孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

欲張ることの罪悪感からしてその欲張ることを美化した言葉があります。

2014年12月10日 | Weblog

自分さえ良ければの個人意識&不完全意識&矛盾意識からして良い悪いで判断してその良いとこ取りをしたがる欲があります。
然るに悪いとこ取りしたがる人は居ないはずです。

ところが悪い事と知りながらも自分に都合が良くなるようにしてその偽善を働くことがありますが、それは悪いとこ取りではなくして、それも良いとこ取りになります。

また欲張ることを善しと思う人は(こころよく思う人は)あまりいないと思います。
だから使う言葉を変えて、頑張る、努力する、張り切る、熱心・熱中・集中・夢中になる、入魂・精魂をこめる、修練・鍛錬する、研究探究する、根性、成せばなる、諦めないでやり遂げる、極意を極める、危険を覚悟にやる・命をかけて冒険探検する、超人的・前人未到に挑む等々の言葉で美化したがります。
然るにこれ等は差を付けたがる特別意識にあたります。
また働かざるもの食うべからず、貧乏に暇なし、雑草の如く、波乱万丈、またアリとキリギリスやウサギと亀のたとえ話もあります。

ところが欲張らないでも、持って生まれた個性役割&特性才能からして、当たり前の如くに・普通に出来る人もいます。
然るに頑張っているように見えても普通にやっている人もいます。

ところが差をつけたがる比較競争や見栄やプライドからしてそれ以上をマスターするために頑張り欲張る人もいます。

ちなみにいつも通りにやっているうちにふと気付きそれが創意工夫となってその結果が出ることもあります。
また何となく思い付いたことをそれなりにやっているうちにそれが楽しくも面白くもなったりしてその価値に気付いてやっている人もいるはずです。

その場合は前もっての思い思惑&理想目的&期待願望&欲張りの先付けではなくして、必然ご縁の成り行きからして出た結果の後で気付く後付けの結果になるのです。

ところがまた同じ結果を出すために、すなわち予め先付けしてまで無理はしません、
何故なら、そんな事をしたら心身ともに疲れることに既に気付きそれを自覚しているからです。

然るに途中で飽きていやになればその途中でやめるなり、またやる気になるまで休みます、だから無理して疲れることにはなりません。

それだけに尚のこと、いやいやながらやることの心身のストレスに気付きますから、然るに自ずとやる気にならなければ無理に始めません。
然るに心の余裕(自由)時間の余裕(自由)が無ければ疲れるのです。

ところがこの世は欲張らなければ損をしているように思える世の中ですから、然るに日々忙しく慌しく、然るに心身に余裕が無くて、その不平不満とその自己満足の山あり谷ありの苦楽&矛盾が当たり前のようになっています。

然るに欲張ることを美化した言葉に惑わされていることにも気付けないのです。
そして石橋を叩いて渡る不信感を持っているのに、なのに皆して赤信号を渡ることになっている、その事実に気付けないのです。

だからこの辺で苦楽の繰り返しの生き方をやめるための欲張らない自己縮小の実践が必要なのです。

然るに生きていくために「今を生きる」ようになり、然るに先付けで思い思惑&期待願望&念願祈願する事も無く、またそのプラスアルファーを(先付けで)望みません。然るに成り行き任せになります。

また生きるため以外の不要なもの&趣味嗜好娯楽や名誉名声権威権力やその比較差別意識&見栄や世間体のプライド&私は正しいの守り意識などを捨て去り、然るに身軽になり、誰からも束縛制限されない自由を大切にして生きるようになります。

また何事にも執着しなくなれば心静か心安らかになります。
そして不完全な矛盾のあるこの世人間関係などの未練&執着も無くなり、然るに孤独や死を恐れなくなり、そして心安らかに死を迎えて成仏できることを望むくらいです。

ちなみに私は飛び立つ鳥跡を汚さずの如くにして(多くの人を面倒に巻き込まずに)今の孤独のままに死することを覚悟しています。

然るに私の死を騒がずにして受けとめてもらい、また死後のことも騒がれずにして、然るに常識や伝統風習&見栄や世間体などから余計なことをしないでほっといて欲しいのです。

そのために(屍を解剖した後で法要供養して遺灰にしてくれる)献体登録をしています。

然るに未練&執着が多い人ほど孤独や死が不安になり恐れるようです。

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