですが、そこで、何で、完全真理にまで不信感を持って離れて行くのでしょう。
その主な原因が理解力の欠如にあります。
だからそれが実践力の欠如にもなっています。

しかしそれもどうやら、自らの本心・本音から真の神・真実事実を知りたかったのではなかったようです。
もし本心からして真の神を知りたかったのであれば、それを知ることの出来る完全真理から離れて行くことにはなりません。
それとも、自分の思い考えている目的理想と違った、自分に不本意・不都合な真理だったのかもしれません。
また、なんら「特別」のない完全真理とは知らずに、何がしの特別を望んで学んでいたのかもしれません。

その完全真理の理解力・実践力の欠如につながるのが(私から言えば)「知りたがる」意識の欠如だと思っています。
私の場合、自分の思考や不信感でもって否定反発することよりも、それではどうなるの、何でそうなるのと、その素朴な疑問・違和感を解いて無くする為に意識し、それを知りたいが為にそれが意識に残り続けた結果、(この世は意識の世界ですから)(必然ご縁の仕組みから恵まれ)いつの日かふとしたきっかけで「気付き」が起こり、それが自覚納得・悟りになっていったのだと思っています。

とは言っても、熱心とか真剣とか集中とか、また執着とは違います。
まず成り行きまかせに生きている呑気さがあること、また深く思い悩み心労したり思考錯誤や葛藤すること(執着)がないこと、また過去や未来の事に未練やこだわり執着がないこと、だから不安心配・怒り恐怖がなくて、体力疲れ過労がないこと、また衣食住に気遣うことも少ないこと、だからその分だけ意識が開放されているだけに気付きが起きやすいようです。
だから耕栄さんが言った「素朴」であれば何とななるという言葉に自信と納得確信になったわけでもあります。

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