人間として生きている中に「至福の時」「調和で生きている時」があれば、何が無くても、それで十分になります。
それを満足と言うでしょう、それを幸せと言うでしょうし、愛を感じている時と言うでしょう。
それも特別な事をしているときのことではなくて、静寂のときであったり、情緒であったり、会話・団欒・料理を囲んでいるときであったり、軽やかな作業をしているときだったりします。
だからディズニーランドで過ごすことやハワイや沖縄へ旅立ったり北海道でスキーを楽しんでいるときやの特別な一時的な行楽娯楽よりも一般的生活の中のごく有り触れた中にある「至福」「調和」です。
そして孤独で味わえることよりも人との交わりで味わえるほうが味わい深くもなります。
そして何よりも「調和の会話」が続いているときが人間同士の親交を味わえ更に深めます。
だから(私としては)地域の人たちが集り山道の路肩の草刈に精出したあとのしばしの休憩のときに道端に座り込みお茶しながら雑談しているときに至福・調和があればいいわけです。
しかし残念なことに皆が不完全意識だけに自惚れや見栄を張るものがいたり比較競争意識や不信感・否定反発があったりするので十分ではありません。
また子供であれ大人であれ何かと忌み嫌うことや好き嫌いが多いほど一緒にいてもその雰囲気が失せてきます。
それが臭い・汚い・暗い・危ない・怖いであり、また不機嫌になって疲れたなどと言われると雰囲気が台無しになります。
だから不完全意識の比較競争・差別意識・特別意識があれば至福・調和は無理なわけです。
だからこそ!(簡単ではないだけに)生きている中で味わえる「至福」「調和」に<真の価値>があるわけです。
しかしそれに気付いていないだけに物質金銭的な衣食住や趣味嗜好娯楽の形やの自己満足を欲しがるわけです。
だから比較競争差別意識を持っているのは事実です。
だから忌み嫌い否定反発しているのも事実です。
だから自由平等調和の人間関係になれるはずもないのが事実です。
だからどんなに愛情深い人でも偽善者です。
またどんなに信心深くても偽善者です。
私達人間は生まれながらにして偽善者なのです。
その偽善の我が身や身近な人をどんなに守っても偽善に変わりはありません。
そしてその偽善のままに人間を終える事を繰り返してきた事実があります。
そんな不完全な人間関係では至福・調和を味わえないことからして、一人歩きの独自独歩の自力と自信でその至福・調和を味わえる意識になっていく実践しかないのも事実です。
それが共に歩めるのであれば今や完全真理が花盛りになっていて当然ですが、現実では同じ屋根の下で暮らしている中でさえも別個・孤立している事実があるように絶対的な無理があるのです。
だから見栄や世間体やご都合主義やから脱する取り組み実践をおろそかにして偽善者のままでいたがるところがありますが、それが守り意識でもあるのです。
その守り意識に自由があるはずもありません。
自由が無ければ不自由・不平等・不調和なのは当然です。
だから否定・反発・差別することにもなるのです。
しかしその自己保身・守り意識を捨てることから自由が得られます。
しかしそれも実践せずに何かと言い訳正当化して守りたがります。
それは偽善者同士が互いの傷をなめ合う(癒し合う)(ご都合主義で助け合う)関係のほうが(偽善者同士であることも忘れて)居心地がいいからです。
ゆえにいつの日か(互いが)「裏切」られたという思いを持つことにもなっている現実・事実があります。
だから偽善の者が成すことが偽善で終わるのも当然の結果です。
しかも自分がその偽善者だとも気付かないでカッコつけている人も多いのです。
だから性懲りなくまた偽善を繰り返すことにもなっているのが事実にあります。
そんな偽善を性懲りなく繰り返す輪廻を終わらすことが出来るのは<自分自身>です。
だから奇跡を成す人や神懸りの人の他力依存や願望・祈願は通用し無いのです。
だから自分を捨てる、我を捨てる、偽善を捨てる、思い思惑を捨てる、欲を捨てる、無理をしないで生きることのその楽ちんで生きることの余裕からして精神世界に目覚め気付くしかありません。
それが「完全真理」を学び知り気付くことです。
それを満足と言うでしょう、それを幸せと言うでしょうし、愛を感じている時と言うでしょう。
それも特別な事をしているときのことではなくて、静寂のときであったり、情緒であったり、会話・団欒・料理を囲んでいるときであったり、軽やかな作業をしているときだったりします。
だからディズニーランドで過ごすことやハワイや沖縄へ旅立ったり北海道でスキーを楽しんでいるときやの特別な一時的な行楽娯楽よりも一般的生活の中のごく有り触れた中にある「至福」「調和」です。
そして孤独で味わえることよりも人との交わりで味わえるほうが味わい深くもなります。
そして何よりも「調和の会話」が続いているときが人間同士の親交を味わえ更に深めます。
だから(私としては)地域の人たちが集り山道の路肩の草刈に精出したあとのしばしの休憩のときに道端に座り込みお茶しながら雑談しているときに至福・調和があればいいわけです。
しかし残念なことに皆が不完全意識だけに自惚れや見栄を張るものがいたり比較競争意識や不信感・否定反発があったりするので十分ではありません。
また子供であれ大人であれ何かと忌み嫌うことや好き嫌いが多いほど一緒にいてもその雰囲気が失せてきます。
それが臭い・汚い・暗い・危ない・怖いであり、また不機嫌になって疲れたなどと言われると雰囲気が台無しになります。
だから不完全意識の比較競争・差別意識・特別意識があれば至福・調和は無理なわけです。
だからこそ!(簡単ではないだけに)生きている中で味わえる「至福」「調和」に<真の価値>があるわけです。
しかしそれに気付いていないだけに物質金銭的な衣食住や趣味嗜好娯楽の形やの自己満足を欲しがるわけです。
だから比較競争差別意識を持っているのは事実です。
だから忌み嫌い否定反発しているのも事実です。
だから自由平等調和の人間関係になれるはずもないのが事実です。
だからどんなに愛情深い人でも偽善者です。
またどんなに信心深くても偽善者です。
私達人間は生まれながらにして偽善者なのです。
その偽善の我が身や身近な人をどんなに守っても偽善に変わりはありません。
そしてその偽善のままに人間を終える事を繰り返してきた事実があります。
そんな不完全な人間関係では至福・調和を味わえないことからして、一人歩きの独自独歩の自力と自信でその至福・調和を味わえる意識になっていく実践しかないのも事実です。
それが共に歩めるのであれば今や完全真理が花盛りになっていて当然ですが、現実では同じ屋根の下で暮らしている中でさえも別個・孤立している事実があるように絶対的な無理があるのです。
だから見栄や世間体やご都合主義やから脱する取り組み実践をおろそかにして偽善者のままでいたがるところがありますが、それが守り意識でもあるのです。
その守り意識に自由があるはずもありません。
自由が無ければ不自由・不平等・不調和なのは当然です。
だから否定・反発・差別することにもなるのです。
しかしその自己保身・守り意識を捨てることから自由が得られます。
しかしそれも実践せずに何かと言い訳正当化して守りたがります。
それは偽善者同士が互いの傷をなめ合う(癒し合う)(ご都合主義で助け合う)関係のほうが(偽善者同士であることも忘れて)居心地がいいからです。
ゆえにいつの日か(互いが)「裏切」られたという思いを持つことにもなっている現実・事実があります。
だから偽善の者が成すことが偽善で終わるのも当然の結果です。
しかも自分がその偽善者だとも気付かないでカッコつけている人も多いのです。
だから性懲りなくまた偽善を繰り返すことにもなっているのが事実にあります。
そんな偽善を性懲りなく繰り返す輪廻を終わらすことが出来るのは<自分自身>です。
だから奇跡を成す人や神懸りの人の他力依存や願望・祈願は通用し無いのです。
だから自分を捨てる、我を捨てる、偽善を捨てる、思い思惑を捨てる、欲を捨てる、無理をしないで生きることのその楽ちんで生きることの余裕からして精神世界に目覚め気付くしかありません。
それが「完全真理」を学び知り気付くことです。